守りたいものが 4
彼の漆黒の髪が、かすかに揺れる。
顔を上げ、軽く頭を左右に振った。
ふっと、息を吐く。
ぱちん。
彼は、指を弾いた。
その音だけが、室内に響いている。
「やあ、愛しい人」
跪いて手を伸ばし、シェルニティの頬にふれた。
涙で指先がぬれていく。
「遅くなってしまって、すまない」
彼女の周りで動きを止めた鉛玉が、涙の形になって融けていた。
ぽたりぽたりと、床に向かって滴っている。
「リ、リン……リンクスが……」
「もう、平気だろう、リンクス? シェリーに甘えたいのはわかるがね」
「え……?」
シェルニティに抱きかかえられていたリンクスが、渋々といった様子で体を起こした。
傷は、すっかり癒えている。
鉛の球を止めると同時に、治癒を施したからだ。
「あまり無茶をするものじゃないよ。シェリーを、こんなにも泣かせるとは、許しがたいことだ」
「納屋に閉じ込める、だろ?」
「わかっているのなら、よろしい」
彼は、シェルニティの手を取り、立ち上がらせる。
それから、ぎゅっと抱き締めた。
「私を呼んでくれたね、シェリー」
言葉もなく、シェルニティは、じっと彼を見つめている。
涙は止まっていたが、まだ瞳は潤んでいた。
「きみなら、きっと、ここに来ると信じていたよ」
シェルニティは、周囲の状況を把握する能力に長けている。
きっと、落ち着いて観察し、推測を重ね、この場所に辿り着くに違いない。
それだけが「頼みの綱」だった。
シェルニティはもちろん、アリスにリカ、リンクス全員を救うための。
「私も……あなたを信じていたわ……きっと……夕食までには帰って来るって」
「少し遅い夕食になりそうだがね」
「いいのよ。だって、料理をするのは、あなただもの」
彼は、シェルニティに、にっこりしてみせる。
今夜は、いつもより豪華な夕食にしようと思った。
なにしろ、彼女をひどく怖がらせてしまったのだから。
「どうやって出て来たんだ? あの術式は完璧だったはずだ」
シェルニティを背中に庇い、彼は、カイルに向き合う。
本当は、すぐにでも森に帰りたい気持ちだ。
彼にとって、シェルニティ以外は、どうでもいい。
もちろん、ウィリュアートンの3人も「付属」として救う必要はあった。
とはいえ、それはあくまでも、シェルニティが悲しむからに過ぎない。
シェルニティはリンクスを可愛がっているし、馬のアリスは彼女のお気に入り。
リカが死ねば、アリスは落ち込んで、変転しなくなるかもしれないし。
つまり、カイルのことなど、心底、どうでもよかった。
彼を囚われの身にしたのは、称賛すべきだろう。
だとしても、彼は、すでに「囚われの身」ではない。
「シェリーが、私を呼んだからさ」
「そんな声は、聞こえなかったぜ?」
「きみには、聞こえなかっただろうが、私には聞こえるのだよ」
シェルニティが命の危険に晒されていたと、知っている。
自らの「死」を感じた時、彼女が呼ぶのは、彼の名だ。
クリフォード・レックスモアに殺されかけた時も、そうだった。
「そうだろう、きみ」
「ええ……心の中でだけ……あなたを呼んだわ」
カイルが、皮肉っぽく笑う。
自らの計画が破綻したことを、自嘲してもいるのだろう。
カイルの策は、彼を閉じ込めておくことで、初めて成立するものだ。
カイルは、己の力を正しく認識している。
今のカイルには、彼をどうすることもできない。
まったくの無力なのだ。
「テディ」
「は、我が君」
「嫌な役をさせてしまったね」
「いえ。ですが、シェルニティ様に、あのようなことをしなければならず、それを残念に思っております」
セオドロスが、彼の近くで跪いたまま、シェルニティに頭を下げる。
セオドロスも、シェルニティを攻撃したかったわけではない。
ただ、彼女に「命の危険」を感じさせる必要があったのだ。
シェルニティには「個」の絶対防御がかかっている。
イノックエルのところへ行く前に、かけていた。
万が一に備えてのことだ。
シェルニティを傷つけさせないためではあった。
が、「個」の絶対防御には、あとふたつ効果がある。
(物理防御なしで、引っ叩かれたら、相当に痛いだろうなあ)
ひとつは、かけられている者の素力を向上させること。
通常の3倍近くには跳ね上がるのだ。
今の彼女と駆けっこをすると、並みの者では勝てはしない。
そして、もうひとつ。
絶対防御は、彼にしか使えない魔術だ。
直接、彼と繋がっていると言ってもいい。
とはいえ、常に発動しているわけではなかった。
シェルニティが「命の危険」を感じた時にのみ、発動する。
発動した瞬間、彼は、シェルニティと繋がった。
絶対防御という大きな力の外からの干渉。
室内にいた彼の中にある魔力は、それに呼応する。
その内と外から生じる2つの力が、刻印の術を打ち破ったのだ。
まさに、シェルニティに呼ばれたからこそ、彼は、ここにいる。
セオドロスは、それがわかっていたため、あえて彼女に攻撃をしかけた。
これがキサティーロだったら、シェルニティは命の危険を感じなかったはずだ。
面識がなく「よく知らない相手」だったからこそ、本気で殺されると感じた。
(こんな方法を取らざるを得なかったのは……本当に不快だ)
自分がカイルの策にはまったがゆえに、シェルニティを無駄に怖がらせている。
さりとて、これしか方法がなかったのも、確かなのだ。
(このようなことは、2度と起こさせない)
心の中で誓う。
万が一、ではなく、万々が一にも備えると決めた。
シェルニティには、さらに「過保護」と言われるだろうけれども。
「それで、俺をどうする?」
「どう、とは?」
「殺すんだろ?」
正直、殺したい。
危険な存在を排除すれば、最も手っ取り早く安全を手に入れられる。
カイルは、この先も、危険な存在であり続けるに違いない。
ここまでするには、並大抵の努力と忍耐ではなかったはずだ。
おまけに、ウォルトが死んでいる。
失った者の代償を支払わせたがるに決まっていた。
イノックエルを殺す程度ですませるのなら、見過ごしにできるのだけれども。
(そうはいかないだろう。それに……きっと、私が手をくだすのが最善だ……)
わかっている。
それが、最善なのだと、彼は、知っていたのだ。
「どうもしやしないさ。きみが、どのような感傷的な出来事を、心にかかえているかも、私は興味がないのでね。好きにするがいいよ」
「は……寛容なんだな」
「きみはシェリーを殺さなかったし、殺そうともしなかった、という点において、罰する理由を、どうも思いつけない。だが、これ以上は、やめておきたまえ」
彼は、最後の「忠告」をカイルに与える。
後悔したくなかったからだ。
そして、肩をすくめて、言った。
「これから夕飯を作る予定なので、実に迷惑なのだよ」




