垂らされた釣り糸に 4
こつん。
小さな音に、シェルニティは、びくっとする。
下では、まだ物音がしていたからだ。
こちらにまで、誰かやってきたのかもしれない。
思いながら、窓のほうに顔を向けた。
そして、ホッとする。
窓の向こうに、白い鳥がいた。
嘴で、窓をつついている。
シェルニティの部屋は2階。
窓の外には木もあった。
時々、鳥が来ることもめずらしくない。
シェルニティは、近寄って窓を開ける。
「今、取り込み中なの。あとで来てね。その時に、パンをあげるから」
言葉が伝わるとは思っていない。
ただ、動物には、なんとなく伝わるものがある。
アリスとの関係で、シェルニティは、そう思っていた。
「取り込み中なのは、知っておりますわ、シェルニティ様」
え?と驚いている間にも、なにかが室内に飛び込んでくる。
腕で顔を覆って、ぶつかるのを防いだ。
が、なにもぶつかってはこず、風が頬の横を吹き抜けた。
「こんな形での訪問を、お許しくださいませ」
この声には、聞き覚えがある。
腕を降ろし、シェルニティは振り向いた。
シェルニティは、わずかに後ずさる。
が、扉のほうには行けない。
そこには、予測通り、ラドホープ侯爵令嬢が立っている。
まるで、シェルニティが逃げるのを阻止しようとしているかのようだ。
というより、おそらく逃がさないつもりで立っているに違いない。
ラドホープ侯爵令嬢の表情が、そう語っている。
以前とは別人に見えるほど、冷たい目でシェルニティを見つめていた。
「どういうことでしょう? 下には誰がいるのですか?」
「私たちの仲間、といったところでしょうか」
「仲間……?」
ラドホープ侯爵令嬢、確か、名前はディアトリーという。
ディアトリーは、口調も冷たくなっている。
おどおどした様子もない。
(彼女は、カイルの知り合いよね……お父さまがお金を借りていて……)
シェルニティは、それでカイルに利用されているのだろうと考えていた。
父親の借金を盾に脅されている可能性もある、と思っていたのだ。
しかし、今のディアトリーの言葉からすると、脅されているのではないらしい。
ディアトリーは「仲間」と言った。
「それは、カイルの仲間、ということ?」
「そうですね」
「あなたも、カイルの仲間なのですか? 脅されているのではなくて?」
ディアトリーの瞳にある冷たさが、さらに増す。
シェルニティを見下しているのは明白だった。
こういう目には慣れている。
呪いがかけられ、頬に痣があった頃は、いつも、こういう目で見られていた。
「ああ、私の父の借金のことをご存知なのですね」
「ええ……カイルの友人に借りているのでしょう?」
「私のことまで事細かに公爵様はお調べになると、彼が言っていたけれど、本当に調べておいでとは思いませんでしたわ」
厳密に言えば、ディアトリーの父親が借金をしているのは、街の金貸しだ。
だが、その金貸しに金を貸しているのはカイルの友人であり、その友人もなにかカイルに借りがあるのだろう、と彼は言っていた。
そこまで調べられることを、カイルは予測していたのだろう。
事前に聞かされていたためか、調べられていたと知っても、ディアトリーは少しも動じていない。
「カイルは……あなたの大事な人……?」
初めてディアトリーの表情に、驚きの色が広がる。
ということは、自分の推測は当たっていたのだと、思った。
彼の言っていたように、ディアトリーは「親切心」から、シェルニティに前妻の話をしたのではないのだろう。
後日、屋敷を訪ねたことにも意味があった。
おそらく、彼を引き留めるためだ。
カイルが、シェルニティに薬を仕込む時間稼ぎのために。
さりとて、それは非常に危険なことでもある。
彼に露見すれば、ただではすまない。
わかっていて、ディアトリーは、その役を果たした。
脅されてもいないのに、そこまでできる理由は、ひとつしかない。
ディアトリーにとって、カイルが「大事な人」だからだ。
それこそ、命を懸けてもいいと思えるほど。
「ぼんやり生きてきた女性かと思っていたけど、そうでもないのね」
急に、ディアトリーの口調が崩れる。
シェルニティを対等と認めたからかもしれない。
「父のことなんて、どうだっていいの。私を、借金のかたに、売ろうとしたのよ? そんな男が父親だと言える? 身売りさせられそうだった私を助けてくれたのは、彼だった。彼がいなければ、私は、どこかの貴族の愛妾になっていたわ」
「彼に恩を感じているの?」
「いいえ。彼を愛しているのよ」
ディアトリーの瞳には強い決意が滲んでいた。
そのことに、シェルニティは、嫌な感覚をいだかずにはいられない。
人は、誰かのために、誰かを犠牲にする。
愛という感情は、時に、人を凶暴にするのだ。
シェルニティですら、己の中にある暗い感情に気づいている。
大事な人を守るためであれば、なんでもするだろう、という。
「私を連れて行くの?」
「それは、少し違うわね。あなたは自分から来るのよ、シェルニティ様」
ディアトリーが、なにかを取り出した。
それをシェルニティに見せる。
「ほんの少し前の写真よ。これは、あなたの大事な人?」
写真には、彼の姿があった。
どこかの屋敷らしい。
シェルニティは、ブレインバーグの屋敷にいた頃、ほとんどの時間を自分の部屋で過ごしている。
そのため、そこが父の別邸だとは知らなかったのだ。
「信じられる? 人ならざる者を囚われの身にしているなんて」
「彼を、どうするつもり?」
「人ならざる者には勝てない。殺すことは無理だわ。でもね、ずうっと閉じ込めておくことはできるのよ?」
ひゅっと、シェルニティの喉が音を立てる。
永遠に閉じ込められる彼の姿を想像して、恐怖に全身が震えた。
「なに? 公爵様だって、してきたことじゃない。生きたまま閉じ込められる側になったとしても、驚かないでほしいわね」
「やめて。私に用があるのでしょう? あなたの言う通りにするわ。それでいいのじゃないかしら? 彼には手を出さないで」
シェルニティは、強くディアトリーの瞳を見つめ返す。
感情が大きな渦となり、シェルニティをつつんでいた。
自分に戦う力はない。
彼を助けに行くことだってできない。
ディアトリーは愛する者のために、シェルニティを逃がしはしない。
けれど、自分も愛する人のために、戦う。
逃げはしない。
たとえ命を差し出すことになったとしても、だ。
「王太子殿下から指輪を渡されたわね?」
言われて、ハッとなる。
街で王太子に会った時、受け取れないと断ったはずだけれど。
シェルニティは、クローゼットにしまっていた、あの日に着ていた服のポケットを探る。
そこに指輪が入れられていた。
ディアトリーは、笑って姿を消す。
「それにふれてはいけません、シェルニティ様!」
キサティーロが扉を開いて、中に飛び込んできた。
シェルニティに手を伸ばしているのが見える。
けれど。
「ごめんなさい、キット。私、行かなくちゃいけないのよ」
シェルニティにも、守りたいものが、あった。




