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垂らされた釣り糸に 2

 宰相は、(ろく)に挨拶もせず、帰ってしまった。

 挨拶をしてほしかったわけではないが、あまりにも失礼ではないか、と思う。

 

「あんなふうに突然いらして、ほんの少し目を離したとたん、いなくなるなんて、とても大人のすることとは思えないわ」

 

 ナルやリンクスだって、もっとマシに挨拶くらいはするのだ。

 宰相は、宰相であるのだし、より洗練された大人の対応をすべきだろう。

 シェルニティは、宰相のこぼした紅茶を片づけ終えたキサティーロに、顔をしかめて見せる。

 

「そもそも、彼、いったい、なにをしに来たの? お茶をこぼすだけなら、なにもここでなくてもいいと思うのだけれど」

「宰相様は、お忙しいかたなので、急いでおられたのでしょう」

「だとしても、お行儀が悪過ぎよ。確かに、彼ではリンクスの躾は無理そうだわ。本人が、あんな具合ではね」

 

 シェルニティは、ちょっぴり不機嫌だった。

 そのせいで、ぷんぷんしている。

 リカラス・ウィリュアートンは、リンクスの父親だ。

 もしかしたら、実父は兄のほうかもしれないが、それはともかく。

 

「彼、いくつなの? 私より年上なのは間違いなさそうだったけれど」

「27歳にございます、シェルニティ様」

「まあ! 私より9つも年上なのね! 信じられないわ。27歳にもなって、お茶をこぼした上に、挨拶も謝罪もなく姿を消すなんて!」

 

 結局のところ、リンクスは、ナルの両親に育てられてよかったのかもしれない。

 シェルニティは、眉をひそめた。

 

「審議の時は、すごくきちんとしているように見えたのに」

「公の場と、そうでない時とでは、態度が違うのではないでしょうか?」

「そうね。でも、それなら、なおさらリンクスの父親としてはどうかと思うわ」

「宰相様なりに愛情を持って接しておられるようでしたが、伝わっているかは疑問が残るところにございます」

 

 シェルニティは、キサティーロに、うなずいてみせる。

 宰相が、リンクスを認めているのは、わかっていた。

 まるきり愛情がない、ということではないようだ。

 

「シェルニティ様」

 

 なおも、文句を言い募ろうとしたシェルニティに、先にキサティーロが声をかけてくる。

 なにか様子がおかしい。

 表情は、まるで変わらないものの、シェルニティを呼んだ声に、わずかな緊張が感じられた。

 

「キット?」

「別のお客様がいらしたようです」

「お客様、なの?」

 

 客と言ったけれど、どうも違うようだ。

 キサティーロが警戒しているのが、わかる。

 

「お部屋に戻って、お待ちいただけますか? 私が対応いたします」

「会う必要はないのね?」

「ございません」

「わかったわ」

 

 シェルニティは立ち上がり、階段のほうに向かった。

 なにか危険があるに違いない。

 面倒な客というだけなら、キサティーロは部屋に戻れとは言わなかったはずだ。

 戦うすべを持たない自分では、足手まといになる。

 

「気をつけてね、キット」

「お気遣いありがとうございます。多少、物音がするかもしれませんが、片づけはきちんといたしますので、ご安心ください」

 

 キサティーロにうなずいて見せてから、階段を上がり、部屋に入った。

 なにが起きているのか、気にはなる。

 それでも、よけいなことをすれば、逆にキサティーロを危険に(さら)すのだ。

 シェルニティは、ベッドの縁に腰かけた。

 

「彼……まだ帰って来ないわ……早く帰って来てくれないかしら……」

 

 彼は、キサティーロにシェルニティを任せている。

 つまり、キサティーロがいれば安全だということ。

 わかっていても、キサティーロになにかあったら、と思ってしまう。

 

「そう……こういうことなのね……大事な人が増えるって……」

 

 これまでのシェルニティには、大事な人がいなかった。

 彼に出会い、大事に想うようになるまでは、誰かを大事に想う、という感覚すらなかったのだ。

 周囲が彼女を大事にしなかったのと同じように、彼女も周囲に対し、ひどく遠くに感じていた。

 

 だが、今は違う。

 

 彼のことを大事に想っているし、彼の周りにいる人たちのことも大事だ。

 ナル、リンクス、それにキサティーロ。

 

「みんな、傷ついてほしくないわ……彼は、いつも……こういう気持ちの中にいるのね……私に傷ついてほしくないというのは……こういう……」

 

 ぎゅっと、両手を膝の上で握り締める。

 雨が降る前、空が急に陰るように、心に暗い雲が広がっていく気がした。

 どこから、こんな気持ちがわきあがってくるのか、わからない。

 人を大事に想う、それ自体は良い感情のはずだ。

 

 なのに。

 

 階下から物音が聞こえる。

 シェルニティは、思わず立ち上がった。

 扉に駆け寄りたくなったが、ぐっと(こら)える。

 

 もし自分に力があったら。

 

 苛立ちと腹立たしさ。

 不安や心配に、心が(さいな)まれていた。

 それらを払拭するためなら、どんなことでもしてしまいたくなる。

 彼のような力があれば、使っていたかもしれない。

 

「どうやって、自制しているの……?」

 

 彼は、見境なく力を使うことはせずにいた。

 シェルニティの命が危険に晒された時に初めて、力を使っている。

 思った時、気づいた。

 

 だから「たった1人」なのだと。

 

 誰も彼も助けようとすれば、見境なく力を振るわなければならなくなる。

 そして、彼には、それができてしまう。

 彼の力は大き過ぎるのだ。

 

 そのための線引き。

 

 大事な人というのは繋がり合い、どこまでも広がっていくものだから。

 愛する人、愛する人の大切にしている人、家族、友人、と。

 

「そうよね……彼の力は守るための力……でも、誰かを守るということは、誰かを犠牲にするということ……」

 

 守りたいもの。

 それは、人によって異なる。

 彼がシェルニティを守ろうとするように、彼の幼馴染みは息子を守ろうとした。

 今、キサティーロと相対している人にも、きっと守りたいものがある。

 

 『きみたち2人の幸せが、ほかの誰かの幸せを奪うものだとしても?』

 『誰かの幸せを踏みつけにして手に入れた幸せで、きみは幸せになれるのか?』

 

 王太子の言葉が、頭に蘇ってきた。

 シェルニティには「幸せ」なんて、わからない。

 けれど、自分の大事なものを守るために、誰かの大事なものを奪い、踏みつけにする、ということなのだろう。

 

 そこには、犠牲を伴うのだと。

 

 カイルを失えば王太子は嘆き、王太子を失えば彼の幼馴染みは嘆く。

 すべての人に、その「嘆き」は通じているのだ。

 大事な人がいない者以外は。

 

 実際、以前のシェルニティは、そうした嘆きの輪から外れていた。

 つい最近まで、わからずにいられた。

 

「なにもかも……わかっていて……彼は犠牲をはらうのだわ……」

 

 シェルニティだって、どんな犠牲をはらってでも、大事な人を守りたいと思う。

 けれど、大事な人が増えれば増えるほどに、はらう犠牲も多くなると気づいた。

 

 命の天秤。

 

 傾いたほうを守り、反対の側は切り捨てる。

 心に広がる暗い闇。

 

「どちらに天秤を傾けるかは……自分の選択……私が選ばなければならないのね」


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