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垂らされた釣り糸に 1

 彼は、ふっと足を止める。

 廊下に出てから、転移で家に帰るつもりだった。

 

「公爵様が、我が父と懇意であるのは、光栄の極みですね」

 

 声に、小さく息をついてから、振り向く。

 視線の先に、室内にいた男が、立っていた。

 右手を軽く腰にあて、小首をかしげている。

 これが夜会であれば、少しはユーモアがあると、評していたかもしれない。

 

 彼は、魔術を解き、姿を現した。

 男が笑みを浮かべながら、歩いてくる。

 

「わざわざ姿を現していただかなくても、見えていましたよ」

「そうだろうね。直感やなんかで、私がいると判断したとは思っていないさ」

 

 男は、それなりの貴族服に身をつつんでいた。

 この屋敷もだが、取り巻く物すべてが「それなり」だ。

 調度品しかり、仕立服しかり。

 

 2流とは言えないものの、1流とも言えない。

 

 そんなふうだった。

 理由は簡単だ。

 ここを、イノックエルは「別邸」としている。

 ブレインバーグの敷地の端にあり、本邸とは繋がっていない。

 

「それで?」

 

 彼は、冷ややかに、用件を訊ねた。

 男の態度が、あからさまだったからだ。

 意図的に、彼を挑発している。

 

「いえね、公爵様が、わざわざいらした理由に興味がわきまして、つい声をかけてしまっただけのことです」

「きみが言った通り、私とイノックエルとは非常に懇意な間柄でねえ。さっきまで一緒にグラスを傾けていたのだよ。彼が、ここに来たそうにしていたものだから、もののついでに送ってやったのさ」

「姿を隠して?」

「当然だろう、きみ。これでも、私は、ローエルハイドの当主なのでね。おかかえ魔術師の真似事をしているなんて、噂を立てられたくはないじゃあないか」

 

 男は、彼の軽口にも、動じていない。

 口に笑みを溜めたまま、さらに近づいてきた。

 なにかが、彼の神経に障る。

 不愉快とか不快といったものではなく、小さな蜂を目に()めたような感じだ。

 

 刺すかもしれないし、刺さないかもしれない。

 

 どっちつかずな曖昧さ。

 無視しようとしても、それは、意識の端に引っ掛かかってくる。

 追いはらおうが、叩き殺そうが、彼の自由だ。

 とはいえ、刺されてもいないのに、との気持ちもあった。

 

(刺されてからでは遅い、ということもあるが)

 

 男の意図を訊いてから、どうするかを決めても遅くはない。

 彼にとって、男は脅威ではないのだ。

 今のところ。

 

「きみも、病とは無関係に、薬を嗜むのかね?」

 

 男が、わずかに唇を横に引く。

 深い笑みは、愛想や親しみをこめたものとは別の類のものだった。

 嘲笑に近い笑いかたを見せている。

 

「貴族であれば、誰でも1度くらいは、薬を嗜みますよ、公爵様」

「どういう効果があるかにもよるがね」

「娯楽でしょう? どういう種類のものであっても」

 

 返事はせず、彼は、即座に転移した。

 森に帰りたかったが、そうもいかなくなっている。

 

「イノックエル!」

 

 がしゃん!と、音を立て、ティーカップが割れた。

 イノックエルが手にしていたものだ。

 

「飲んだのか?」

「い、いえ……こ、これ、これから……」

 

 驚きと恐怖でだろう、イノックエルの唇と手が震えている。

 その指先に、割れたカップの持ち手だけが残っていた。

 

「こ、公爵様……お、お帰りに……」

「帰りたかったがね。予定通りにいかなくなることもある。立ちたまえ」

 

 イノックエルの腕を掴み、無理に立たせる。

 彼は、イノックエルを引きずり、部屋の端に移動した。

 何が起きているのかわからないイノックエルは、されるがままだ。

 彼の背中に庇われていることに気づいてすらいないだろう。

 

「あなたが庇う価値のある男ですかね?」

 

 男が部屋に戻ってくる。

 とたん、イノックエルが声を上げた。

 

「ウォルト! 貴様、私に、なにをしようと……っ……」

「名で呼ばれたのは久しぶりですよ。いつも、お前だとか、そいつだとか呼ばれていたので、それが名かと勘違いしそうでした」

「誰のおかげで、そこまで……」

 

 前のめりになりかけているイノックエルを、彼が手で制する。

 ハッとしたように、イノックエルは、すぐに黙り込んだ。

 察しがいいのだ、シェルニティの父親は。

 

「それについては、少々、残念な報せがある」

 

 ウォルトと呼ばれた男より、ソファに座っていた女性が顔色を変える。

 それを見ても、ウォルトは笑みをなくさない。

 イノックエルも、その薄気味悪さに、もう気づいているはずだ。

 彼の背中に、ぴたりと張りついている。

 

(イノックエルに懐かれるなど迷惑に過ぎる。シェリーには悪いが……気色が悪いとしか言いようがない)

 

 ウォルトの薄気味悪さより、イノックエルにくっつかれるほうが不快だ。

 助け損なった、ということにしておけばよかったかと、ほんの少し悔やむ。

 が、どういう薬かもわからないのだから、死ぬとは限らない。

 おかしな魔術をかけられでもすれば、よほど面倒だと後悔を振りはらった。

 

「認めはしないし、サロンについての前言を撤回する気もないがね。きみの放蕩癖が役に立った、とは言えるな、イノックエル」

「さ、さようで……」

 

 意味のわかっていないイノックエルが、間の抜けた返事をする。

 彼は、ウォルトを見つめて、言った。

 

「なにしろ、彼は、きみとは血が繋がっていない。そこの女性ともだ」

「へ、へえっ?! そ、それは、いったい……」

「きみは、彼の父ではないし、彼は、きみの息子でもない、ということさ。きみが囲っている女性とも、なんら関わりはないから……簡潔に言えば、他人だね」

 

 彼には血脈が見えている。

 もとより、それを確認するために来たのだ。

 

「し、しかし……ウォルトは……これまで、ずっと……」

「きみの息子として振る舞っていただけだ。そこの女性も、息子ではないと知っていたのじゃないかな」

 

 彼は、婉曲な言いかたをする。

 察しのいいイノックエルのことだ。

 すぐに気づくに違いない。

 

「お、お前……っ……懐妊そのものが偽りであったのかっ?!」

「お、お許しを……っ……お許しください、旦那様……っ……」

「この……っ……」

「よさないか、イノックエル。彼女を責める前に、自分がしてきたことを振り返るべきだろう」

 

 イノックエルは、愛妾を抱えていた。

 しかも、複数の、だ。

 その上、同時期に正妻と側室を迎えている。

 愛妾である彼女がイノックエルを繋ぎとめるためには、偽りの子をもうけるしかなかったのだ。

 

 子が認知されずとも、追い出されはしない。

 追い出されれば生きてはいけない者もいるのが、現実だった。

 

「人ならざる者のほうが、そいつより、人の心を持っているとは驚いた」

 

 ウォルトが、握った手を口にあてて、笑っている。

 心底、イノックエルを軽蔑しているに違いない。

 イノックエルのとばっちりは、思っていた以上に根が深かったのだ。

 

「きみが認知せずにいたことを、褒めはしない。むしろ、きみのせいで面倒に巻き込まれたことについては、あとで、しっかりと苦言を呈することにしよう」


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