この先にあるのは 4
ガチャリと、急に扉が開いた。
全身が固まる。
中に入るつもりなんてなかったからだ。
ほんの少し、室内が気になっていた。
とはいえ、1階には、うまい具合に覗ける場所もない。
だから、しかたなく入り口から気配だけを探っていたのだけれども。
「どうぞ、お入りください」
「あ……いや……」
「お入りください」
キサティーロの目が、とてつもなく冷たく感じられる。
こうなっては、入らざるを得なかった。
しょんぼりと肩を落とし、室内へと足を踏み入れる。
「お客様がいらしたの?」
シェルニティの声がした。
キサティーロがいるので、逃げるのも容易でないと知っている。
彼は、逃げても放置してくれるのだが、ローエルハイドの執事は厳しいのだ。
昔から、甘やかしてくれた試しはなかった。
「宰相様がおいでになりました、シェルニティ様」
がーんと、頭を殴られた気分になる。
恨みがましい目でキサティーロを見たが、無視された。
それはそうだが、それはない。
「審議の時の……リカラス・ウィリュアートン宰相様ですね」
シェルニティが立ち上がり、挨拶をしてくる。
どうしようと、焦った。
なにしろ、アリスには「礼儀」の素質がない。
さりとて、アリスがアリスだとも言えないのだ。
2人が中にいるとわかっていたので油断をし、変転をしていない。
だから、キサティーロの紹介に文句はつけられなかった。
その上、キサティーロが助けてくれないことも、わかっている。
「と、突然、その……訪ねて悪い……悪かった……悪いと……」
全然、駄目だ。
謝罪の「正しい」作法すらわからない。
シェルニティは、不審そうに、そして、不機嫌そうに、アリスを見ている。
(頼むから、そんな目で見ないでくれよ、シェリー)
馬のアリスの時には、いつも優しい目で語りかけてくれていた。
首元や頭を撫でてもくれるし、時々はたてがみに口づけもしてくれる。
なのに、今は、かなり険しい表情を浮かべていた。
アリスが不審なせいではない。
リカが、リンクスを放置しているからだ。
シェルニティは、それを良く思っていなかった。
リンクスを可愛がっているので、双子を嫌っていると言ってもいいだろう。
ものすごく居心地が悪い。
キサティーロを見ても、やはり知らん顔をされる。
「今日は、どのようなご用件でしょう?」
シェルニティのよそよそしい態度が、心に痛い。
彼女は、アリスが「放蕩」している女性たちとは違うのだ。
本気で大事に思っている。
そんな女性から邪見にされて、嬉しいはずがなかった。
「ええと……その、ですね……あの人……いや、公爵は……」
「出かけております」
「そ、そう……で、では……また出直して……」
「旦那様は、もうすぐお帰りになられるかと」
「……辺境地まで、わざわざいらしたのですから、このまま、お帰りいただくのも申し訳ありません。お待ちになられてはいかがでしょう」
絶体絶命とは、このことだ。
キサティーロは助けるどころか、アリスの息の根を止めようとしている。
そう思えるほどに、容赦がない。
(そうか! オレが、あの人を蹴飛ばしたのを根に持ってたんだな!)
キサティーロは、彼に仕える最側近だ。
主を蹴飛ばされたことに、少なからず腹を立てていたのだろう。
表情を変えないので、気づかずにいた。
いずれ、報復するつもりでいたに違いない。
まさか、こんな形でやり返されるとは思わなかったけれど。
むしろ、手足を折られるほうがマシだけれど。
「では、こちらにどうぞ」
ますます、しょんぼり肩を落とし、アリスはシェルニティについて行く。
勝手知ったる室内だが、なんとも心もとない。
これで、彼が帰ってきたら、最悪だ。
キサティーロと一緒になって、追い込んでくるだろう。
そうなる前に、なんとか逃げ出さなければ、と切実に思った。
「イスをご用意いたしました」
シェルニティは、居間のソファに腰かけている。
そこが定位置だからだ。
向かい側に出されたイスに、アリスは腰かける。
シェルニティの顔を、まともに見ることはできなかった。
まるで断罪されているかのような気分でうつむいている。
「宰相様」
「う……あ、はい……なに……な……なん、ですか……?」
アリスは、まともに敬語を使ったことがない。
リカがいるので必要なかったし、面倒な言葉は嫌いだった。
俗語のほうが性に合っている。
「私は、あなたがたのご子息と懇意にさせていただいております。不躾とは存じておりますが、ご子息のことを、どう思われているのか、お聞かせください」
「リンクスか。あいつは……あの子は……その……頭のいい……賢い子、です」
「そういうことを、お訊きしているのではありません」
ぴしゃりと言われ、背中を丸めたくなった。
自分ではなく、嫌われているのはリカ、ということだけが救いだ。
「あいつ……あの子にはエセル……エセルハーディ、殿下が……」
「人任せにすることを、なんとも思っていないのですね」
「それは……あの……オレ……わ、私たちより適任と……」
シェルニティが、いよいよ冷たい目でアリスを睨んでくる。
嫌われるというのは、こういうことなのかと実感して、ひどく落ち込んだ。
もう泣きたい。
帰りたい。
一生、馬の姿でもいい。
そんな思いに駆られ、眩暈がする。
イスの座り心地も悪かった。
「リンクスを嫌っているのですか?」
「嫌ってねーよ! あいつは、リカの息子だ!……あ、いや……その……オレ……わた、私の息子、ですから……」
ふっと、シェルニティが息を吐く。
少しだけ瞳の色がやわらかくなっていた。
「少し安心いたしました。リンクスを認めてはいらっしゃるのですね」
「それは、まぁ……私たちより……まとも……正しく育っていると……思います」
ここ数日、アリスも忙しくしており、ここには来ていない。
シェルニティの表情が変わっていることに気づいて、そうか、と思う。
アリスは、ほんのわずか口元をゆるませた。
「シ……あなたは……良い母親になれる……なれますよ」
「え……?」
「人の子を心配できる……ということは、我が子ならもっと……でしょう」
彼との話し合いがついたのだろう。
きっと、もう、あんなふうに泣いたりはしない。
それならいい、と思った。
カチャンと音を立て、ティーカップを、わざと倒す。
シェルニティが気を取られた瞬間、アリスは、烏になり、パッと飛び立った。
キサティーロが、こぼれた紅茶を優先させると、見越している。
突然に姿を消した「宰相様」については、キサティーロがなんとかするだろう。
空高く舞い上がってから、アリスは息をついた。
(大人になりなさい、アリス。いつまでも袖の下にいられないのはリンクスも同じなのですよ)
キサティーロからの即言葉には応えない。
奥歯を噛みしめながら、心の中でだけ思った。
代わりの効かない者というのは、いるのだと。




