この先にあるのは 3
「こ、こ、こ、こ、公爵さ、さ、さま……っ……」
イノックエルの目が、床に転がり落ちてもおかしくないほど、見開かれている。
手からは、グラスが滑り落ちていた。
そのグラスの割れる派手な音に、彼は顔をしかめる。
薄いガラス製のグラスは高級品なのだ。
そうやって、貴族は惜しげもなく、散財をする。
彼は吝嗇化ではなかったが、浪費家でもない。
そして「無駄」を好まない性格をしていた。
彼は、ブレインバーグの屋敷に来ている。
イノックエルは魔力を持たないため、魔力感知には引っ掛からない。
だが、屋敷内に転移しさえすれば、感覚でわかるのだ。
イノックエルの気配を、彼は、すっかり覚えてしまっている。
覚えたかったわけではないが、それはともかく。
イノックエルは、屋敷の左翼にある大広間にいた。
新しく手にいれた「貴重な」絵画を飾り、悦に入っていたようだ。
その姿を見られまいとして人ばらいしたのかはともかく、広間にはイノックエルしかいない。
「こういうものは、丁寧に扱うがいいよ、きみ。とても壊れ易いからね」
ぴんっと指を弾くと同時、彼の手に、元通りの形になったグラスが握られた。
イノックエルは、口を、はくはくさせている。
まるで、水からあげられた魚のようだ。
「時々、きみは、耳から呼吸できるのかと信じ込みそうになる。もし、そうでないなら、口か鼻で息をしたまえ」
早く用事をすませて、シェルニティの元に戻りたい。
彼は、心の底から、そう思っていた。
そのせいで、口調が平坦になる。
そもそも、イノックエルは、彼にとって不愉快な男なのだ。
用でもなければ、会話どころか、会うのも避けたかった。
イノックエルが胸を押さえ、ようようといったふうに、息を吐く。
首を絞めたわけでもあるまいし、と呆れた。
「グ、グラ、グラディスには、き、謹慎を……む、無期の……」
彼は、パッパッと片手をはらう。
わずらわしい虫か埃でもはらうような仕草だ。
「きみが側室に与える罰について、私は、興味がないと言ったじゃあないか」
「さ、さ、さように、ござ、ござ……」
大きく、わざとらしく溜め息をつく。
森では、シェルニティがいたので、まだしも、イノックエルは安心できていたのだろう。
今は、彼と2人きり。
己の屋敷だというのに、怯え過ぎて汗もかけない様子だ。
(ハンカチを貸す必要がないのは、ありがたいがね)
さりとて、この調子では、いつまで経っても用事をすませられない。
彼は、手にしていたグラスをポイッと放り投げる。
それを追って、イノックエルの視線が、彼から外れた。
グラスは、飾り戸棚の中に、きちんとしまわれている。
「それでは行こうか」
「ひ……っ……」
グラスに気を取られているイノックエルに、彼は近づいていた。
肩に手を置いたとたん、悲鳴をあげられ、ムっとする。
いつまでも「殺されるかもしれない」と怯えられるのは、非常に心外だ。
イノックエルを消すつもりなら、とっくにやっている。
「そう怖がることはないさ。きみの、よく知っている場所に行くだけだ」
「わ、私の、ですか……」
「そうとも。きみは、ただついて来ればいいのだよ」
彼は、点門を開いた。
門の向こうに見える景色に、イノックエルも気づいたらしい。
彼を見上げ、首をかしげている。
「あちらにございますか?」
「そうだ。言っただろう。きみが、よく知っている場所だとね」
「本当に……あの……ついて行けば、よろしいので……?」
「ついて来ればいい。だが、ついて来ないのであれば、首に縄をかける」
彼としては、洒落で言ったつもりだった。
が、イノックエルは、顔面蒼白。
顔色を真っ白にして、口から泡を吹いて倒れかけている。
「それほど手間ではないはずだ。この門を、ちょいとくぐればいいのだからね」
「か、か、かし、かし……」
「ああ、もういい。わかった。返事は不要なので、さっさと門を抜けてくれ」
彼とて、別段、いつもイノックエルをいじめようと思っているわけではない。
イノックエルが、勝手に「いじめられて」いるだけだ。
どれほど想像力が豊かなのかは知らないけれど。
イノックエルは、ぶるぶる震えつつも、門を抜ける。
続いて、彼も門をくぐり、点門を閉じた。
いたって普通の、貴族屋敷の室内だ。
イノックエルがいた広間ほど豪奢ではないが、調度品などから、それなりに財をかけているのが見てとれる。
「あ、あの、公爵様……私は、どうすれば……」
見慣れた景色に、少しだけ落ち着いたらしい。
イノックエルを見て、しばし考えた。
「いつも通り、といったところかな。私のことは伏せておくように」
言って、ス…と姿を消した。
当然のことながら、イノックエルに、彼は見えていない。
狼狽えた様子で、周囲を見回している。
隣に立ち、小声で「指図」をした。
(いつも通りと言っただろう、イノックエル。きみは、ブレインバーグの当主ではないのかね? 威厳ある態度を心がけなくちゃあいけないよ)
イノックエルが、小さくうなずく。
それから、歩き出した。
彼の意図はわからなくても、指示に従うのが最善だと理解している。
イノックエル唯一の取柄を発揮しているのだろう。
廊下を歩き、奥にある部屋の扉を叩いた。
彼の存在を考えないことにしたらしい。
非常に賢明な判断と言える。
「私だ。入るぞ」
横柄な物言いで、扉を開いた。
中にいた男女2人が、すぐさま跪く。
イノックエルは、挨拶もなく、どかっとソファに座った。
座りかたも横柄そのものだ。
威厳があるかはともかく、これがイノックエルの「いつも通り」なのだろう。
イノックエルが座るのを見て、2人が立ち上がる。
女性は30代後半、男性は20代くらい。
女性は赤毛に緑の瞳で、男性は金髪に緑の瞳をしている。
「変わりはないか?」
強制的に、彼に連れて来られた割には、様になっていた。
さすがは、王宮で重臣を務めているだけのことはある。
どれほど、内心で狼狽していようと、体裁を保つことには長けていた。
だからといって、感心はしないけれど、それはともかく。
「なにもございませんわ、旦那様」
女性が答える。
男性は、イノックエルを見てはいたが、口を開く気配はなかった。
イノックエルも、それを気にしていないようだ。
彼は、3人の様子を眺めるのをやめる。
この程度で、十分だった。
そっと、イノックエルの背後に立つ。
驚かせると面倒なことになりそうだったので、軽く肩にふれた。
一瞬、イノックエルが、体を、びくっと震わせる。
今度は、強く握って、動きを封じた。
(私は帰るよ、イノックエル。きみは……まぁ、好きにしたまえ)
小声で言ってから、手を離す。
彼は姿を消しているので、イノックエルには、本当に彼が帰ったかなど、わからないだろう。
が、そんなことは、どうでもよかった。
イノックエルは、彼の興味の埒外にいる。
(夕食はどうするかな。燻製の魚は、まだ残っていたっけ?)




