表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/80

この先にあるのは 3

 

「こ、こ、こ、こ、公爵さ、さ、さま……っ……」

 

 イノックエルの目が、床に転がり落ちてもおかしくないほど、見開かれている。

 手からは、グラスが滑り落ちていた。

 そのグラスの割れる派手な音に、彼は顔をしかめる。

 

 薄いガラス製のグラスは高級品なのだ。

 そうやって、貴族は惜しげもなく、散財をする。

 彼は吝嗇化(りんしょくか)ではなかったが、浪費家でもない。

 そして「無駄」を好まない性格をしていた。

 

 彼は、ブレインバーグの屋敷に来ている。

 イノックエルは魔力を持たないため、魔力感知には引っ掛からない。

 だが、屋敷内に転移しさえすれば、感覚でわかるのだ。

 イノックエルの気配を、彼は、すっかり覚えてしまっている。

 覚えたかったわけではないが、それはともかく。

 

 イノックエルは、屋敷の左翼にある大広間にいた。

 新しく手にいれた「貴重な」絵画を飾り、悦に入っていたようだ。

 その姿を見られまいとして人ばらいしたのかはともかく、広間にはイノックエルしかいない。

 

「こういうものは、丁寧に扱うがいいよ、きみ。とても壊れ易いからね」

 

 ぴんっと指を弾くと同時、彼の手に、元通りの形になったグラスが握られた。

 イノックエルは、口を、はくはくさせている。

 まるで、水からあげられた魚のようだ。

 

「時々、きみは、耳から呼吸できるのかと信じ込みそうになる。もし、そうでないなら、口か鼻で息をしたまえ」

 

 早く用事をすませて、シェルニティの元に戻りたい。

 彼は、心の底から、そう思っていた。

 そのせいで、口調が平坦になる。

 そもそも、イノックエルは、彼にとって不愉快な男なのだ。

 用でもなければ、会話どころか、会うのも避けたかった。

 

 イノックエルが胸を押さえ、ようようといったふうに、息を吐く。

 首を絞めたわけでもあるまいし、と呆れた。

 

「グ、グラ、グラディスには、き、謹慎を……む、無期の……」

 

 彼は、パッパッと片手をはらう。

 わずらわしい虫か埃でもはらうような仕草だ。

 

「きみが側室に与える罰について、私は、興味がないと言ったじゃあないか」

「さ、さ、さように、ござ、ござ……」

 

 大きく、わざとらしく溜め息をつく。

 森では、シェルニティがいたので、まだしも、イノックエルは安心できていたのだろう。

 今は、彼と2人きり。

 己の屋敷だというのに、怯え過ぎて汗もかけない様子だ。

 

(ハンカチを貸す必要がないのは、ありがたいがね)

 

 さりとて、この調子では、いつまで経っても用事をすませられない。

 彼は、手にしていたグラスをポイッと放り投げる。

 それを追って、イノックエルの視線が、彼から外れた。

 グラスは、飾り戸棚の中に、きちんとしまわれている。

 

「それでは行こうか」

「ひ……っ……」

 

 グラスに気を取られているイノックエルに、彼は近づいていた。

 肩に手を置いたとたん、悲鳴をあげられ、ムっとする。

 いつまでも「殺されるかもしれない」と怯えられるのは、非常に心外だ。

 イノックエルを消すつもりなら、とっくにやっている。

 

「そう怖がることはないさ。きみの、よく知っている場所に行くだけだ」

「わ、私の、ですか……」

「そうとも。きみは、ただついて来ればいいのだよ」

 

 彼は、点門(てんもん)を開いた。

 門の向こうに見える景色に、イノックエルも気づいたらしい。

 彼を見上げ、首をかしげている。

 

「あちらにございますか?」

「そうだ。言っただろう。きみが、よく知っている場所だとね」

「本当に……あの……ついて行けば、よろしいので……?」

「ついて来ればいい。だが、ついて来ないのであれば、首に縄をかける」

 

 彼としては、洒落で言ったつもりだった。

 が、イノックエルは、顔面蒼白。

 顔色を真っ白にして、口から泡を吹いて倒れかけている。

 

「それほど手間ではないはずだ。この門を、ちょいとくぐればいいのだからね」

「か、か、かし、かし……」

「ああ、もういい。わかった。返事は不要なので、さっさと門を抜けてくれ」

 

 彼とて、別段、いつもイノックエルをいじめようと思っているわけではない。

 イノックエルが、勝手に「いじめられて」いるだけだ。

 どれほど想像力が豊かなのかは知らないけれど。

 

 イノックエルは、ぶるぶる震えつつも、門を抜ける。

 続いて、彼も門をくぐり、点門を閉じた。

 いたって普通の、貴族屋敷の室内だ。

 イノックエルがいた広間ほど豪奢ではないが、調度品などから、それなりに財をかけているのが見てとれる。

 

「あ、あの、公爵様……私は、どうすれば……」

 

 見慣れた景色に、少しだけ落ち着いたらしい。

 イノックエルを見て、しばし考えた。

 

「いつも通り、といったところかな。私のことは伏せておくように」

 

 言って、ス…と姿を消した。

 当然のことながら、イノックエルに、彼は見えていない。

 狼狽(うろた)えた様子で、周囲を見回している。

 隣に立ち、小声で「指図」をした。

 

(いつも通りと言っただろう、イノックエル。きみは、ブレインバーグの当主ではないのかね? 威厳ある態度を心がけなくちゃあいけないよ)

 

 イノックエルが、小さくうなずく。

 それから、歩き出した。

 彼の意図はわからなくても、指示に従うのが最善だと理解している。

 イノックエル唯一の取柄を発揮しているのだろう。

 

 廊下を歩き、奥にある部屋の扉を叩いた。

 彼の存在を考えないことにしたらしい。

 非常に賢明な判断と言える。

 

「私だ。入るぞ」

 

 横柄な物言いで、扉を開いた。

 中にいた男女2人が、すぐさま(ひざま)く。

 イノックエルは、挨拶もなく、どかっとソファに座った。

 座りかたも横柄そのものだ。

 威厳があるかはともかく、これがイノックエルの「いつも通り」なのだろう。

 

 イノックエルが座るのを見て、2人が立ち上がる。

 女性は30代後半、男性は20代くらい。

 女性は赤毛に緑の瞳で、男性は金髪に緑の瞳をしている。

 

「変わりはないか?」

 

 強制的に、彼に連れて来られた割には、様になっていた。

 さすがは、王宮で重臣を務めているだけのことはある。

 どれほど、内心で狼狽していようと、体裁を保つことには長けていた。

 だからといって、感心はしないけれど、それはともかく。

 

「なにもございませんわ、旦那様」

 

 女性が答える。

 男性は、イノックエルを見てはいたが、口を開く気配はなかった。

 イノックエルも、それを気にしていないようだ。

 彼は、3人の様子を眺めるのをやめる。

 

 この程度で、十分だった。

 

 そっと、イノックエルの背後に立つ。

 驚かせると面倒なことになりそうだったので、軽く肩にふれた。

 一瞬、イノックエルが、体を、びくっと震わせる。

 今度は、強く握って、動きを封じた。

 

(私は帰るよ、イノックエル。きみは……まぁ、好きにしたまえ)

 

 小声で言ってから、手を離す。

 彼は姿を消しているので、イノックエルには、本当に彼が帰ったかなど、わからないだろう。

 が、そんなことは、どうでもよかった。

 イノックエルは、彼の興味の埒外(らちがい)にいる。

 

(夕食はどうするかな。燻製の魚は、まだ残っていたっけ?)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ