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過ぎた話より 1

 シェルニティは、彼の横顔を見つめていた。

 彼は、辛辣な口調で、皮肉を父に投げつけている。

 けれど、怒ってはいない。

 怒っている時は、彼が無表情になると知っていた。

 

 婚姻解消の申し立てをされた時のことを思い出している。

 彼女の汚名を晴らしに来た彼は、申し立てをしたクリフォード・レックスモアに怒ったのだ。

 黒い瞳は、より深く、暗かった。

 月や星の出ていない夜だって、薄い雲の広がりが、ぼんやり透けて見える。

 が、彼の瞳に、そうした曖昧さは、まったくなかった。

 

(怒ってはいないけれど、不機嫌なのね)

 

 眉間に、皺を寄せていることで、そう判断できる。

 シェルニティは、まだ表情から感情を察する能力は身につけていない。

 だからこそ、ついつい観察してしまうのだけれど、それはともかく。

 

(さっきから、お父さまが私のほうを見ているのは、どういうことかしら? 私は会話に入ってもいいの?)

 

 およそ、人から「会話」を求められることなどなかったので、父の視線の意味が明確にできずにいる。

 もし間違った判断をすれば、叱られるのだ。

 そんな気持ちが、シェルニティの中には残っていた。

 

「シェリー、私は、また悪い癖が出ていたようだ。1人勝手(ひとりがって)に、ぺらぺらと話していたね? 気分を害してはいないかい?」

 

 彼が、シェルニティのほうを見て、頬を優しく撫でてくる。

 シェルニティは、ちょっぴり恥ずかしくなった。

 彼といると、彼女も、お喋りになってしまうと、自覚していたからだ。

 うなずくくらいしかしてこなかったシェルニティが、彼の言葉を、途中で遮ったことさえあった。

 

 彼に「1人で勝手にペラペラ話すのは、あなたの悪い癖よ」と言って。

 

 なのに、知らず、自分もペラペラ話しているのだから、恥ずかしくもなる。

 ほんのりと頬を赤らめているシェルニティに、彼が、にっこりした。

 

「きみの意見も訊いておくべきだね。ともあれ、彼はきみの父親だし、きみにかけられていた呪いが絡んでいるわけだから」

「でも、私、そのかたを、よく知らないのよ? 廊下ですれ違ったことはあるけれど、お話したことがないの」

 

 言ってから、少し首をかしげる。

 そのことについては、父が「カタをつけるべきこと」で、話が終わったものと、思っていたのだ。

 さっき、彼が、そのように言っていたので。

 

「それにしても、そのことと、お父さまの放蕩とが関係があったなんて、どうしてあなたが考えているのか、ちっともわからないわ」

 

 彼が、小さく笑う。

 そのこともわからなかったし、向かいのイスに座っている父が、いつまでも汗を拭かずにいる理由もわからなかった。

 顔色も、ずいぶん悪い。

 

「きみから説明したいのなら、話す順番を、きみに譲るよ、イノックエル」

「……いえ……公爵様に……お話いただくほうが、娘には……正しく伝わるかと」

「おや、そうかい? それでは、きみの謙虚な提案を受け入れるとしよう」

 

 彼が、シェルニティの手を握る。

 彼女のほうに、体を向け、まっすぐに目を合わせてきた。

 真剣なまなざしに、胸が、どきんと弾んだ。

 そんな場合でもないのに。

 

「きみの父上が、愛妾との間にできた息子を認知せずにいるのはなぜだと思う?」

「それは簡単ね。さっき、あなたが言っていたように、後継ぎができると、新しい側室や愛妾を迎えるのが難しくなるからでしょう?」

 

 シェルニティは、無知でも無教養でもない。

 貴族教育で学んだことや、本から得た知識は備えている。

 貴族は、勤め人とは違うのだ。

 収入は民からの税で賄われており、使途も王宮に報告する義務があった。

 もちろん、なんだかんだと口実をつけ、散財している者も少なくはないだろう。

 

(確か、サロンの代金は、交流費として扱われているのだったわね)

 

 どういう類の「交流」かは知らないが、放蕩に税を使っているのは間違いない。

 サロン通いくらいならばまだしも、側室や愛妾にかかる費用は、相当だ。

 なにしろ、ドレスの1着、イヤリングの1個にまで渡る。

 

 そうなると、無意味に側室や愛妾を迎えるのを、当然に民は嫌がった。

 領主が不当なことをしていたり、不正を働いたりしている場合、民は別の領地に住み替えができるのだ。

 不満が募り、領地を移る領民が増えれば、税収が減る。

 貴族にとっては、民の移住は死活問題だった。

 結果、後継ぎが必要だから、との建前が、どうしても必要となる。

 

「あえて言葉を濁さずに、嫌な言いかたをするがね。愛妾の子というのは、未だに“予備”扱いされている」

「正妻や側室に、どうしても男子が産まれなかった場合の話ね」

「そういうことだ。では、正妻や側室の子と、愛妾の子の差は、なにかな?」

「爵位じゃないかしら? 愛妾になられる人は、爵位が下位か、平民であることが多いと聞いているもの」

 

 彼が、真面目な顔でうなずいた。

 回答としては正解なようだが、その解答自体には不足があるようだ。

 でなければ、こんな真面目な顔はしていない。

 軽口のひとつも叩いている。

 

「つまり、きみの父君は、今いる、たった1人の息子を、後継ぎにする気などないのさ。より爵位の高い女性の子を後継ぎにしたいと考えている」

「あら。それでは、なぜ……」

 

 言いかけて、やめた。

 彼が「呪い」と、父の「放蕩」を結び付けた理由がわかったからだ。

 

「お父さまは、認知するおつもりがないから、気になさらなかったのでしょうけれど。男の子がいる、という事実は曲げられない。お父さまが、どうなさるかわからなくて、お母さまも、側室のかたも、さぞ神経質になられたでしょうね」

「きみの母君に男の子が産まれたらと思うと、側室の女性が心穏やかでいられなくなるのも無理はない。もしかすると、愛妾の女性と、立場が入れ替わる可能性すらあったのだからね」

 

 父が、その子を認知したら、そういう可能性も有り得る。

 正妻が入れ替わることはないに等しいが、側室は正妻ほど立場が頑強ではない。

 後継問題だけは、爵位より優先されるのだ。

 なにしろ後継ぎがいなければ、別の血筋に家督が移ってしまう。

 兄の血筋から、弟の血筋へ、というように。

 

「だから、そのかたは、お母さまが子を成しても、人前に出られないようにしようと思われたのだわ。殺すという選択肢がなかったから」

「たとえ、産まれてきたのが男の子であっても、呪いが刻まれた子ではね。後継ぎにはできなかったはずさ」

「結局、男の子ではなくて、呪いは無意味なものになってしまったけれど」

 

 彼が、軽く頭を横に振る。

 

「それがそうでもない。少なくとも、きみの父君にとっては大いなる意味に繋がる結果となったのだよ。そうだろう、イノックエル」

 

 彼が、また瞳の色を冷たくして、父に視線を向けた。

 父はうつむいており、彼と視線を合わせようとはしていない。

 

「彼女が産まれたあと、きみは、ロゼッティと、ベッドをともにしていないのじゃないかね? 側室の元には、それなりに通っていただろうが」

 

 答えに窮している父の姿に、それが事実だとわかる。

 母が「肩身が狭い」とこぼしていたのは、シェルニティのことだけではなかったらしい。

 

「だが、結局のところ、側室の女性との間にも、男の子はもうけられなかった」

 

 シェルニティは、(まばた)き数回。

 彼の言葉が、ようやく、すべて理解できた。

 

「お父さまは、いずれ、新しい側室を迎えるおつもりなのだわ」

「素晴らしい! きみは、美しいだけではなく、頭もいいね」

「それは、褒め過ぎではないかしら? 辻褄を合わせた結果だもの」

 

 彼が、握っていたシェルニティの手の甲に口づける。

 まるで、騎士が、お姫様にするように、恭しかった。

 

「褒め足りないくらいさ、私のシェリー。きみの率直さも謙虚さも、私は、とても好ましく思っているよ」

 

 そう言って、彼が、にっこりする。

 事実を知ることによりシェルニティが傷つくのを、彼は心配していたのだろう。

 

(私が悲しくなったり、苦しくなったりするのは、彼に関してだけなのに。彼って過保護よね。私が傷つかないって、わかっているくせに)


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