幸せというのは 1
「待って! 違うのよ、殿下は……」
「シェリー、きみは、今、話すべきではない」
シェルニティの前に立つ彼が、言った。
振り向きもせず。
こんなふうに、言葉を断ち切られたのは、最初に会った日以来だ。
あの頃は、まだ自分が「会話」を求められるような人間ではないと思っていた。
だから、平気でいられた。
が、その後、彼は、いつもシェルニティとの会話を望んでくれている。
彼女を遮るにしても、もっとやわらかく、優しかったのだ。
その先にあるシェルニティの言葉を、いつも受け止めてくれていた。
彼が、会話を遮るのではなく、断ち切ったのは、たった1度。
初対面で、彼の名を聞いた時だけだ。
『きみ! 名など、どうでもいい。私は、きみの名を知りたいとは思っていないし、きみに名を知ってほしいとも思っていない』
その時と同じか、それ以上の厳しさを感じる。
シェルニティは、以前と同じには、受け流せなかった。
彼の背に、手を伸ばすことすらできない。
(ああ……まただわ……私が、黙ってなにかをすると、悪いことが起きてしまう)
何度も繰り返しているのに、同じことをしている。
彼に厳しくされても、しかたがなかった。
「カイル、私は、アーヴィと話をしている」
「話? これが? 公爵は、嫉妬で頭に血が昇っているようにしか見えないな」
「だとしても、これは、私とアーヴィとの問題だ」
「俺は、アーヴィの側近なんでね。見過ごしにはできない」
カイルが、背中に王太子を庇っている。
その肩に、立ち上がった王太子が手をかけていた。
「カイル、僕が公爵と話す」
「いいや、お前は王宮に帰って、怪我を治癒しておくんだ」
「そういうわけには……」
不意に、カイルがシェルニティのほうに視線を向ける。
冷たい瞳に、体が震えた。
屋敷で会った時とは、別人のように見える。
「美人ってのは、災いの元だな。あどけなさを装っちゃいるが、実際は2人の男を手玉に取って楽しんでいるんだろうぜ。こういう女を悪女っていうのさ」
周囲の空気が凍えていた。
彼が怒っているのだ。
背中しか見えなくても、わかる。
「今の言葉は、取り消してもらおうか」
「取り消す必要を感じない」
「彼女を悪く言うのは、僕も承認しがたいよ、カイル」
カイルが、ハッと鼻で笑った。
両手を軽く広げ、わざとらしく首を横に振る。
「これだ。揃いも揃って、女に入れ上げて見境をなくしてる。そうさせてるのは、その女だろうに」
カイルは、シェルニティに、冷たい軽蔑のまなざしを向けていた。
疎まれているのでも、見下されているのでもない。
外見に対してではなく、カイルはシェルニティを「不快」に感じているのだ。
「公爵は知ってたのか? ここで、その女がアーヴィと会ってるってことを」
彼は答えず、カイルのほうだけを見ている。
シェルニティのほうには振り向かなかった。
王太子と会っていたことについて、問い質そうともせずにいる。
「黙って、別の男と会ってたんだぜ? 一緒に暮らしてる男がいながら、平気で、ほかの男とも会うような女を、どう呼べばいいのかね? 悪女以外に」
シェルニティの心には、彼しかいない。
むしろ、そのせいで気づかなかったのだ。
彼女にとって「特別な男性」は、彼だけだったから。
もとより、彼女を「女性」扱いする男性もいなかった。
誰が一緒にいようと「親密な関係」だと疑われるなんて、思いもせずにいた。
実際的にはどうあれ、妻との立場だった頃は「ほかの男性の家で寝泊まりしてはならない」との知識から行動している。
いくら彼と会うのが楽しくても、泊まったりはしなかった。
が、その時とでは状況が違う。
彼女は「妻という立場」ではない。
(……以前、殿下のお世話になる話は、お断りしたわよね……)
公爵の元を離れることがあれば、自分のところに来てほしいと、王太子から言われた。
それを、シェルニティは断っている。
それに、彼の元を離れる気もなかった。
シェルニティには、2人を「手玉に取っている」つもりなど、まったくない。
彼女の心は、はっきりしていたからだ。
ここに来たのは「彼にも関わりのある話」を、気にしてのことだった。
彼がいると話しにくいことなのかもしれないとの思いもあった。
ちょうどラドホープ侯爵令嬢が訪ねてきた後だったので。
前妻や子供の話かもしれない。
そう思うと、よそよそしさも感じていた中、彼に話すのは躊躇われた。
同時に、彼から聞いていないことを、人から聞くことにも抵抗があった。
ただ、知っておけば、失敗せずにすむかもしれないと思ったのだ。
子供を失った彼に「子供がほしい」なんて言ってしまったのを、シェルニティは悔やんでいる。
彼を傷つけ、苦しめたのではないかとも思っている。
そういう失敗をしたくなくて、王太子の話を聞こうとした。
ただ、それだけだったのだ。
シェルニティは、ずっと独りだった。
が、彼と出会い、感情は着々と成長している。
だんだんに、人との会話にも慣れつつあった。
さりとて、埋められないものもある。
シェルニティには、人との距離感がわからない。
最も近いのは、彼だ。
それから、彼の周りにいる人たち。
それ以外の人たちは、彼女にとって「名札」のついた人でしかない。
王太子については「感じのいい人」との印象はあった。
けれど、やはり、それだけだ。
親近感や、特別な感情をいだいてはいない。
(でも、カイルは、私を、ふしだらな者だと思っているわ。つまり、私の行動は、そう思われてもしかたがないということなのね)
シェルニティが、ここに足を運んだのには、様々、理由がある。
だとしても、傍からみれば「そう見える」のだろう。
悪女と言われるような行動だったに違いない。
「きみが、彼女をどのように評価しようと勝手だがね。私が、どう判断するかは、私の勝手にさせてもらう」
「それなら、アーヴィじゃなくて、その女に話を訊くべきだな」
「もちろん、彼女にも、話は訊くさ。だが、確認は双方にすべきだと、私は考えている。都合のいい話を、でっちあげる者も大勢いるのでね」
彼が、体を半分だけ、シェルニティのほうへと向けた。
「話はあとで訊く。きみは、帰っていたまえ」
切り捨てるような言いかたに、胸が、ざわっとする。
穏やかな笑みも、暖かなまなざしも、シェルニティには向けられていなかった。
彼の瞳を見つめる。
変わらない表情にも、彼女は、ハッとなって、うつむいた。
「……わかったわ。先に……帰るわね……」
石畳の路面に落とした視線に、影が落ちた。
黒い革靴の爪先が見える。
「お迎えにあがりました、シェルニティ様」
ゆっくり顔を上げると、目の前に、やはりキサティーロが立っていた。
キサティーロは状況を把握しているらしく、いつものように無表情だ。
その向こうにいる彼を見たけれど、すでに体を返している。
「まいりましょう」
彼が開いたのか、キサティーロなのかは、わからない。
シェルニティは黙って、開かれていた点門へと、足を踏みだした。




