不完結な対話 1
シェルニティは、憂鬱な気分で部屋を出る。
彼との暮らしが始まって以来、こんな気持ちになった日はない。
以前は、誰かに呼び出されると、決まって叱られていたため、憂鬱になることが多かったのだけれども。
(王太子殿下は、どうしてもと仰っておられたわね)
それが、憂鬱の原因だった。
結局、断りきれなかった。
というより、断るより先に、連絡が切れてしまったので断れなかったのだ。
会う場所や会う方法まで、指定されている。
(彼に黙って、こっそり会うなんて気が進まないわ……)
とはいえ、どう話せばいいのかもわからない。
レックスモアにいた頃は、1人で取り残されていたし、自分がいなくても、誰も気にしないと思っていた。
だから、部屋を抜け出すことに、心苦しさなど感じずにいられたのだ。
その頃、シェルニティは、まだ彼を愛してはいなかった。
愛がどういうものかもわかっておらず、新しい世界が、ただ楽しかったのだ。
そして、新鮮な景色を見せてくれる彼と、一緒にいるのも楽しかった。
ただ、そうは言っても、婚姻解消がなされるまで彼の家に泊まったことはない。
彼と「不義」を働くつもりなどなかったので。
(……殿下は、彼にも関係がある、と言いたそうだった……)
最後のほうで、そういう意味合いのことを、王太子は言いかけている。
が、言葉の途中で、なぜか声が途絶えてしまったのだ。
自分のことはともかく、彼に、どう関係しているのかが、気にかかる。
考えていて、昨夜は、一睡もできなかった。
溜め息をつきながら、階下に向かう。
屋敷でも、シェルニティの部屋は2階。
けれど、下を見ても、彼がシェルニティを見上げてくる姿はない。
階下に居間があるわけではないのだから、当然だった。
屋敷は、森の家に比べると、とても広いのだ。
玄関ホールがあり、その両脇には小ホールがいくつか。
奥に広い食堂、大ホールもある。
初めて屋敷を訪れた日、キサティーロに、ひと通り案内されていたものの、細かい部分までは知らずにいる。
屋敷の奥には、勤め人たちの部屋が備えられているらしいけれど、そこにも立ち入ったことはなかった。
「おはようございます。シェルニティ様」
「おはよう、キット。彼は……」
「食堂で、シェルニティ様を、お待ちになられておいでです」
「まあ……私、寝過ごしてしまったのね……」
森の家では気にしたことはないのだが、屋敷だと勤め人の目もある。
彼より遅くなったのを、恥ずかしく感じた。
実際には起きていたのだから、早く階下に向かえば良かったのだ。
「旦那様は、元々、眠りが浅いかたです。それに、自由勝手に、早い日もあれば、遅い日もあるといった具合ですから、お気になさいませんよう」
「でも、朝食を待たせてしまったのじゃないかしら?」
「シェルニティ様の、お顔を見るまで、旦那様の食欲がわくとは思われません」
キサティーロの断言する物言いに、少し気持ちが楽になった。
おそらく、キサティーロは、シェルニティが眠れなかったのにも気づいている。
なのに、それについては、なにも言わない。
その気配りがありがたかったし、やはり優秀な執事だと思った。
「おはよう、シェリー」
口調に、どきっとする。
緊張に体がこわばった。
いつもの彼の口調と、わずかに違う気がする。
『公爵様の態度が、よそよそしいものに感じられたからです』
昨夜の王太子の言葉が、頭をよぎった。
シェルニティは、キサティーロに寄り添われ、彼の向かいの席に座る。
イスを引いてくれたのも、キサティーロだ。
彼は、立ち上がることもなく、シェルニティに朝の口づけもしなかった。
(ここは……お屋敷だもの……人目があるのだから……)
自分に言い聞かせても、不安が消せない。
彼が、人目を気にしないことを知っているからだ。
よそよそしい。
その言葉が、頭から離れなくなっている。
まるで、最初に会った日に戻ってしまったかのようだ。
あの時でさえ、彼は、もっと気軽な調子だったように思う。
シェルニティのほうにも、なんの気負いもなかった。
運ばれてきた食事に、お互い手をつける。
嫌な鼓動を耳元に感じつつ、シェルニティは切り出した。
「あの……せっかく王都に来ているから……もう1度、街に行きたいのだけれど、どうかしら?」
「いいね。そうしよう」
そっけない返事だと思うのは、自分に後ろめたいことがあるからだろうか。
街に行くのは、王太子と会うためなのだ。
しかも、それを彼に黙っている。
王太子には、彼に言わないほうがいいと言われていた。
そして、わずかな時間だから問題はない、とも。
果たして、本当に問題はないのか。
わからないけれど、よそよそしく感じられる彼に、打ち明けるのは憚られた。
王太子の話を聞いてから話しても遅くはないと、無理に自分を納得させる。
ともあれ、今は、彼に話す勇気が出ないのだから。
「今日は、馬車で行こうか」
「馬車?」
「ここからなら、それほど遠くないからね。魔術抜きの移動も、たまには、いいのではないかな?」
「そうね。でも、アリスがいないわ」
「アリスでなくとも、馬車は引けるさ」
ようやく、彼が、笑顔を見せる。
そのことに、安心した。
本当には、隣に座り、彼の手を握りたい。
寄り添って、その胸に頬をくっつけたかった。
とはいえ、周りで、メイドなどの勤め人たちが、2人を見守っている。
2人きりのような親密さを、人前で晒すことはできなかった。
貴族教育で学んだ「はしたないこと」の知識が、シェルニティの行動を制限している。
彼のほうから来てくれる様子もないし。
「出かけるのは、いつにしようか? このあとすぐでも、かまわない。それとも、昼食後にするかい?」
「このあと、すぐがいいわ」
長く思い悩んでいるのが嫌だった。
憂鬱なことは、先に片づけてしまいたい。
そして、森の家に帰ったら、彼と話をするのだ。
ぎこちない雰囲気に、これ以上、耐えられそうになかった。
彼とは、なんでも話し合ってきた。
シェルニティも、言いたいことは言っている。
これまでは、2人の間に、隠し事も嘘もなかったのだ。
前妻のことにしても、訊けば話してくれるに違いない。
彼を苦しめることになるかもしれない、と思ってはいる。
けれど、話したくなければ、彼は、ちゃんと「話したくない」と言ってくれる人なのだ。
「馬車の準備はできております。ご用意が整いましたら、お声がけください」
キサティーロの言葉に、彼は返事をせずにいる。
黙々と食事を続けている彼に、やはり違和感をいだいた。
(キットに、ひと言も返さないなんて……いつもは軽口を叩くのに……)
キサティーロに、視線を向けてみる。
いつもと変わらず、無表情だ。
彼の態度に、不審を示してはいない。
ならば、屋敷での彼は、こういう雰囲気なのかもしれないと思った。
(やっぱり、私の気持ちが原因なのね。早く殿下から話を聞いてしまいたいわ)
自分の気持ち次第なのであれば、状況が変われば、落ち着くはずだ。
ほんの少し、安心材料が見つかって、シェルニティは小さく息をつく。
それでも、森の家が恋しくてたまらなかった。




