目覚まし代わりの 3
父の訪ねて来た理由が、まったくわからない。
シェルニティは、14歳でレックスモア侯爵家に嫁ぐまで、ブレインバーグ公爵家で育ってはいる。
が、両親も含め、誰とも、ほとんど接することはなかった。
会話も、まともにしたことがなかったほどだ。
そのため、認識と実感に、ズレがあった。
父との認識はある。
なのに、身近な人という実感が伴わない。
生まれつきの痣を、シェルニティ自身「気持ちが悪い」と思っていた。
周囲の反応も、もっともだと納得もしていた。
生きていく上で必要なものは与えられていたし、貴族教育も受けている。
外を知らずにいたため、不満も生じなかった。
シェルニティにとって、毎日は「時間が経つ」という以上ではなかったのだ。
なので、誰のことも恨んではいない。
そもそも、感情が未発達な状態だったので「恨む」感覚すらわからずにいた。
シェルニティにとって、父は「父」という名の人、くらいの存在なのだ。
彼女が感情を芽吹かせたのは、彼と出会い、外を知ってからのことだった。
それよりも前に、彼女の周りにいた者たちを、無意識に、彼女は「名札」で区別している。
(この間は、私の婚姻解消のことで、外聞が悪いと話にいらしたけれど、今日は、どうなさったのかしら?)
本来、娘の嫁ぎ先に顔を出すのは、それほどめずらしいことではない。
王都の貴族屋敷は、王宮に近い区域に固まっているので「長旅」をしなくても、訪ねられるからだ。
どこかに出かけた帰りに、娘婿の屋敷に立ち寄ることもある。
さりとて。
ここは辺境地であり、さらには森の中。
王都からは、ずいぶんと離れていた。
もののついでに立ち寄れるような距離ではない。
(私に用があるとは思えないから、きっと彼に用があるのね)
父との関係を、シェルニティは、やはり「その程度」にしか捉えずにいる。
父から積極的に親しみを持って接して来た、との経験がないからだ。
彼女に対し無関心な父のほうが、シェルニティにとっては「普通」だった。
そのせいで、シェルニティは、父の発した言葉に驚くことになる。
「シェルニティ、元気でやっているかね?」
「え……ええ、はい。お父さま。元気にしておりますわ」
まさか、自分に話しかけてくるとは思っていなかったので、戸惑った。
いよいよ、父の用件がわからなくなってくる。
(そういえば……夜会で、彼が呪いを解いてくれたあとに、いつでも屋敷に帰って来ていい、と仰っていたのだったわ……私が、ずっと帰らないものだから、迎えに来た、ということはないわよね……?)
レックスモア侯爵との婚姻解消後、シェルニティは、彼の家で暮らしていた。
シェルニティの夫であった、クリフォード・レックスモアから不義の汚名を着せられかけ、それを彼が晴らしてくれてからのことだ。
彼は、彼女にかけられた不義の汚名を一身に引き受けた。
その結果、彼が、シェルニティの生活を担う、との裁決がくだされたのだ。
もちろん心苦しくはあった。
だが、彼は、そうしてほしいと望んでくれたし、シェルニティも彼と一緒にいたかったので、実家であるブレインバーグには戻らずにいる。
戻っても、部屋に閉じこもりっ放しの生活になるだけだ。
ぼんやり生きていた頃とは違い、シェルニティは、それをつまらないと感じる。
畑仕事や釣りをしたり、食菜採りをする、ここでの生活が楽しかった。
今さら、なにもすることのない毎日には戻れそうにない。
「父娘の会話に水を差したくはないが、先に用件を話してくれないか?」
父が、イスの中で体を、ぶるっと震わせる。
膝に置いたシルクハットを握る手にも力が入っているようだ。
シェルニティは、観察により状況を把握したり、推測したりする。
会話でもって知らされることがなかったため、自然と身に着いた癖だった。
(私を連れ帰るという、お話ではなさそうね。なにか困ってらっしゃるようだわ)
なにかはわからないが、父は、なにかを恐れている。
それが「彼」だと、シェルニティは気づかない。
彼女は、彼を恐ろしいとは思っていないので、父の心境には思い至らないのだ。
「そ、それは……」
なぜか、父が、ちらっとシェルニティに視線を投げてくる。
すぐにそらされてしまったが、なにか自分に関わりがあるのは、わかった。
やはり「連れ帰り」に来たのだろうか。
彼を前に、言いにくいのかもしれない。
(お父さまは、まだ外聞を気にされているのかしら……娘が、男性の家で暮らしているのですもの……外聞が悪いと思われてもしかたないわ……)
その件は、決着しているものと思っていたが、なにしろ貴族は体裁にこだわる。
家名に傷がつくようなことを嫌うのだ。
たとえ、建前に過ぎないとしても、体裁を保つほうを優先する。
シェルニティを嫁がせたのだって、結局は、そこに理由があった。
見栄の悪い娘ではあれど、遠くに追いやり、軟禁するのは、外聞が悪い。
かといって、長らく屋敷に留まらせるのも、やはり外聞が悪い。
父は、体裁を保ったままで、彼女を「どこか」に追いはらいたかったのだ。
当時、シェルニティは、それもまた、しかたがないと納得していた。
自分は醜く、存在自体が厄介なのだから、と。
けれど、今は、少し違っている。
そのせいで、そわそわしていた。
できれば、ブレインバーグには帰りたくない。
父の体裁主義に、うなずける気がしないのだ。
外見を気にしなくなったのではなく、彼と一緒にいられなくなるのが嫌だった。
引き離されたくないと、心が「抵抗」を示している。
「イノックエル、きみの口が、中途半端に開いた牡蠣のようになっているので、私から言わせてもらうがね。呪いをかけたのは、きみの側室だった、と報告しに来たのじゃないか?」
シェルニティは、目をしばたたかせた。
予想外の話に、驚いている。
が、衝撃を受けてはいない。
父の側室とは、廊下ですれ違うことはあれど、話したことは1度もなかった。
その側室が産んだ、妹のエリスティとも、会話をしたのは、先日の夜会が初めてだったのだ。
まるきり親しくはなかったし、どういう人なのかも、よく知らない。
だいたい、最初から、彼は、シェルニティの痣を気にせずにいる。
だから、彼女は「呪い」について、深く考える必要がなかった。
痣があろうとなかろうと、彼の態度が変わることはなく、シェルニティに引け目を感じさせることなどなかったので。
「も、もしや、こ、公爵様は、ご、ご存知だったのでしょうか?」
彼が、軽く肩をすくめる。
ということは「知っていた」ということだ。
知っていたが、あえて言わずにいたのだろう。
彼は、夜会でシェルニティが「呪い」にかかっていることを、周知させている。
その場には、大勢の貴族、しかも、高位の貴族が集まっていた。
(身内が呪いをかけたと知れれば、お父さまの立場がなくなると考えたのね)
実際には、彼は、イノックエル・ブレインバーグを気遣ったのではないのだが、シェルニティにはわからない。
ブレインバーグの公爵令嬢でありながらも、彼女が、彼らの家族であったことはなかった。
だから、わからなかったのだ。
彼が、「シェルニティの父」の醜聞から、彼女を遠ざけようとしたとは。
「害を被ったのはシェリーだし、私だって、“犯人”のしたことを、面白がっちゃあいないさ。許されざることだと思っているよ。だが、それは家の……いや、きみの問題ではないかね、イノックエル」
彼に、ぴしゃりと言われ、父は体をすくませる。
その理由は不明だったが、側室が「呪い」をかけた理由は、推測できた。
(私のお母さまは正妻だもの。きっと、男の子が産まれることを恐れたのね)




