言葉にできずに 1
彼は、少しばかり、そわそわしている。
自分に、こうした感情があることに、驚いてもいた。
(放蕩者の名が泣くね。自慢になるような名ではないが)
人の姿をしているアリスがよく見せる仕草。
両腕を頭の後ろにして組む。
そして、空を見上げた。
王宮はともかく、街には魔術はかけられていない。
必要がある時以外、外気は自然なままだ。
澄んだ青の中、白い雲が好き勝手に流れている。
(彼女は、わかっていないのだろうなあ)
彼とて、シェルニティとベッドをともにしたい気持ちはあった。
彼女に誘われ、簡単に膝を屈する己の姿が見えるほどだ。
とはいえ、シェルニティは、やはり「わかっていない」と感じる。
わかっていれば、彼といる時に、ああいう店に行くとは言えなかっただろう。
(貴族教育というのも考えものだ。通り一遍のことしか教えやしないのでは、意味がないじゃないか)
実際、彼にとって、行為そのものに、あまり意味はない。
放蕩をしていた頃も、そうだった。
愛らしきものを探していたからだし、人の肌にふれていたかったからでもある。
そうでもしていなければ、自分を「人」と感じられずにいた。
けれど、今は違う。
シェルニティに対しては、純粋に「ふれたい」と思うのだ。
自己確認のためでも、人肌の持つぬくもりを求めているのでもなく。
(精神的なものだけで満足できればいいのだが、それは難しいな)
シェルニティのなにもかもが愛しくて、もっと親密な関係になりたくなる。
口づけだけではなく、全身くまなく可愛がりたい、と思ったり。
(いずれ、そうした日も来るだろうが、子を成すためだけの行為だという誤解は、解いておく必要がある)
彼は腕をほどいて、パッと身を起こした。
ベンチの背もたれに、烏が1羽。
(リンクスかい?)
アリスから、リンクスが変転を使えると聞いている。
変転は魔術ではないため、魔力を必要としない。
そして、魔術や薬での変化とは違い、普通に話せる。
リンクスが、小声で話しかけてきた。
(さーすが、ジョザイアおじさん。鋭いな)
(似たような烏の知り合いがいるものでね)
烏姿のリンクスが、器用に横に移動して近づいてくる。
彼は、魔術で、食用パンを出した。
烏が餌をねだりに来た、というようにしか、周りには見えないはずだ。
小さくちぎり、嘴のほうに差し出す。
リンクスは、つんつんと突っつくフリをした。
(テディは近くにいないね。まだ酒場にいるようだが)
(アーヴィがいるからな。オレは、出てきた奴を追っかけてきたんだ)
ちょいっと、嘴で、その相手と思しき人物を示す。
背の高い、濃い茶色の髪の男だ。
なんの変哲もない青色のシャツに、茶色のズボンという、ありふれた民服を着ている。
(魔力は感じられない……が、なにかおかしい)
(テディも、おんなじこと言ってたぜ? だから、尾行けろって言われた)
男は、街では知られているらしく、行きかう者らが声をかけていく。
男のほうも、気軽な調子で言葉を返していた。
深緑の瞳を細めては、笑っている。
横顔しか見えないが、すっきりと整った顔立ちをしていた。
きちんとした身なりをすれば、もっと人目を引くだろう。
(今んトコ、妙な動きはしてねーけど)
(きみの見立ては?)
(なんか気持ち悪ィってのは、ある。たぶん、あれだな。あの指輪)
(ああ。私も、気になっていた)
男は、民服を着ている。
平民なのは、間違いない。
彼やシェルニティのように、あえて民服を着ているのとは違う雰囲気があった。
着慣れている度合い、とでもいうものが違うのだ。
(あれだけは、高級品? ニセモノっぽく見えるけど、わざとか?)
(私も見たことがない宝石だ。お手製なのじゃないかな)
(それなら、やっぱり、わざとニセモノっぽくしてんだ)
(少なくとも、彼を殺してまで、あの指輪を盗もうする者はいない)
男の右手の中指にはめられている指輪は独特だった。
目につきはするが、あまりにも安っぽく感じられる。
金色をしているのは、本物の金ではなく真鍮だし、宝石も宝石には見えない。
紫をした、ただの硝子に見える。
光の反射が、そう見せるのだが、実際は希少な宝石の類だと、彼にはわかった。
(酒場に、アーヴィは残っているのだね)
だから、セオドロスは酒場を見張り、リンクスに、こちらを任せたのだ。
彼と同じ「おかしい」との感覚を振りはらえなかったからに違いない。
男を、ただの民だと判断しきれなかったので、リンクスを呼んでいる。
(彼は、魔力持ちだ)
(けど、魔力は感じねーんじゃねーの?)
(あの指輪さ)
(そんな話、聞いたことねーぞ。魔力抑制以外で魔力を隠すなんてできんのかよ)
彼は、軽く肩をすくめてみせた。
できるできないではない。
している、という結果だけが、見えている。
男を目で追っていた、彼の周囲の空気が揺らいだ。
ふわっと髪が風になびく。
(ちょ……っ……ジョザイアおじさん!)
(きみは、そこにいたまえ)
平坦な言葉の中に、厳しさが漂っていた。
感じたのか、リンクスが押し黙る。
念押しをしなくても、リンクスは、そこに留まるだろう。
彼は、振り返ることなく歩き出した。
その男が、店から出てきたシェルニティに声をかけたのだ。
感情が大きく揺らいでいる。
なにかおかしいと感じる男なのだ。
シェルニティに、危険なものを近づけるわけにはいかなかった。
「シェリー」
素早く、男とシェルニティの間に割って入る。
単純な嫉妬ですめばいい、と頭の隅で考えていた。
「あなたは……ローエルハイド、公爵……?」
男が、彼の姿に驚いた様子を見せる。
彼は、髪と瞳の色を戻していた。
外見に関わらず魔術を使うことは可能だが、魔術を使うことなく排除できるほうが簡単かつ安全だからだ。
うっかり相手を殺してしまってはいけないので。
けれど、効果は、それほど大きくなかったらしい。
男は、一瞬、驚いた様子を見せたものの、怯えてはいなかった。
深緑をした瞳に、恐怖がないことは確認している。
後ろで括れるほど長い薄茶色の髪を、男は、わざとらしく手で跳ね上げた。
なのに、どうにも釈然としない。
靄がかかったようなところが、その男にはあったのだ。
「お忍びで来たのなら、髪と目の色も変えたほうがいい」
言ってから、わざとらしく大袈裟に、両手を上げてみせる。
「ああ、悪いな。俺は、気取った話しかたってのができないんだ。公爵様を相手に失礼だと叱られるかもしれないが」
「いや、かまわない。私も堅苦しいのは苦手でね」
彼は、男に、にこやかな笑みを浮かべてみせた。
「それで? シェリーに、なにか用かな?」
「この子が暗い顔して店から出てきたから、どうしたのかと思ってな。欲しかった品が、相当に値が張る代物で、手に入らなかったんなら、俺が口を利いてやろうと思ったんだよ」
「顔が利くのだね、きみは」
「まぁね。どの店にも、ひとつやふたつ、借しがある」
男の口調には、なにも「おかしな」ところはない。
しいて言えば、気軽に過ぎるところだが、性格的なものだと流せなくはない。
なのに、やはり彼の中には、釈然としないものが漂っていた。