2人で街を 4
シェルニティは、ある店を見つけ、少し足を止めた。
わずかな逡巡はあったが、せっかく街まで来たのだからと、意を決する。
「あの……寄ってみたい……お店を見つけてしまったの……」
意を決していても、小声になってしまう。
彼の顔をまともに見ることもできず、少しうつむいた。
「かまわないよ。時間はあるのだから、一緒に行こう」
「え……いえ……あの……ひ、1人で、行きたいのよ……」
「私に遠慮する必要はないのだよ? きみが興味を持ったのなら、たとえゴシップの類を集めた本でも、私は気にしない。私の興味は、きみに向けられているのでね」
彼は、誤解しているらしい。
シェルニティが行こうとしている店が「貴族として似つかわしくないなにか」を取り扱っていると思っているのだろう。
が、違うのだ。
「ええと……それでも、あなたは来ないほうがいいと、思うの……」
さらに声が小さくなる。
ちらっと上げた視線の先で、彼がわずかに驚いた表情を浮かべていた。
一緒に来ているのに、追いはらうような真似は、シェルニティだって、したくはない。
さりとて、一緒に行くのは、どうしたって憚られるのだ。
少しの間のあと、彼が、口元を緩やかにして、笑みを浮かべる。
とたん、シェルニティの頬が赤く染まった。
「なるほど。きみの言う通り、私は、その店には入らないほうが良さそうだ」
「け、けして、邪魔ということではないのよ?」
「わかっているさ。ところで、その店での支払いは、私につけておいておくれ」
「それは、できないわ。私の買い物だもの」
先日、父が帰り際に、買いたいものがあれば、ブレインバーグの名で買うことを許してくれたのだ。
今までシェルニティは無駄遣いを一切していないので、遠慮はいらないとまで、言われていた。
屋敷にいた頃は、与えられている物で納得していたし、父にねだってまで買ってもらった物など、なにひとつなかったのだ。
「いいや、それには同意しかねる」
彼が体を前へとかしがせ、シェルニティの耳元に唇を寄せてくる。
軽く息がかかり、どきんと胸が弾んだ。
「いずれ私のためになるものを、私が買わずにどうするね? わかっているだろう、私の愛しいシェリー」
心臓が痛くなるほど、鼓動が速まっていた。
なぜ、これほど恥ずかしいのか、シェルニティは、わからずにいる。
彼が、耳元で、くすっと笑った。
それから、体を離し、シェルニティの頭を緩く撫で、額に軽く口づけを落とす。
「行っておいで。私は、あそこのベンチで待っている」
「え、ええ。行って来るわ」
「くれぐれも、私に支払わせることを忘れないように」
もう、うなずくだけで精一杯だった。
くるっと体を返し、足早に歩き出す。
まだ、心臓が、どきどきしていた。
(あ、あたり前のことなのに……なぜ、こんなに狼狽えなくてはならないの?)
シェルニティの指には、彼からもらった指輪がはめられている。
苺を象った宝石のついた可愛らしい指輪だ。
先頃、父親に対しても明確にしている。
彼は、シェルニティと婚姻予定。
すなわち、婚約者なのだ。
店の手前で、シェルニティは、ちらっと彼のほうを振り返った。
彼はベンチに座り、彼女に手を振ってみせる。
軽く振り返し、ササッと店の扉を開いて中に入った。
ほう…と、大きく息をつく。
彼女は、街に来たのも初めてなら、店に入ったのも初めてだった。
店の中を見回し、眩暈がする。
そこには「様々な」品が並んでいた。
シェルニティの知らないような物ばかりだ。
(こ、これほど種類があったなんて……服ひとつ選んだことがないのに……)
多くの色や形の物が、店中にあふれている。
こんなふうだと知っていたら、1人では来なかっただろう。
キサティーロの配慮から、シェルニティは王都の屋敷にいる際、複数のメイドと親しくなっている。
その中の誰かについて来てもらうべきだったのだ。
下着を専門に取り扱う店に入るのならば。
けれど、シェルニティは、少しだけ気にしていた。
あたり前にあってしかるべきことを、だ。
彼とは婚約している。
2人で暮らしてもいる。
当然に、そうした夜が訪れる可能性だってある。
婚姻前に、ベッドをともにすることは、いたって「普通」のこと。
貴族教育で、そう教わったのだから、間違いではないはずだ。
ならば「備えておく」のも当然、ということになる。
懇意になったメイドが選んだ下着に不満などない。
むしろ、気に入っているとさえ言えた。
今までだって、与えられたものを身につけてきたのだ。
持っているもので不都合が生じることなど、なにもない。
のだけれども。
なぜか、自分で選んだものを身につけたいと思った。
そして、新しいものを、とも思ってしまったのだ。
(だって……彼が、そうしたいのなら……それは、彼の権利だし……)
なにか違う気もしたが、シェルニティは、なにが違うと明確にはできずにいる。
未だ、男女の関係については、そういうものだと思っていた。
教育上では、子を成すために必要な行為だとされている。
そこには「恋」も「愛」も記されてはいない。
(それにしても……どれを選べばいいのか、わからないわ……)
店内を、きょろきょろと見回す。
何人かの女性が手に取って見ている姿に、自分も同じようにしてみることにした。
とりあえず。
「あなた……もしかして、ブレインバーグのシェルニティ様?」
背後からの声に、シェルニティは、伸ばしかけていた手を引っ込めて振り向く。
見知らぬ女性が立っていた。
服装から、貴族であるのは確かだ。
ドレスの仕立てがいいことにも気づく。
おそらく、侯爵家か公爵家の令嬢だろう。
「失礼いたしました。私は、ラドホープ侯爵家のディアトリーと申します」
「こちらこそ、失礼いたしました。社交界に関わることがなかったものですから、気づかずに申し訳ありません」
「事情は存じておりますわ。私も、あの夜会に出席しておりましたの」
あの夜会というのは、彼がシェルニティの「呪い」を解いた夜会のことだろう。
あの日は、大勢の貴族が集まっていた。
シェルニティの前にいる女性は、彼女より、少し年上に見える。
栗色の髪を結い上げ、目を引く赤いドレスの胸元は、大きく開いていた。
「今日は、ローエルハイド公爵様と、ご一緒ではないのですか?」
「いえ……彼……公爵様は、外に……」
急に、話が私的なものになったので戸惑う。
これまでの屋敷とは違い、王都の屋敷では勤め人たちと話すようになっている。
そのため、少しずつ「会話」に慣れ始めてはいた。
とはいえ、彼とのことを詮索するような話は、一切されていない。
逆に、シェルニティが、キサティーロに、彼について聞くことはあるけれど。
「シェルニティ様も大変ですわね」
ディアトリーという女性が、ちらっと、視線を店内に走らせる。
なぜか、羞恥に、シェルニティは、その場を逃げ出したくなった。
あたり前のことであり、なにも恥ずかしいことではないはずなのに。
「ラドホープは、リディッシュ公爵家の下位貴族でございましょう? ですから、同じ下位貴族のエデルトン伯爵家のことは、よく存じておりますのよ」
貴族の構成は、シェルニティも知っている。
どこの家がどこの家に連なっているか、派閥がどうなっているか。
学んだことは知識として頭にあった。
けれど、なぜ、その名が出てきたのかは、わからずにいる。
「公爵様は前の奥様を大層に愛しておられて、十年も1人でいらしたのですもの。シェルニティ様が、公爵様の愛を得ようと、必死になるのもわかりますわ」
その言葉に胸の奥が、ずきり、と痛んだ。