目覚まし代わりの 1
「やあ、起きてきたね、愛しい人」
階下からの声に、シェルニティは、にっこりする。
視線を向けた男性の口元にも、笑みが浮かんでいた。
家の中心部は吹き抜けになっているため、見下ろすと目線が繋がるのだ。
寝起きではあるが、ちょっぴり胸が、どきどきする。
ジョザイア・ローエルハイド。
シェルニティの愛する男性であり、ローエルハイド公爵家の当主だ。
彼女は、ブレインバーグ公爵家の令嬢で、少し前まで、レックスモア侯爵と婚姻関係にあった。
が、夫のクリフォードから婚姻解消の審議を申し立てられ、結果として、それは受理されている。
よって、誰と一緒に暮らしても、誰を愛しても自由。
そして、彼女が一緒にいたいと望み、愛したのが、彼なのだ。
シェルニティは、ゆっくりと階段を降りる。
手に優しい、ぬくもりの感じられる木の手すりを掴み、けれど、視線だけは彼に残した。
穏やかなまなざしを受け、心が満たされる。
ここで彼と一緒に暮らすようになり、初めて知った感覚だ。
(でも、なぜかしら……最近、恥ずかしいと思うことが、増えた気がするわ)
思いつつ、階段を降りたところにある、居間のソファに歩み寄る。
横並びにソファが2つあり、その前に、木のテーブルが置かれていた。
そもそも家自体が木でできていて、全体的に暖かみがある。
先に座っていた彼の左隣に、ぽすんと腰かけた。
そこが「自分の場所」だと認識しているからだ。
以前とは違い、指示されたわけでもないのに、そう思っている。
「ずいぶんと、私に寂しい思いをさせるじゃあないか、シェリー」
その言葉に、責めるような響きはない。
むしろ、甘さをふんだんに含んでいた。
彼が、シェルニティの左頬に口づける。
以前は、決まって右頬だったのだが、最近は、どちらにも「公平」だ。
彼の短めな黒い横髪が、さわさわとシェルニティの耳に当たる。
くすぐったさに、小さく笑いながら、彼のほうへと体を向けた。
黒い瞳が、やわらかく細められる。
少しだけ垂れている、すっきりとした切れ長の目には、2つの印象があった。
穏やかな時の、甘くて安心感のある雰囲気。
無感情な時の、冷徹で容赦のなさを感じさせる雰囲気。
どちらも彼だと、シェルニティには、わかっている。
もちろん、穏やかなほうがいいのは間違いない。
さりとて、冷徹な彼を、彼と見做さず、切り捨てることはできなかった。
シェルニティは、彼が内包している、どの部分も、愛しく思っているのだ。
(私にも、自分では、どうしようもできないことはあるもの)
彼は、周りから「人ならざる者」と呼ばれていた。
それは、彼の持つ力の大きさゆえだ。
彼自身も、それを受け入れている。
が、シェルニティは、微妙に違っていた。
(確かに、彼は大魔術師なのかもしれないけれど……人よね)
ここ、ロズウェルドは、この大陸で、唯一、魔術師のいる国だ。
中でも、彼は、特異な魔術師として扱われている。
とはいえ、たとえば無防備で刺されれば、命を落とすだろう。
そういう意味で言えば、彼だって「人」なのだ。
けして、不老不死の「人ではないなにか」ではない。
「なにを笑っているのか、きみの頭にある、私の姿を教えてくれるかい?」
「あら? 私の頭を覗く魔術はないはずでしょう? なぜ、私が、あなたのことで笑っていると、わかったの?」
魔術は万能ではない。
というのは、彼の口癖のようなものだった。
人の心を覗いたり、操ったりする魔術はないのだという。
便利ではあるが、便利という以上のものではないらしい。
不都合も多いのだと言い、普段、彼は、あまり魔術を使わずにいた。
魔術で簡単に、どこへでも自由に行けるのに、あえて馬を使ったりだとか。
「そりゃあ、きみの頭の中にいるのが、私であってほしい、という願望を、いつもいだいているからだね」
彼が、ひょこんと眉を上げる。
おどけた仕草も、彼がすると嫌味がない。
むしろ、とても「彼らしい」と感じる。
「この間、あなたが、釣り針をつけ損なったことを思い出していたのよ」
「私のしくじりが、きみに笑顔をもたらしたのは幸いだがね。愛する女性の前で、不格好な姿を見せた男としては、恥じ入るばかりだよ」
「魔術で治癒すれば良かったのに」
「あの程度で? 私は、それほど大袈裟な健康志向など持っちゃいないさ」
彼は、命がありさえすれば、どんな大怪我だろうと、魔術で、即座に治せる。
シェルニティも、実際、それで救われていた。
なのに、彼は、自分に対しては無頓着なのだ。
シェルニティの怪我となると、それがどれほど些細でも、治癒するのに。
「私は、あなたと出会って、過保護の意味を知ったわ」
「それは、私の特権だからね」
シェルニティは、彼と出会う前の自分を、今では、よく思い出せずにいる。
覚えているのは、本を読んでいたことくらいだった。
1日中、部屋にいて、ほとんど部屋の外に出ていなかったからだ。
産まれ育ったブレインバーグの屋敷でも、のちに嫁いだレックスモアでも。
体を少し倒し、彼の頬に口づける。
彼が、なにやら驚いたような様子を見せた。
「女性から口づけるのは、良くないとされていたわね」
貴族教育は、ひと通り学んでいる。
男女の関係についても、知らないわけではない。
ただ、シェルニティに「男女関係」を求めてくる相手はいなかった。
そのため、実際のところは知らずにいる。
「私に限っては、良いことだよ、シェリー」
彼が「私に限って」というところを強調していた。
それで、気づく。
「アリスもね」
「たてがみだけ、という誓いを忘れないように」
「わかっているわ」
アリスというのは「馬」だ。
彼に飼われているわけではないようだが、呼ぶと現れる。
2人は、アリスに乗り、遠出をしたりもしていた。
濃い青色っぽい毛並みと、暗い青色をした瞳のアリスは、美男子だと思う。
最初に懐いてくれた動物でもあり、シェルニティのお気に入りなのだ。
が、どういうわけか、彼は、彼女がアリスと仲良くしていると嫉妬する。
アリスの尾に火をつけられては困るので、シェルニティは、アリスへの口づけを「たてがみ」だけと誓っていた。
「それはそうと、きみ。式のことなのだけれどね」
シェルニティの胸が、ふわっと暖かくなる。
同時に、どきどきと鼓動が速くなってきた。
式、というのは、彼との婚姻の式のことだ。
(レックスモアの時は手続きだけだったから、儀礼的なものと勘違いしていたわ。彼は、式を挙げるつもりでいるのね)
式を挙げるということに、彼との婚姻を実感している。
言われるまで意識していなかったし、どうしても式を挙げたい、と思ったこともなかったけれど。
「どういうふうにするのがいいか、相談をしたいと思っているのだよ」
「どういうふうにって?」
「盛大に行うか、こじんまり行うか、とかね」
「私、あまり式には詳しくないの。どちらがいいのか、よくわからないわ」
彼は、1度、婚姻している。
前妻は亡くなっているが、おそらく、その際も式は挙げたはずだ。
ならば、勝手を知っている彼に任せたほうがいいのではないか。
思った時だ、彼の眉間に皺が寄る。
(あら。お客様が来たのね)
彼女との会話中に客が来ると、彼は、こういう顔をするのだ。
彼を「観察」しているシェルニティには、もうそれがわかるようになっていた。