おわり
### 8.
支配人はふらふらと〈夏の家〉の玄関先まで戻ってくると、手を差しのべる世話人たちの中に倒れ込んだ。
「ああ……L……このままではいかん……」
苦しげに目を閉じ、うなされるように支配人が言った。
「をのかむなぎ様、をのかむなぎ様。私たちがLを取り戻しに参りましょう」
世話人の中の誰かが支配人に申し出ると、彼らの間で喧々諤々の議論が始まった。
「我らに何ができようか」
「シケイダに切り裂かれてしまうのが関の山だ」
誰かがそう言うとみんな黙り込んだが、やがてまた他の誰かが意を決したように口を開いた。
「しかし、かわいいLをこのままにはしておけん」
「シケイダはシケイダから生まれてくるべきぞ。Lの腹を割いて幼生が生まれてくるなどあってはならんぞよ」
世話人たちは急に勢いづくと、胸の前でこぶしを固めて頷きあった。
「おまえたちはふるえあがって逃げ出したじゃないか。僕を置いて。結局同じことの繰り返しだよ……忠義に篤いのはよくわかったけど無理をしてはいけない」
「なんと身もふたもないことを言う人よ……」
支配人が弱々しく言うと、世話人たちは深くため息をついた。
「ああ、エルーザ……なんでこんな時にいてくれないんだ……」
支配人がうなだれ、苦しげに呟いたその時、ミニクーパーの軽いエンジン音が響き渡った。
### 9.
「ただいま!」
魔女のエルーザは車から降りてくると、髪をなびかせ満面に笑顔を浮かべながら大声で呼びかけた。
「悪いんだけど、荷物下ろすの手伝ってくれない?……どうしたの、みんな?」
後ろにまわってハッチに手をかけたエルーザは、ようやく集まった人々の深刻な様子に気付いて、首を傾げた。
「エルーザ、ずいぶん早く帰ってきたじゃないか」
支配人はそう言って年代物の腕時計に目をやった。
「うーん……今日、納品じゃなかったんだ。先月の注文書見て勘違いしちゃって」
きまり悪そうに苦笑するエルーザを、支配人は唖然として見つめた。
「いや、しかし戻ってきてくれてなによりだ……Lが……Lが大変なんだよ」
「なんですって?」
***
「困ったわね」エルーザは唸った。「あたしが迂闊だったわ」
「もう手遅れではなかろうか?」
世話人の誰かが引きつった声で言った。
「そうかもしれない。でも……」
エルーザは最も残酷な結末を思い描いてひとつ息をついた。
「もしそうだとしたらLを捧げ物にしなくちゃいけない」
その場にいた全員が「ああ……」と嘆息し、そろって納屋を見つめた。
納屋は静かな初夏の空の下で何事もないかのように佇んでいた。悲鳴はおろか、物音ひとつ聞こえてこない。
「なんとかならないか?Lは大事な姪っ子じゃないか」
支配人が言った。
「……やってみるわ」
エルーザは覚悟を決めたように軽く顎を引いて納屋を睨めつけた。
「私たちに手伝えることがあったらなんでも言ってたもれ」
世話人たちが口々に言った。
「ありがとう」
エルーザはわずかに微笑んで応えると、小さくひとりごちた。
「どんなに数が多かろうと、あの子たちが夏精にかなうはずないけどね……」
### 10.
藁山の頂上で目を覚ますと青年の赤い目がそこにあった。やはり全裸のまま片肘をつき、口元に笑みを浮かべてLを見つめている。Lは自分が気を失っていたことに気づいた。
「大丈夫かい?」
青年がやわらかな声で訊いた。頭の奥が少し重い。こめかみに手を当てると、Lはハッと体を起こして右手を振り上げた。
「寝てる間に何かした!?」
「君の寝顔を見ていた」
声を裏返したLに、青年は優しい笑みのまま言った。
「君が眠る僕を見ていたように」
その驚きは心臓を抉られているのではないかと思うほどだった。
春、Lはハルニレの森で、まだ幼生の青年を見つめていた。幼生期の終わりごろになると、蜀の形をしたシケイダの体は透きとおって、その中で眠るほぼ成体となった彼らの姿を見ることができる。森に分け入って、ふと、やわらかな腐葉土の下から幼生の体がわずかにのぞいているのを見つけた時、Lはその中に眠る夏精の幼生を見たいという気持ちを抑えることができなかった。
「見てたの?」
青年は静かに首を横に振った。
「知っていたんだ」青年はもう一度微笑んだ。「その時から君は僕の〈つま〉だ」
そんなことがありうるとは聞いたこともなかったけれど、それも結局人にあらざる精霊のことなのだから、知らないことがあっても当然だとLはひとり納得した。
「そうか……わたしが……」
シケイダの森に入ることは重大な禁忌だった。それを知っていて破ったのだ。Lはこの状況が自分で招いたものだと悟った。
***
とんでもないことをしてしまった、と思うとLは一気に怖くなってきた。どうしたらいいかわからなくなると、逃げ出してなりゆきに任せる他ないような気分になった。
「私、そろそろ帰りたい」
「どこに?」
「私の家に。みんなきっと心配してるわ」
Lはお尻をついたまま、そろそろと藁の山を降り始めた。
「ここにいよう。ここならふたりきりだから」
青年がLの手首をつかんだ。青年は力が思いのほか強くて、つかまれた手が痛かった。Lは思わず声を大きくして言った。
「ずっとここにはいられないわ。ごはんだって食べなきゃいけないし、お風呂にも入らなきゃいけないもの。着替えもしなくちゃいけないし、読みかけの本もあるの。それに私、ベッドで休みたい」
「ここにいるんだ」
青年が手に力を込めると、Lは泣き出したくなった。
「もうやめて」
Lが強引に青年の手を振りほどいた時、二人の頭上にひらりひらりと影が踊った。Lと青年がそろって天窓を見上げると、一目で猛禽とわかる大きな鳥が片足を窓べりに乗せ、バサバサと風を孕んだ翼をたたむところだった。
「鷲……? どうして……?」
Lがふと青年を見ると、青年は額から大粒の汗を流しながらガタガタ震えていた。
「ねえ、どうしたの? だいじょうぶ?」
「あ……」青年は言葉を忘れた老人のように呻いた。「いやだ……」
「どうしたの? 鷲が怖いの?」
猛禽は翼を広げて二、三度はばたくと、納屋の梁に舞い降りた。青年が耳障りな叫び声をあげた。
「たす……助けて……!」
青年はパニックに陥ってLにすがりついた。
「ちょっと……やめて…。落ちる……!」
二人は重心を失って、そのまま藁の山から転がり落ちた。
***
「あ……痛……」
Lが落ちた時に打ったひじをさすっていると、外から扉を激しく叩く音が聞こえた。
「L、ここを開けて!」
青年は膝立ちになって見下ろす猛禽を凝視していた。もうLのことも視界に入らないようで、鷲が首を回すとか、少し動くだけでもびくっと震えていた。
「伯母さん!?」
Lがよろめきながら立ち上がって閂をはずすと、モップを携えたエルーザが飛び込んできた。その後ろには支配人や仮面の世話人たちがつめかけている。
「大丈夫? 無事? 本当に何事もなかった?」
エルーザはモップを放りだしLの両肩をつかんで問いただした。
「うん、大丈夫……と思う」
Lは伯母の迫力に気圧されながらうんうん頷いた。
「本当に?」
「大丈夫だってば……どうしたの?」
「どうしたのって……」エルーザはコホンとひとつ咳払いした。「処女のうちに教えないといけない魔法がいくつもあるからよ」
Lはそれを聞いて顔を真っ赤にした。
「でも細かいことはあと」
エルーザは汗をだらだら流しながら固まったままの青年に目を向けた。
「どうするつもり?」
「L、魔方円を描くから手伝って」
エルーザは喋りながらモップの柄を使って青年を囲む同心円をいくつも描き、さらに縦の線をひいてバームクーヘンのように区切っていった。
Lは慌てて壁に立て掛けてあった農具の中から小さめのレーキを取ってきて柄を下にする。エルーザが円を指さしながら指示を出す。
「プロキオンの枠はわかる? 西から、エルス、コミナス、ルクレミノス……」
言いながらエルーザは自分の足下にもいくつかの図形を重ね合わせたような記号を描いていく。
二人の魔女が(ひとりは見習いだが)空のアスペクトを砂の上に描いている間、青年は彼女たちをかわるがわる見つめるだけで何も手出しをしなかった。彼が動こうとすると、梁の上から猛禽が飛び立って青年の頭上をかすめ飛んでいくからだった。
***
即席の魔方円ができあがった。エルーザは斜め掛けしていたバッグから小さな本を取り出し、とあるページを開くと、片手で印を結びながらそこに書いてある呪文を唱えはじめた。
「ラウベルの名において。また、始まりも終わりもない万物の端緒原理として、古く高いもののすべてを超えてこの世に作用する長老の名において。われわれは微にして本性も行いも脆いがゆえに希う……」
エルーザが呪文を読み終えた時、魔方円が光を放ち、同時に青年の肌を乳液状の膜が覆いはじめた。膜はたちまち乾いて殻になり、やがて青年は彫像のように動かなくなった。
エルーザはほっと息をついた。
「エルーザ、大したもんじゃないか」
支配人が目を丸くしながら納屋に入ってきた。
「すごい、叔母さま……」
Lも心の底から驚いていた。
「ちょっと本気出せばこんなもんよ……さあ、運び出してちょうだい」
仮面の世話人たちは扉の外から成り行きを見守っていたが、エルーザに命じられてぞろぞろと動き始めた。
「森にお返しするわ……それでどうなるかは返してみないとわからないけど、時間が経てば封印は溶けるから、そこで新しいお相手を見つけてくれるといいんだけど……あっ」
そこまで言ってエルーザが素っ頓狂な声をあげた。
魔方円に入った世話人たちが足下から燃え出したのだ。火はごうという音を立てて一息に世話人を飲みこむと、あっという間に黒く焦がしていく。魔法円のまわりに居合わせた世話人たちも火の粉を浴びて次々炎に包まれた。
「おまえ、どこか間違ったんじゃないのか?」
支配人は着ていたシャツを脱いで、火のついた世話人の背中をはたいていた。世話人たちは阿鼻叫喚の騒ぎだった。危うく火難を免れた世話人たちは出口に殺到して将棋倒しになり、仲間を踏みつけながら逃げ出して行く。
「ええ?……そんなはずないんだけど」
そう言ってエルーザはLを横目で見る。
「わたし、言われたとおりやったと思うんだけどなー」
「魔法円て書き方を間違えると危険なのよ。エネルギーが偏っちゃって」
「わたしじゃないと思いますけど!」
Lは頬を膨らませて伯母から目を逸らせると、ごほごほ咳きこんだ。煙があたりに漂って息苦しい。エルーザも支配人も袖を口元に当てていた。
「円が歪だからじゃないか?」
支配人にそう言われるとエルーザは眉間に皺を寄せて考え込んだ。
「おまえ、雑なところあるから」
「うーん、あれで十分だと思ったんだけど……あれ?鳶は? どこに行ったのかしら?」
「あれ、鳶なの? 逃げて行ったみたいだけど……鷲かと思ってた」
天窓を見上げてLが淡々と言った。
「煙のせいで術が解けちゃったかな……。仕方ない、魔法円を解くしかないわね」
「どうするの?」
「それはね……」
Lの問いにエルーザのまなざしがきつくなった。
***
世話人が燃えたあとには灰と仮面が忘れ物のように残されていた。
「ヒトガタって元は紙だもんなあ」
支配人は煤けた仮面を拾い上げると、得心したように何度も頷いた。
「しょうがないわ、どうせ繁殖が終われば燃やすんだから……いい子たちだったけどね」
「ずいぶん薄情じゃないか……魔女ってのはおそろしいもんだね……おい、藁に火がついてるよ!」
支配人が愕然として藁の山を指さした。見ればもくもくと煙が上がっていた。支配人は裏からホースを引いてくると言って納屋を出て行った。
「もうだめだわ。L、ここを出よう」
「伯母さま!」
Lが魔法円の中心を指さして悲鳴をあげた。
青年を包んでいた膜がどろどろに溶けて、上半身があらわになっていた。
青年の瞳が動いてLを見据えた。青年はLに向かって歩き出そうとしたが、下半身に残った膜に妨げられて思うようにいかず、一歩目を踏み出したところで前のめりに転んでしまった。羽に溶けた膜がこびりついて、ひくひくと力なくはためいていた。
「つまよ……」
立ち上がれず両肘で這いにじる青年の体から細く煙が立ち昇りはじめた。
「確かにこの魔法円は失敗だわ。かわいそうだけど……魔法円は結界だから出ることもできないもの」
エルーザは苦み走って言った。羽化したばかりのシケイダの成体を灰にしたとあっては、魔法使いギルドからの譴責は免れえない。
「伯母さま、助けてあげて!」
Lはエルーザの袖にしがみついて懇願した。
「そのシケイダにはここで死んでもらうしかないわ。所詮七日の命よ」
「だって伯母さま、森の魔女でしょ!? ギルドからも怒られるんじゃないの?」
「そんなのなんだっていうの! 魔女はね、火に焼かれて死ぬのが一番の屈辱なのよ、歴史を勉強なさい!」
エルーザはLを怒鳴りつけると、ずるずる引きずりはじめた。
「だめよ、そんなの……」
Lは震えながら呟いた。青年は砂と灰にまみれながらなおも進み続けたが、円の際まできたところで動けなくなった。
青年は顔を上げてLを見つめた。その目には涙がにじんでいた。
「僕のつま……」
Lはやがて自分の目にも涙があふれだしてくるのを感じた。そして、エルーザを突き飛ばして駆け出すと、魔法円に踏み入った。
「何してるの、L! 入っちゃだめよ!」
「だって置いていけないわ!伯母さま、助けてあげて」
Lはひざまずくと青年の頭を抱いて言った。藁の山に燃え移った火は炎となって壁を焼き、屋根に届こうとしていた。
納屋中を火の粉と灰が舞い飛び、Lは体の内側から異常に熱くなっていくのがわかった。
「急になんなの!? あんた、頭どうかしてんじゃないの? 思春期だからってやっていいことと悪いことがあるわ!」
エルーザは混乱して叫んだ。そしてバッグからナイフを取りだすとLの足下に放りなげて言った。
「魔法円を解くには、そのシケイダの血を捧げるしかない。彼が魔法円の中心になるようつくったからよ。わたしはこれ以上リスクを負わないわ。L、あなたがやりなさい」
エルーザは魔女らしい残酷さと厳格さをむきだしにして言った。
「でも、かわいそうよ……」
Lの涙が青年の頬に落ちて、彼の涙とまざりあった。
「早くしなさい!」
エルーザは全身で叫んだ。その声はひび割れてほとんど言葉にならなかった。
「おい、何してるんだ!? 早く逃げなくちゃ!!」
支配人がホースを握って飛び込んできた。ホースの先からは水が迸っていたが、もはや焼け石に水なのを悟ってか、支配人はホースを投げ捨ててエルーザの腕をつかんだ。
「L、早く来るんだ!」
「あの子たち、出られないのよ!」
青年はLの胸に抱かれて、掠れる声で呟いた。
「一緒に死のう。僕たちは契りを交わしたんだから。運命も共に」
その言葉を聞いた瞬間、Lの顔から表情が消えた。そして足下に転がっていたナイフを手に取ると、なんのためらいもなく青年の首に突き立てた。
「わたし、許してないわ」
青年の首筋から噴水のように血が噴き上がった。咽喉からごぼごぼと通りの悪い水道管のような音が聞こえて青年は息絶えた。
### 11.
血まみれのLと灰かぶりのエルーザは燃え続ける納屋を見守っていた。
支配人はもう燃やし尽くすしかないのを知りながら、逃げのびたヒトガタと精々水をかけていたが、ヒトガタが燃えたり逃げたりしてろくに作業が進まないので、いっそやらない方がましだった。
「あなた、もしかしてシケイダに……」
エルーザが言いかけると、Lは前を見たままこくりと頷いた。
「わたし、森に入るわ。で、卵を産んで……あとどうなるのかしら。とにかく、それがわたしの宿命なんだわ」
目をうるませてそう言ったLはどこか自分の運命に酔いしれているようにも見えた。
エルーザが言葉に詰まっていると、Lが誰に言うともなく言った。
「わたし、処女じゃなかったわ」
そう、とエルーザが答えた時、納屋が音をたてて崩れ落ちた。
〈おわり〉