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Cicada  作者: ゆゆしき七月
1/2

はじまり

### 1.



「結婚しよう」と言われた時、Lは本当に心臓が止まったような気がした。目の前が真っ白になって、息ができなくなって。

 夏の光がこぼれ落ちるハルニレの森で、青年はあっけにとられるLの白い手をとり、夕焼けを閉じ込めたような透き通った目で —それは夏精シケイダの際立った特徴のひとつなのだが— まっすぐLの目を見つめて続けた。

「今すぐに」

 そう言って、青年はLの頬に触れた。Lが思わず逃げ出したのも無理はない。なにしろ彼女はまだ15歳になったばかりで、伯母に言われてヘビイチゴの果実を集めに来ただけだったのだし、亜麻色の巻き髪をした青年はとびきり美しく、しかも一糸纏わぬ姿だったのだから。

—どうしよう、どうしよう?

 頭の中は天地がさかさまになったような大混乱だった。Lは何度もつまづきながら森を駆けた。おかげでせっかく摘んだヘビイチゴもほとんど落としてしまった。

—伯母さまは一言も言わなかった。羽化してるかも、なんて……。



### 2.



 灰色の髪をした〈夏の家〉の支配人は見た目ほど歳を取っているわけではなかったが、Lはかねがね伯父というよりおじいさんみたいだと思っていたし、同時に、鷹揚でいつも熱心に話を聞いてくれる彼を気の置けない友人のようにも思っていた。

 その支配人は、庭に脚立を出してオベリスクに這わせたバラを仕立て直しているところだったが、駆け戻ってきたLが勢いあまって脚立に手をかけたものだから、あやうく足を踏み外しそうになった。

「どうしたんだい? そんなに慌てて」

 支配人は一気に吹き出た汗をぬぐいつつも、全身で息をしているLに訊いた。黒縁メガネの奥の目が優しげで、オーボエのようにまろやかな声をした人だった。

「……伯母さまは?」

「町に行ったよ。今日、納品だったのに忘れてたんだってさ」

「ええ? なにそれ、ひどい!」

「品物が揃わないって青ざめてたっけ。ヘビイチゴでつくる膏薬がうまくできなかったって」

 最近やたらとヘビイチゴを摘みに行かされるLはあら、と小さく驚き、支配人の方はあいつのうっかり者ぶりときたら、まあ天才的だね……と、あくまで他人事のように笑った。


 町にでかけたとあれば、伯母がすぐに帰ってくる見込みはもうなかった。

 パワーステアリングもなく、窓も手動で開閉しなくてはいけない年代物のミニクーパーを鼻歌交じりに走らせる伯母の横顔が目に浮かぶ。くせの強い赤毛の髪を肩まで伸ばして、鼻と頬に残るそばかすが彼女のうまれもった気質を知らせているようだった。

 小さな車の狭いラゲッジルームには、お手製のジャムや森の薬草から拵えた薬の瓶がぎっしりと積まれていたはずだ。伯母がやってきたのを知った町の人たちは次々押しかけてきて、買えるものならなんでも買い、星の巡りや子供の疳について尋ねてはいつまでも伯母を自由にしないだろう。一度などは金持ちの市長夫人から屋敷に招かれて一週間近くも帰って来なかったことさえある。

 日が暮れる前に帰って来られれば上出来だ。


「もう、こんな時に!……そもそも魔女が町の人たちと仲良くするのがおかしいのよ」

 Lは拗ねて嫌みを言った。

「まあこのご時世じゃね。フレンドリーじゃなけりゃやっていけないのさ……それで、何を慌ててるんだい」

 二度訊ねられてようやくLがいきさつを話すと、支配人はにわかに深刻な表情になった。

「じゃあ、もうすぐここに来るんじゃないか? L、隠れたほうがいい」

「隠れるって、どこに?」

 支配人は持っていたハサミの先できっ、と納屋を差した。



 Lが内側から閂をかけたのを確かめると、支配人は〈夏の家〉に戻っていって、無聊を持てあます世話人たちを焚きつけた。

「お客様だ。さあ支度をはじめてくれ!」

 世話人たちはドレープの入った滑らかな絹の服に、太陽を象ったバックルのついた革のベルトをしめ、さらにすべての者がうすい白陶の仮面をつけていた。仮面はどれも違いがなく、鼻先が尖っていて、両目にあたる部分が丸く黒く穿たれていた。黒い穴のその奥にあるはずの目は見えないのだった。そしてこれは世話人がシケイダから身を守る唯一の手段だった。

 占いや双六、茶話にかまけていた世話人たちは急にあおり立てられて色めき立った。あらかた準備は済ませていたものの、夏至の日までは自分たちの出番は来ないと思い込んでいたのだ。

 花びんに花が飾られ、厨房では竃に火が入り、一番出来のいいワインがセラーから出された。

 準備が整った頃、客人は〈夏の家〉にやってきた。



### 3.



 抜け殻を利用して腰巻きだけはしていたものの(これはシケイダの本能だった)、ほとんど全裸のままの青年は少しも迷うことなく〈夏の家〉にたどり着いた。そして、まるでわが家に帰ってきたかのように門をくぐった。

 支配人は世話人たちをつれて迎えに出た。

「ようこそおいでくださいました」支配人は慇懃に言った。「あなたがこの夏最初のお客様です」

 青年はどこか上の空の様子で、〈夏の家〉を見上げながら頷いた。

「僕は妻を探している」

 青年は出迎えた人々をまるで無視するように言った。表情も無愛想きわまりなかったが、声だけは湖を渡ってきた風のように涼しくさわやかだった。それは彼ら夏精がたぐい稀な宝石のように扱われる理由のひとつだった。

「奥様はまだお見えになりません。一息つかれてはいかがですか」

 青年はどうしたものか、とでも言いたげに支配人を見つめていた。ひとかけらの邪気も感じられないまなざしは、まさしくシケイダのものだと支配人は感じ入った。

 つややかな髪を美しく巻いた世話人頭の女が隣に立って、さあ、と扉が開かれたままの玄関を指し示すと、青年はようやく決心がついたように歩き始めた。

 傍らを通り過ぎた彼の背中には、透明なステンドグラスを思わせる四枚の羽が生えていて、息づくように動いていた。

「まだ飛ぶことを知らないらしい」

 支配人がひとり呟いた。

「羽化が少し早かったんだろうか」



 青年は白い大理石の浴場に案内されると、世話人の女たちに取り囲まれ、泡だらけにされて体の隅々まで洗われた。裸になった世話人たちは、体にぬらぬらと光を反射するオイルを塗っていてなまめかしく、たっぷりと張られたお湯はほのかにイランイランの香りがした。青年は鼻まで湯船に沈むと静かに目を閉じた。

 赤ん坊の肌のように柔らかなガウン(ちゃんと羽が出るようになっている)を着せられてラウンジに入ると、青年はたくさんある中で、ちょうど中央に置かれたソファを勧められた。雲に乗ってるみたいに座り心地のいいソファだった。

 世話人たちは青年の周囲にはべって、純白の団扇をふり、もう一人が足下に座り込んで彼の太ももからつま先に、もう一人が後ろから、彼の肩から腕、胸へと香油をすり込んだ。

 庭に通じるバルコニーの扉が開け放たれ、そこでは竪琴と笛が夢の中から聞こえてくるような音色を奏でていた。

 仔牛の肉を柔らかく煮込んだ料理をワインでたいらげる頃には、青年の表情もかなりやわらぎ、満足げな笑みが浮かんでいた。

「やれやれ」

 青年の様子を物陰からのぞき見ながら、支配人は世話人頭を呼びつけて言った。

「お相手が現れるまで、なんとか時間を稼ぐんだ。Lのことを勘づかれてはいけないよ」



### 4.



 Lはといえば、青年が「夏の家」を訪れ、招き入れられる様子を納屋の壁板のすきまからずっとのぞき見ていた。

 遠目からでも惹きつけられる青年の恐ろしいほどの美貌には息をのんだけれど、それ以上にLが気がかりだったのは、シケイダに求婚され交わった者は、すべてを捨てて森に入らなくてはいけないという魔法使いの掟の方だった。

「いい、シケイダと目を合わせちゃだめよ。あの人たち……人じゃないけど、目が合った異性ならだれかれ構わず繁殖相手だと思い込んで、特に最初に目を合わせた相手は〈つま〉として、どこまでもつきまとうからね。とにかく目をあわせちゃダメよ……」

 それから、と言って伯母は片方の眉をあげ、少し大仰な感じで重要な注意を付け加える。

「ハルニレの森に入ってはいけないわ。あそこは人間が気楽に立ち入っていい場所じゃないの」

「じゃあ……どうしてわざわざわたしにヘビイチゴを摘みに行かせるの?」

 ヘビイチゴの群生地はハルニレの森のすぐ近くだったから、Lが疑問に思うのは当然だった。

「それはさ……」エルーザは少し言いにくそうにした。「処女が摘むのが一番いいからよ」

 Lはぎょっとして顔を赤らめた。



***



 神学的魔法学の観点で視ると、夏精シケイダはホムンクルスやオドラデクと並んで、現次元における生出要件の厳密さから、その繁殖地が存在すること自体が奇跡的といえた。さらに、終わりのない環境汚染のためにシケイダをはぐくむハルニレの群生地が消滅し続けていることは絶滅にたいする危惧をいっそう強めてきた。


 シケイダの幼生のふんは、眠りのさなかに彼らが見た夢の残滓だとして、時間魔法を扱う者にとってなくてはならない、そしてどんなに欲しくてもおいそれとは手に入らない(すぐに土壌に吸収されてしまうのだ)、とびきり上等の魔法材料だったし、羽化した雄性シケイダの精液は液化した月光とされ、老化こそ止められない(・・・・・・・・・・)ものの継続的に摂取することで驚異的な長寿をかなえる妙薬として知られていた。


 幼生の数年間を地中で過ごした彼らは歳が満ちると夏至の夜を境にして地上に現れ、ハルニレの木の下で古い殻を脱ぎ捨てて羽化する。成体となった彼らは森を飛び立ち、愛を交わす相手を探す。大人になった彼らに与えられた時間は長くても七日間しかない。


 問題は、羽化したシケイダの生体を捕らえて繁殖させようとか(まちがいなく失敗するのに挑戦する者が後を絶たない)、あるいはその姿の美しさから剥製にすることを望む者、性的な快楽を得るための道具にしようとする者がいることで、魔法使いたちにとっては、そういった者から依頼を受けた狩人の手からシケイダを守ることはつまり自分たちの領域を守ることと同じだった。


 近年になって魔法使いギルドはシケイダ保護のために資金を拠出して、繁殖地の発見、保護を密やかに、しかし熱を込めて行ってきた。規模の大小にかかわらず、シケイダの生出が確認された地域にはコロニーを設立し、羽化した成体を導き入れてもてなし(良好な精神状態が生殖に有利に働くことは言うまでもない)、カップリングから産卵、そして最期に火葬し灰を森に戻すまでの、すべてのプロセスにかかわってきた。


 Lの伯父伯母が管理を任されている〈夏の家〉もシケイダを保護する施設のひとつであり、Lは毎年この季節になると、魔法修行をかねて滞在するのだった。



***



―もしかして、まるまる一週間ここにいなきゃいけないの? じょうだんでしょ?

 開いた天窓からさしこむ四角い光の中にしゃがみこんで、あれこれ考えを巡らせるうち、Lの内側には怒りに近い感情がわきあがってきていた。

—わたし、なんにも悪いことしてないのに。

 戸口に人の気配がしてLが顔を上げると、果物や焼き菓子、それに水筒を入れたバスケットを抱えて支配人が入ってきた。

「どうだい、納屋の居心地は?」

「どうもなにもないわ。土臭いしほこりっぽいし……」

 のんきな支配人にいらいらしながら、Lは広すぎる納屋を見回して言った。その気になればテニスでも出来そうなくらい広いのだ。

「ところで、彼……どんなかんじ?」

 Lがおそるおそる訊いた。彼女からすればシケイダの青年はまさに宝石のようなものだった。一度でも見たら、もう一度見ずにはいられず、やがては触れなければ気がすまなくなる。

 過酷な掟が待っていると知っても、だからこそ触れなければ気がすまなかった。

「おくつろぎさ。もしかすると、上手いぐあいにおまえのことを忘れてくれるかもしれない」

「いつ帰れるの? もう帰っていい? 見つからないように自分の部屋にこもってるから」

 ぱっと顔を明るくしたLを、支配人は難しげに見つめ返した。

「いいや、お相手が現れるか……さもなくばお昇りになるまで待った方がいい……ここならお手洗いもついてるし」

「えー?だって一週間もあるんでしょ?お風呂は?」

「大丈夫さ、何も心配いらない」

 支配人が抱え持っていたバスケットをぽんとたたいてみせる。

「何も大丈夫じゃない」

 Lは駄々っ子のように頬をふくらませた。

 母屋は大理石で造られた清潔で瀟洒な建物だった。光がふんだんに入るうえ、この季節になるとシケイダを導き入れるために貴重な香木が焚かれて、いつもそこはかとなくいい香りがする。Lの部屋も用意されていて、小さいけれど魔法修行中の女の子にとっては充分なほど、快適なことこの上なかった(トイレは廊下にあったが)。

 それにひきかえ、納屋の方はどういうわけか木造で、窓は屋根に明かり取りがひとつあるだけ。時間にまかせて古びる一方だった。

「落ち着いて考えなくちゃいけないよ。おまえはものすごく気分屋なところがあるから」

 支配人はコホンとひとつ咳払いした。

「もし……もしだけどさ、万が一にもシケイダの子を孕むようなことになったら、どうするつもりだい?」

 支配人の言葉に、Lは顔を紅潮させた。子を孕むことではなく、そこに至る過程が頭をよぎっていったからだ。

「どうするもなにも……ない」

「あとはエルーザが帰ってきてから相談してみるしかないな。僕は一度戻るよ。ほら、中から閂をかけておきなさい」

「あーもう!おばさん、いつ帰ってくるの!」

 むずかる姪っ子を置いて支配人が出て行くと、Lは芝刈り車のシートに座り込んでふてくされていたが、ふと我に返って呟いた。

「でもやっぱり……とっても綺麗よね、彼……」そしてため息をついた。「せめてもう一目だけ……」



### 5.



 支配人とLがそんなやりとりをしていた時、青年も自分を取り戻していた。

 ソファに寝そべってマッサージをうけていた青年は、急に「そうだ」と言って立ち上がると出口を探して歩き出した。驚く世話人たちが「お待ちあれ」とすがっても、その声は意識の表層まで辿りつかないのか、青年はまるで意に介さなかった。

 玄関までたどり着いたところで、青年は支配人と鉢合わせした。

「どちらへ」

「妻を探している」

 面と向かって訊ねた支配人に、青年は淡々と答えた。

「外は危険です。あなた様のような夏精を探して、もう狩人が森をうろついております」

 支配人は声に力を込め、真剣な表情で言ったが、青年の方はまるでお構いなしといった顔で支配人の脇をすりぬけた。

 あわてた支配人が前にまわり、世話人が後ろから抱きつくと、青年は顔を真っ赤にして尚も前進をこころみた。

「行く…!」

「どうか落ち着いて」

「放して……!」

「これは私たちの務めでございますから。どうかこの館で〈つま〉となる方をお待ちください」

「その人はどこに?」

「お待ちください。待てば必ず現れます……あと三日……夏至を過ぎればきっと必ず」

「三日……!待てない……!」

 青年が叫び、世話人の女がきゃっと悲鳴を上げてしりもちをついた。青年の背中の、透き通った四枚の羽が大きく開かれていた。支配人は思わず青年から離れると、その見事さに目を瞠った。

 羽はゆっくりとはばたきはじめると、すぐに人の目に見えなくなった。低く唸る音に連れられて風が巻き起こり、青年は糸で吊り上げられるように空に舞い上がった。



### 6.



 青年は上空高く舞い上がって、世界をはじめて自分の目で見た。足下に白い〈夏の家〉の屋根があり、玄関から人がわらわらと出てきては上空を見上げていた。〈夏の家〉の門から、舗装されていない道が森を縫うようにして山を下っていく。麓には曲がりくねった川が流れ、橋を自動車が渡っていた。どこまでも続く緑の田園のその向こうに人の住む街並みが小さくぼんやりと光って見えた。街に向かう軌道上を米粒ほどの大きさの電車が走っていく。

 そして青年はふと、納屋の扉から顔だけ出して外をうかがっている少女に気づいた。その姿はハルニレの森で刻み込まれた〈つま〉の記憶にぴったりと重なった。



 Lがそっと納屋を抜け出すと、空から吹き下ろす風といっしょに青年が下りてきた。

 きらきらと羽を光らせながら地に降り立った青年はやはり例えようもないくらいに美しく、この上なくやさしいまなざしでLを見つめた。薄桃色の唇がほほえむ様はありえないほど煽情的で、Lは体の奥が熱くなって、自分でも気づかないうちにため息を漏らしていた。

 〈夏の家〉の玄関前で世話人たちが騒いでいるのが見えた。Lたちを指さして何やら大きな声を上げているのは支配人だ。一人だけ仮面をつけていないからすぐにわかる。

「僕のかわいい妻よ。さあ契ろう」

 青年がLに手を差し伸べて言った時、肩越しに支配人たちが走り出すのが見えた。

 自分を助けようとしているのはわかっていたけれど、Lはすでに自分だけのために用意されたこの甘すぎるほど甘い運命に身を委ねようと心を決めていた。

 Lがちいさく頷きながら青年の手を取ると、二人は互いに身を寄せ合って、納屋に入っていった。

 中から閂をかけると、ふたりは納屋の奥に積まれた藁の山に、抱き合ったまま倒れ込んだ。



### 7.



「あの……なまえ……なまえを教えて」

 唇が離れて、自由に話せるようになるとLが訊いた。青年が足を自分の足の間に差し入れてくるので、Lはめまいがして、ほとんど気を失いそうだった。

 納屋の戸を叩くどんどんという音が、なんとかLに正気を保たせていた。

「僕は……シケイダ」

 青年はLのひかえめな胸の膨らみに左手を軽くのせて答えた。

「それはあなたたちの名前……私が知りたいのはあなたの名前……」

 Lは息をするのも精一杯だった。青年の呼吸を頬で感じるたびに、ここまで来てしまったという後悔と、この先を知りたいという好奇心がせめぎあった。

「なにを知りたい?……僕はシケイダ……君もシケイダ……みんなそう……」

 青年の指が胸のボタンにかかると、Lは息を飲み、なにも考えないうちに身をよじって青年の体の下から抜け出した。

「なぜ」

「だって……やっぱり……」

 Lが戸を見やると、青年はわかったというように頷き、戸口まで歩いていって閂をはずした。

 開いた戸の向こうには、支配人を先頭にして同じような仮面の顔が押し寄せんばかりに並んでいた。

 支配人が胸の前で手を組んで言った。

「夏精様、Lを私たちにお返しください。あの子はまだ、たった15でございます……」

 そこまで言いかけて、支配人の表情がこわばった。そしてフラップ式の行き先表示板みたいにさまざまな感情が次々に現れた。驚き→感嘆→困惑……最後は恐怖だった。

 仮面の人々が悲鳴をあげた。どこを見ているのかもわからない仮面のまま彼らはおびえて震えていた。

「お待ちください……どうかお鎮まりを……」

 押しとどめるように両手を開いて支配人が喋っている合間に、じりじりと後ずさりをはじめていた世話人たちは、誰かひとりが走りだしたのをきっかけにして、全員が〈夏の家〉に向かって逃げ帰った。

 Lには何が起こっているのかわからなかったが、逆光の中の青年の影はとても神々しく、恐ろしいほど力強く見えた。ただ、支配人たちの反応をみれば、青年がただものではない「何か」であることはわかった。

 ひとり残された支配人が力尽きたようにその場でひざまずくと、青年は戸を閉めLを振り返った。外からの光がだんだん糸のように細くなっていって最後には途絶えてしまうのを、ここにきてLは自分の運命と重ね合わせて見ていた。

「さあ、〈つま〉よ」

 青年が微笑みを浮かべながら近づいてくる。Lは藁の山を後ろむきに登って行った。

「どうして、逃げる」

「だって……」

「君は僕の〈つま〉だよ」

 青年は眉ひとつ動かさずに言うとガウンを脱いで、わらしべの散らかる足下に落とした。

 Lは口を開いたっきり悲鳴をあげるのも忘れて全裸の青年をしばらく凝視していたが、そのまま石になったみたいに気を失ってしまった。

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