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出来事に晒されて

作者: 無川 凡二

 今思えば小さな頃は、驚くほどに敏感だった。

 日常のありとあらゆるものが鮮やかに激しく脈動しており、それに触れるたびに大きな衝撃を受けていた事を覚えている。

 年に一度会うだけの親戚との一時的な別れでギャンギャンと泣き喚き、人が殺した羽虫すらもとても可哀想に思えて泣く事を抑えられなかった。


 しかし、繰り返し傷を受けていたところが感覚の鈍いたこになるように、出来事に晒され続けた私たちは随分と鈍感になってしまった。

 新鮮な世界は当たり前で印象にも残らない空間に変わり、体感時間が随分と短くなってしまった。



 体感時間とは思い返したときの出来事の多さに直結するのではないか?

 幼少の頃は全てが新しい出来事として記憶され、歳を重ねるにつれて出来事をルーチン的、テンプレートで処理する為に思い返せる印象に残ったイベントが少なくなってゆく。

 全く同じ出来事に出くわしたと仮定しても、思い出せる「きょうのできごと」は幼少:年配=10:3程にまでなっているだろう。

 これが体感時間差を生み出している要因ではないだろうか。


 閑話休題、本当に蛇足なのだが書かずにいられなかった。



 強さとは鈍感さ、大人になるとはそういった事なのか。

 敏感過ぎてすぐ近くのもので頭がいっぱいになってその先を見れなかった子供の頃に比べれば、余計な情報に囚われずに広い範囲を見渡せるようになったのかもしれない。

 幼少の頃に恐ろしかったものも、気が付いたら些細な事に変わってしまうのかもしれない。



 先日ある出来事に立ち会った。

 その出来事自体は3度目で、過去の2回は酷く私のトラウマになっていた為私は心していた。




 しかし、感想はとても簡素で乾燥しきっていた。感情のようなものはあまり含まれていなかった。


 滅多に会わなくなって10年ほど、既に過去の人になっていたのか。

 過去2回は直面した訳ではなかった為、現実に拍子抜けをしていたのか。

 忙しさに心まで翻弄されしっかりと心まで認識できていないのか。

 それともそれに対する恐怖を既に克服出来ていたのか。


 最後は違うだろうが、私のそれに対する印象が少し変わっていたのは確かだった。


 今だにそれについての机上の空論をしているときはとても苦しく悲しいもので、夢に出たときは涙が出るほどだったのに、現実でのそれはあまりにも無味乾燥としていた。

 この温度差が理解出来ない。


 今後身近な人にそれが起きるときにそれが明らかになるだろう。

 願わくばもう少し私が大人(鈍感)になっていますように。

今だに想像と現実にギャップがないものと言えば注射と採血ですね…。

何度刺されても私の神経は鈍感になってくれない。痛点に的確に刺す医者も流石です…。


御読了有難う御座います。何か原因の思い当たりがあれば教えて頂けますと幸いです。

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