89話目 修学旅行三日目 梓と弓 前編
普段の尺では入りきりませんでした。
「……特別じゃない、かぁ……解ってたつもりだったけど、剣くんの口から言われると……改めて……凹んじゃうなぁ」
勇気を振り絞った告白。その結果がどうなるか覚悟していながらも、それでも少しはと……奇跡的な可能性に、僅かに抱いていた期待は、バッサリと断ち切られる結果に終わった。
それは、本当に仕方のない結果だったと……弓は納得していた。
既に、想い人には長年連れ添い、心から信頼を寄せ、愛しあっている女性がいて……自分がその女性に遠く及ばないと、その女性から思い知らされたばかりだったのだから。
「や……ヤベーよ!剣が倒れてた!」
中々戻らない剣の様子を伺いにトイレを見に行った一朗が、青冷めた表情で慌てて戻ってきて発した言葉に、弓は頭が真っ白に成る程驚き、何も考えられず硬直した。
皆が動揺し、思考が覚束ない中、いち早く行動を起こしたのは雀だった。
「私、アズちゃんに伝えてくる!男子は剣くんをお願い!」
一目散に女子トイレに駆けて行く雀。男子達と椿は混乱覚めやらぬまま、その背を追ってゆく。
仲間達が行動に移る中、弓は……突然のトラブルに際し、動き出せずにいた。
「ゆ……弓、ど、どうしよう……」
安芽もまた動揺を隠せない様子で、声を震わせていた。親友から声を掛けられた事で、弓は僅かに心を落ち着け……
「と……兎に角、私たちも行かないと……」
「そ、そだね……」
二人は雀から遅れる事二、三分。男子トイレのドアは開け放たれ、剣が洗面台の前に仰向けで寝かされていた。そして、皆が取り囲んで見守る中、梓は取り乱した様子もなく、冷静に剣の状態を調べていた。
「少し熱があるっぽいけど、呼吸と脈拍は荒くないね。頭を打ってはいないみたいだけど……イッちゃん!店員さんに事情を説明して……多分、救護スタッフとか呼んでくれるから!タッキー!ゆかりんに連絡して!」
「わ、解った!」
「タッキー言うな……仕方ねーし、りょーかい」
「二人ともアリガト!コーちゃんとバキ子はここで待機!人手が必要になったら頼らせて貰うよ、力持ちさん達!」
「お……おう!任せろ!」
「ああ!上様の身は私が守る!」
「んしょっ……と、アズちゃん、コレ、剣くんに」
雀はハンカチを水で絞り、梓に渡した。梓はその濡れハンカチを剣の額にあてがうのだった。
「……え?どう、なってるの……?」
目にした光景に、安芽は思わず驚きの声を漏らした。とても信じられなかったのである。剣が倒れたのに、梓が誰よりも冷静であるが上に、仲間にテキパキと指示を与えていたからだ。
それは本来、クラス委員長である弓がするべき、しなければならない役割だった。だが、実際には突発的なトラブルに我を失い、何も行動するに至らなかったのである。
それなのに、剣が倒れた事に最も動揺するだろうと思っていた梓が、実際にはその逆。普段の剣にベタベタ甘える姿は何処へ行ったのか、この場で誰よりも頼れる存在となっていたのである。
「あ……ゴメンね、いいんちょ、安芽ちゃん。相当疲れてるみたいだったから、休ませないとって思ってたんだけど……ちょっち遅かったみたい。全く……何処で何を頑張ってたんだか……」
梓の言葉に、弓は更に追い討ちされた気分に追い込まれた。剣が疲れていた事に気付いていなかった自分と、気付いていた梓との間に、剣に対する気持ちに大きな差がある事を実感してしまったのだ。
親友の沈んだ表情を見て、その気持ちを慮ったのか、安芽が少しおどけた調子で梓に話し掛けた。
「いやぁ……なんかアズっちが出来る女になってて面喰らったわ~……つかね、惚れてる男が倒れたってのに、よく冷静でいられんな~……とか思っちゃったり?なんかさ、こういうときバタバタ慌てるキャラだと思ってたからさ~」
「……まあ、普段が冷静沈着キャラでないのは認めざるを得ないとこだね。まあ、ほんのついさっきなんだけどね、けんちゃんを無理矢理にでも休ませよう!って決意したばかりだったんだよ。だから、こうなる可能性も少しは想定の範囲内だった訳でありまして……」
「いや、考えすぎ……とは言えなくなっちゃってるか。いやはや……大した覚悟しちゃってるわ~……ねぇ?」
さりげなく、安芽は弓に同意を求めた。
「え?……えぇ、そう、ね……私なんて、普段は偉そうに文句言ってる癖に、何も……」
不味い。背中を押すつもりだったのに、逆効果になっている……と、安芽は焦った。こんな、そうそう有り得ない事態……切っ掛けがあって覚悟が出来ないなら、もう一歩も進めないぞとゆうつもりだったのである。こちらは想定外に、弓が弱気になってしまっていたのであった。
心の中で涙を流して弓に謝る安芽。取り返しのつかない事をしてしまったと後悔で胸を痛めていた……が。次の瞬間、それが吹き飛んだ。
「ま、そうそうトラブル慣れしてなきゃしゃあないって!好きな人が倒れたりなんて、そっちの方が普通の反応だよ、いいんちょ」
ピシリ……と、まるで空間に亀裂が入ったような音を、この場にいる梓と気絶している剣以外が、幻聴した。
「な……何を……言っているの……かしら?」
恐る恐る口を開いた弓に、梓がキョトンとした顔で答えた。
「おや?けんちゃん以外、皆気付いてたよね?」
弓にとっては、とんでもない爆弾発言であり、安芽にとっては「空気読んでよアズっち~!」と叫びたくなるダイナマイト級のぶっちゃけだった。目を大きく見開き赤面でキョドりながら安芽に助けを求めて何かを言いたそうにする弓に、安芽もまた掛ける言葉が見付からず、黄昏た顔で脱力し、壁にもたれ掛かって憂えるのみであった。
「あ、アズちゃん……剣くんがこんな時に……言うべきだったのかなぁ……とか、思うんだけど……?」
学年二大美少女が共に精神的に撃沈されてる惨状に、どこかのお薬よりも優しさ成分が多く含まれている雀ちゃんは、居たたまれなくなり、梓を諭そうとしたのだが……
「う~ん……こんなとき、だからだよ。取り敢えず、私達が今けんちゃんにしてあげられる事は終わってるしね。後は待つだけだから、緊張感を解した方が有意義かな……と。それと、ね」
梓が視線を弓に合わせた。そこには、横恋慕を咎めるような非難も、剣の特別である自信からの優越感による蔑み等は一切無く……静かな微笑みがあった。弓は、それがまるで包み込むような慈愛に感じられた。
「いいんちょ、私はね、好きな人に「好き」って伝える事、凄く素敵な事だと思ってるんだ。だからね……人の気持ちは尊重するべきだとは思うんだけど……いいんちょ見てると……凄く勿体無い事してるって感じちゃうんだ」
「勿体無い……?」
「だって、何も伝えないんだもの。けんちゃんの事を意識したの高校入学した頃からでしょ?そこから……登校日の合計だけでも四百日はあったのに……それだけのチャンスを無為にしてたんだよ?どう、勿体無いでしょ?」
「え……?そうなの……いや!彼女のいる人に告白とか……倫理的とか道徳的に無いから!勿体無いとかの次元じゃ無いでしょ!?その価値観はどうなの……」
「……でも、好きなんでしょ?諦められなかったんでしょ?」
ズバリ、核心を突いてくる梓に、弓は悔しそうに、黙って頷くしかなかった。
「……それじゃ、伝えられないままに終わったら……けんちゃんが突然死んじゃったりしたらって、考えた事って、ある?そうなった時、きっと後悔すると思うよ」
「そ、そんなの想定するなんて……突飛過ぎ……!」
弓は突然、自ら手で口を塞いで言葉を止めた。梓が僅かに悲しそうな瞳を見せた瞬間、梓の想定が、現実離れしている話ではなかったと思い出したから。もし、他の誰かが〝死〟とゆう単語を口にしても冗談やスラング程度にしか感じなかったかもしれない。だが、それを口にしたのが梓である場合、完全に意味が違っている。
梓は実の父親を知らず、実の母親と死別している。
この旅行に来るまで、弓は梓の事を環境に恵まれ、類い希なる幸運だけで剣に最も近しい立場を手に入れたのだと思っていた。そう思ってしまう程、梓は幸せそうで、多くの女子から煙たがられながらも、図太いとも言える天真爛漫な性格で何もかもを笑い飛ばしていて……剣に依存しているが故だと思っていたそれが、実際には違っていた。
親の連れ子同士とゆう好運は確かにあった。だが、梓は彼女自身の言葉通り、そのチャンスを逃さず掴み取るべく行動していたのだ。
「いいんちょ、私もね、ママが死んじゃう前は大切な人が……死んだり、いなくなっちゃうなんて、どこか他人事だったよ。でもね、当たり前だと、それが普通だと思っていた事は、突然無くしちゃったりする……奇跡的な事だとも思うようになったんだ。私はママと仲良しだったし、沢山大好きだって伝えていたけど、それでも……足りなかったかもって……あはは、欲張りだな私は」
「聖さん……」
気恥ずかしくなったのか、苦笑いを浮かべる梓に、弓は返せる言葉が見付からなかった。梓の言っている事は理解出来る。でも……恋敵と呼ぶには不足しているかもしれないが、どうして、自分の恋人に思いを寄せる相手に優しく言葉を掛けられるのか……梓の価値観が解らなかった。
「流石は梓、良いことを言うな!私はそんな梓の事がー!」
「バキ子、ありがた迷惑って知ってる?」
辛辣な言葉のカウンターが一閃。椿は胸を抉られた!
「うわ、えげつね……」
「良い話が台無しだよアズちゃん……」
静かに見守っていた耕平が戦慄の表情を浮かべ、雀は「でも、これがアズちゃんらしさなんだよね……」と、残念感と安心感をない交ぜにした神妙なひきつり笑顔なジト目で梓を見つめた。
「いくら好きでも、迷惑がられたら引くのがマナーだと思うのです。独りよがりの愛は恋愛じゃなくて偏愛なので、ストーカーなので」
この上無く、模範的返答をした梓。それと同時に、救護スタッフを案内して一朗が戻ってきた。
「お待たせ!……アレ?何この妙な空気……何で、嫁さん以外げんなりしてんの?と、取り敢えず救護室まで運ぶ為に、担架を借りて来たんけど……」
たまたま目が会った安芽が、困った顔で一朗の疑問に答えた。
「うんと……アズっちが、あまりにも……常識人な概念を持っていたことが判明して……アンタがそれ言う?……みたいな」
「……あ~、普段がアレだからなぁ。でもまぁ、アレでも七人妹がいる姉ちゃんだから一応心の奥底で常識を弁えてるってことだろ、アレだけど」
「イッちゃんアレ言い過ぎ!確かに我ながらアレですけど!」
アレ=変人な自覚はある梓であるが、面と向かって友人から言われると、少しは気分を害するようである。
救護スタッフ達が〝アレって何だろう?〟と凄く気にしつつも、お客様に失礼かもしれない質問をする訳にもゆかず、後ろ髪を引かれる思いで剣を担架に載せ、救護室へと運んで行くのであった。
その後、救護室で合流したゆかり先生の判断で病院へ搬送される事になった剣に、責任者としてゆかりと、当然ながら梓が同行する事となり……
「ここで背中を押しとかないと、絶対後悔しちゃいそうだからね。ちゃんとぶつかってみな。剣んと、アズっちにも」
「安芽……ありがとう、行ってくる!」
委員長だからという建前で、弓も同行する意を示したのであった。
次回は後編です。これで修学旅行三日目が終了する……筈。
最終日はサラッと短めにする予定。