本、読みました
顔の周りをふわふわ漂ってた髪を頭のてっぺん近くでくくる。首回りがすっきりして、暑さが少しは和らいだ気がした。
相変わらずアスファルトは焼けてぼんやり揺らいで見えるし、身体にまとわりつくような熱が周囲に立ちこめている。
寒いのも嫌だけど、暑いのも嫌。早く秋になったらいいのになあ。
わたしのバイトしている古書店は、午前十時開店の午後五時閉店。開くのが遅くて閉まるのが早い。
だから、わたしはじりじり照りつける太陽の中、人通りの少ない道を自転車をこいでのんびり進む。
十分くらい走ったら古書店に辿り着くから、邪魔にならないところに自転車を止めて、裏口から入ってく。所狭しと並べられた本の山を崩さないように慎重に進んで、店主さんに「おじさん、おはよう!」って声をかけるんだ。
店主さんはカウンターにいたり、二階に行ってたり、その時々で違うけど「おはよう、すずちゃん」って答えてくれる。
そうして、バッグの中から取りだしたエプロンを引っかけて、わたしは本日のアルバイトをスタートさせる。
安里さんの本を店主さんに借りてから一週間。今日、わたしは本を返すことにした。
とても名残惜しいけど、これは店主さんのもの。安里さんが店主さんにあげた特別な本だから、わたしの手元には残らない。
一度胸にぎゅうっと抱いてから、わたしは店主さんに本を差し出した。
「おじさん、これ、ありがとう」
ぱらぱらと帳面をめくってた店主さんは、わたしの方を見て不思議そうな顔をしていたけれど、手の中の本に気づいて軽く頷いた。
「ああ、安里君の……。もういいのかい?」
「うん。貸してくれてありがとう」
店主さんは本を受け取って帳面の横にぽんと置く。感想を聞かれるかなと思ったけど、店主さんは帳面の方が気になるようだった。
わたしはいつも通りにはたきを手にとって、ぽんぽんと本の表を撫でていく。
あれはきっと家族の話だ。
ふたりが同時に登場することは一度もなかったけど、主人公の男の子の後ろにはいつも父親が見えるような気がした。ふとした行動だとか言葉の端々とか、そういう部分に、そこにはいないはずの父親を感じる。
だから、きっと家族の話。父親と息子の話なんじゃないかな。
何度も何度も読み返したおかげで、安里さんの本についてわたしなりの感想を持つことができたから、わたしは本を返そうって決めた。
これで、わたしは安里さんに胸をはって言えるんだ。「あなたの本を読みました」って。
そうして、その機会は存外早く訪れた。
からころと下駄の音がする。
はっとして入り口に顔を向ければ、揺らめく青が目に入った。深い深い青を纏った男のひとが店内に入ってくる。
安里さんだ。
はたきをぎゅっと胸の前で握って、わたしは棚の奥からそちらへ向かってふらふら歩み寄っていく。
「こんにちは、涼花さん」
いつもどおりに穏やかに微笑んで、安里さんがわたしに声をかけてくれる。
ふわあっと胸の奥が熱くなってきて、わたしはどうしたらいいかわからなくなった。
言いたいことがたくさんあった。
本を読んだことも言いたいし、その感想だって言いたい。もっとたくさん読んでみたいって言いたいし、だけどどこに行っても売ってなかったって言いたい。それから、それから、わたしも安里さんのサインが欲しいですって言うの。
それなのに、わたしの口から出てきた言葉はひとつだけ。
「こ、こんにちは」
少しだけ身を屈めるようにして、安里さんはわたしとしっかり目を合わせてくれる。
「精が出ますね」
そう言われて、わたしはことりと首を傾げる。
「いつもお掃除を頑張っていらっしゃって、偉いなあと感心しています」
誉められた。
嬉しくてたまらなくなって、でも、調子に乗ってしまわないように、わたしはぶんぶん首を横に振った。
「お仕事ですから」
「そうですね。でも、一生懸命に取り組む涼花さんは偉いと、僕は思います」
かあっと顔が赤くなっていくのが自分でもわかる。
そっと窺う安里さんの顔はとても穏やかで、本気で誉めていてくれるのが伝わってくる。にこにこしているその顔は孫の初バイトを見守るおじいちゃんみたい。
なんだか子ども扱いされているみたいで、ちょっとだけ不満。いまにもわたしの頭を撫でながら「いい子ですね」なんて言い出して手のひらに飴を握らされそうだ。
「あの」
すうっと息を吸い込んで、わたしは思い切って安里さんに声をかけた。
安里さんはにこにこしたまま、わたしの次の言葉を待ってくれている。だから、わたしはまとまらない頭を必死になって整理して、なんとか言葉をひねり出す。
「本、読んだんです」
伝わらなかったみたいで、安里さんがことりと首を傾けた。
わたしはちょっとだけ眉を下げて、はたきをまたぎゅうっと握る。
「えっと、安里さんの本、わたし、読みました」
ついつい俯いてしまって、安里さんの深緑色の帯に視線が向く。
そして、俯いていることに気づいて顔を上げて、すぐにまた俯いて。そんなことをごく短い時間に何度も繰り返す。
「読んでくださったんですか?」
こくんと頷く。
「それは……、ありがとうございます」
一瞬間を置いて、安里さんが嬉しそうに笑ってくれた。
いつもの穏やかな微笑みとは少し違う。嬉しさの中に、ほんの少し照れの混ざった、柔らかい笑顔だ。
喜んでくれた。安里さんが、嬉しそうにしてくれた。
なぜかわたしの心がふわふわと軽くなっていく。
「読んでくださるなんて、思いもしませんでした」
「でも、お見かけしたら手にとってくださいって言いました。だから、わたし、探したんです」
じーっと安里さんのことを見上げながら喋る。
「いろんな本屋さんに行って、ネットも見ました。いっぱい探して、でも、見つからなくて」
一度話し始めたら、言葉は次から次にわたしに口からこぼれ落ちていって止まらない。
「おじさんに言ってみたら、貸してくれたんです。それを読みました」
借りた本のタイトルを口にしたら、安里さんの笑顔に照れが増えたような気がした。
指で頬を掻くようにして、いつもよりほんの少し歯切れ悪く安里さんが言葉を落とす。
「また、ずいぶんと古い話を読んだんですね」
はにかむようにふっと息を漏らして、安里さんはぐしゃぐしゃ頭をかいた。
「あれは、賞をいただいて初めて本にしていただいたお話なので、思い入れは多分にあるんですが、初期の作品なので拙い部分が多いと言いますか」
「面白かったです!」
「え?」
「すごく、綺麗なお話だなって思いました」
「そ、そうですか?」
身を乗り出すみたいにして安里さんに詰め寄って、わたしは言った。
「わたし、子ども向けのお話ばかり読んでるから、ああいうの慣れてなくて、だから、最初は、よくわかんないって思いました。でも、綺麗だなって思ったんです」
はたり、と安里さんが瞬きを落とすのを見て、わたしは自分でもよくわからない気持ちに急かされて、つらつらとまとまりのない言葉を音にし続けた。
「安里さんのお話は、難しい言葉なんてひとつも使ってないのに、それなのに、なんだかとっても綺麗だなって。言葉の選び方が上手なんだなって思ったんです」
驚いたような顔をしてた安里さんの表情は、わたしが言葉を重ねれば重ねるほど、だんだん穏やかなものに変わっていく。
「何回も、読み直して、わたし、このお話好きだなって思いました。淡々としてるけど、ほんとは優しいお話なんじゃないかなって思って」
わたしを見下ろしながら菩薩のような顔をしてる安里さんを見て、急に恥ずかしくなってきた。
もしかして、わたしはいまものすごく恥ずかしいことをしてるんじゃないかって気になってきて、語尾がどんどん小さくなっていく。
そして、ついに黙り込んでしまって、わたしは安里さんを見ていられなくなって俯いた。
「涼花さん」
安里さんの柔らかな声がわたしの名前を呼ぶ。
それに誘われるように、わたしは俯いていた顔を上げた。
「ありがとうございます。とても、嬉しいです」
安里さんの真っ黒な瞳がわたしを見つめてくれる。
「涼花さんは、何事にも一生懸命ですね。僕の本にも真剣に向き合ってくださって、とても嬉しいです。ありがとうございます」
「わ、わたしは、ただ、読みたいなって思ったから」
「そう思っていただけただけで、僕はとても嬉しいんですよ」
にこにこしてる安里さんと真っ赤になってるわたし。
お店の通路の真ん中で、いったい何をしてるんだろう。
だけど、店主さんはまた二階に行ったきり下りてこないし、安里さんの他にお客さんはいない。
「涼花さん」
「はい」
「よろしければ、差し上げましょうか」
きょとんとした顔のわたしに、安里さんが少し照れたように言う。
「僕の本、です」
「安里さんの本?」
「ええ。家にいくつか残っていますから、差し上げますよ」
嬉しい。嬉しい。嬉しい。
頭の中がその三文字で埋め尽くされていく。
まるで花が咲き乱れるみたいに、わたしの心は幸福感で満たされる。
「涼花さんが欲し」
「欲しいです!」
わたしの勢いに負けたみたいに、安里さんが一瞬黙り込んで、わたしのことをまじまじと見つめる。
そして、ははっと声を出して笑った。
「いいんですか? 涼花さんが思うほど、僕はすごい作家ではありませんよ」
「知ってます」
「知ってるんですか?」
「だって、本、見つからなかったです」
安里さんの笑顔が苦笑いに変わる。
「とっても素敵なお話なのに、みんなが読めないのはもったいないです」
また、安里さんが黙り込む。
「おじさんに言ったんです。この本を誰かが売りに来たらわたしが買うねって。だから、安里さんがあの本をくださるなら、わたし、絶対欲しいです」
うん、と言うように安里さんが頷いてくれる。
「では、今度こちらにお邪魔するときにお持ちします」
「はい! 楽しみにしてます」
とんとんと音がして、店主さんが階段を下り始めたことに気づく。
安里さんも気がついたみたいで、カウンターの方をちらりと見やった。
「ありがとうございます」
わたしが深々と頭を下げれば、安里さんも同じように頭を下げてくれる。「僕の方こそ、何度お礼を言っても足りないくらいです」なんて言いながら。
店主さんが「ああ、安里君。来てたのか」と声をかけてくるから、安里さんは一度頭を下げてわたしの前からいなくなった。
わたしははたきを抱えたまま、さっきまで手入れしていた書棚の前に戻る。
言った。言ったよ。ちゃんと言えた。
安里さんの照れたような、嬉しそうな顔を思い出して、わたしははたきを握っていない方の手を頬にあてた。
なんだかとっても熱くなっているような気がする。
わたし、緊張しちゃってたんだなあ。
火照った身体をクーラーのきいた店内が、ゆっくり冷やしてくれる。
気を抜くとついついにやけてしまう顔を押さえられないまま、わたしはお掃除を再開させた。