アルバイト始めました
食後のお茶をずずっと飲み干し、ほうとひとつ息を吐く。こういう時のお父さんはとても機嫌が良くて、おねだりをするなら今しかないと十六年の人生を経てわたしは学んでる。
お母さん曰くハンターの眼差しになってるだろうわたしは、素早く箸を置き、居住まいを正して、くるりと周りを見回した。
食卓にはお母さんの作った美味しそうなお夕飯。もうお皿が空っぽになりそうになってるけど、一汁三菜どころか一汁五菜くらいあった。お母さんは料理上手なのだ。
わたしと一緒にテーブルを囲んでいるのはお父さんとお母さん、それから姉のあやちゃん。あやちゃんはきっとわたしの味方をしてくれるはず。
すうと息を吸い込んで、にっこり笑顔を作って、わたしはお父さんに声をかけた。これでもかってくらいにかわいらしい声で。
「どうした?」
お父さんはちょっとだけ嬉しそうにしてわたしを見る。うちのお父さんは我が子にとっても甘い。
そんなお父さんに向かって、わたしはえへへと笑ってみた。
「あのね、お父さん」
「なに?」
「アルバイト」
そこでひとつ言葉を句切って、わたしはお父さんの顔色を窺った。
わたしには姉が三人いる。一番目のお姉ちゃんがいま一緒にご飯を食べてるあやちゃん。二番目と三番目は絶賛ひとり暮らし中だ。
それで、そのお姉ちゃんたちの中で高校在学中にアルバイトしてたのは二番目のりかちゃんだけ。りかちゃんはこうと決めたら譲らないひとだから、お父さんの説得も結構簡単にやってのけたんだってきいてる。
わたしもりかちゃんを見習って頑張らなきゃ。
にこにこしてたお父さんが眉を下げていくのを見て、わたしは改めて決意する。
「えっと、アルバイトしたいなあって思うんだけど」
「どうして? すずが何か必要だと思うならお父さん買ってあげるよ? 何が欲しいんだ。何でも買ってあげるから言ってごらん」
お母さんがすぐさま胡乱な眼差しをお父さんに向ける。
お父さんがべたべた甘やかそうとしてもお母さんがすぐにストップをかけるから、きっとうちの兄弟姉妹はワガママに育たなかったんだろうなあ。
こほんと咳払いして、わたしはもう一度お父さんにおねだりしてみる。
「欲しいものなんてないよ。バイトしたいだけ」
「お小遣い足りない?」
「足りてるよ。バイトしたいの」
お父さんがどんどん眉を下げてく。それを見ながら、今日はだめかもしれないなあなんてわたしは思う。
でも、来る夏休みにはアルバイトを始めたい。自分でお金を稼いで、それで好きな本をたくさん買ったり、ケーキ屋さんで食べたいケーキを全部買って独り占めしたりしたい。
そんな思いを切々とお父さんに語る。
お母さんはにこにこしてて、あやちゃんは苦笑い。ふたりに見守られながら、わたしはお父さんを説得し続ける。
「じゃあ、夏休みはお父さんのところで」
町医者をやってるお父さんはそんなことを言う。
わたしがお父さんの医院で働くなんて、ナースや事務さんたちが困っちゃうに決まってるのに。
「やだ。みんなやりづらいでしょ」
「どうしてもバイトしたいのか?」
「うん。したい」
ずいっと身を乗り出して、わたしはお父さんに顔を近づける。
「ねえ、お父さん。おねがい。わたし、バイトしてみたいの」
末っ子必殺のうるうる攻撃だ。
お父さんがわたしのこれにとっても弱いことをわたしはちゃんと知ってる。
結局、お父さんはものすごく渋ったけど、お母さんの「好きにさせてあげたら?」とあやちゃんの「お父さんが納得できる場所って条件でどうかな」という後押しで、わたしはアルバイトをさせてもらえることになった。
わたしがアルバイトを始めることになったのは、近所の商店街の隅っこにある小さな古書店だった。
店主さんはお父さんの患者さんで、おじいちゃんとおじさんの中間くらいのひと。すごく優しそうなひとだ。
診察の時に、腰が痛いし、肩も上がらない。本の整理が大変だ。誰か手伝いを雇えればいいんだけどってぼやいてたところを、お父さんが「実はうちの娘が――」なんて勝手に話をつけてきた。
本は好きだし、店主さんは優しそうだからいいけど、お父さんは本当に過保護で困っちゃう。
よいしょっと背伸びして、はたきで優しく棚の一番上を撫でる。
埃がぶわっと舞い上がって、これはけっこう大変かもしれないとわたしはマスクで覆われた口をうんっと閉じた。
下の方は綺麗なんだけど、上の方はけっこう埃っぽい。本当に手が上がらなくって大変だったんだなあって店主さんがかわいそうになる。
それに、この本たちもかわいそう。
わたしはいったんはたきを持って裏へ戻り、店主さんにお願いして脚立を持ち出した。
古書店は二階建てになっていて、二階にはお店に出せないような珍しい本や仕入れてきたばかりの手入れ前の本もあるらしいけど、わたしはまだ見せてもらったことがない。
わたしが整理できるのは、この文庫本や四六判の本が並べられた本棚と一冊五十円とかのワゴンの山。
でも、棚から出してきた本には時々何千円って値札がついてて、え? ってびっくりしちゃったりする。
脚立に乗って、一番上の棚から本を引っ張り出して、傷まないようにそっと平台に置く。全部取り出してしまったら濡れた布巾で棚を拭いて、乾いた布巾でもう一度。
そして、取り出した本を一冊一冊柔らかな布で払って埃を落としていく。
わたしが触れる本はそんなに貴重な物ではないらしいけど、誰かが一生懸命書いて、それを手にした誰かが大事に読んだ本だもの。次にこの本を読む誰かのために、なるべく綺麗にしてあげたい。
埃を落としてあげるくらいしかできなくてごめんねと心の中で呟いて、わたしは綺麗にしてあげた本をまた棚に戻していく。
整理の途中でぱらぱらめくった本の裏表紙に、前の持ち主の名前が書いてあったりすることもある。
これって落書きだよねと思うのに、それがワゴンに積まれないってことは古本の価値は状態の良さだけじゃないんだなんて思って感心したりもする。
なかなかに興味深いお仕事だ。
そんなこんなでわたしのバイト生活は意外に楽しく過ぎている。
バイト二日目から始まった棚のお掃除作業は一週間が過ぎても終わらない。丁寧にやり過ぎなのかなあと思うけど、店主さんは何も言わないからこれでいいんだろう。
もしかしたら、お父さんに遠慮してるのかなと思ったりしたけど、だめなことをしたときはちゃんとだめって教えてくれたからそうでもないのかもしれない。
朝の十時と昼の三時には店主さんと一緒に緑茶を飲んで和菓子だったりお煎餅だったりを食べる。
そのときに店主さんの最近生まれたお孫さんのお話をきいたり、ここで扱ってる本の説明をしてもらったり。ものすごくのんびり働かせてもらってる。
お客さんはあんまり来ない。
ふらりと現れるのは店主さんと顔なじみのお客さんばかりで、ご新規さんが本を買いに来ることはほとんどない。買い取ってくださいって本を持ち込んでくることはあるけれど。
買い取りは店主さんにしかできないお仕事だから、わたしはいつもお掃除ばかり。
でも、店先に出してるワゴンの山を通りがかったひとが眺めているととってもどきどきするし、たまにそこから本が売れていくとなんだか嬉しくなる。面白かったって思ってもらえたらいいねって、去り行くお客さんのバッグや手に握られた本に心の中でエールを送る。
それが、楽しい。
ファストフードやスーパーでバイトを始めた友達からきく忙しない感じの働き方じゃないけど、それがわたしには合っているような気がした。
ちょうどバイトを始めて二週間が経とうかという頃、お店の入り口をひょろっとした男の人がくぐりぬけてきた。
小さなお店に所狭しと並んだ本棚。その隙間をすり抜けて、一番奥のカウンターまでからころと下駄の音を響かせてそのひとは歩く。
棚の隙間からそちらを見て、わたしは「わあ……」と小さく声を上げた。
七月も半ば。
外に一歩でも出ればアスファルトの照り返しで焼け焦げになっちゃいそうなのに、そのひとは淡い色をした夏用の着物を少しも乱すことなく、ゆっくりと歩いている。
半袖シャツにジーンズ。その上にエプロンを着て、頭にはほっかむり。そんなお掃除スタイルのわたしとは全然違う。
着物のひとなんて今まで見たことがない。わたしが働き始めてから初めて来るお客さんだった。
「こんにちは」
「あ……」
「お掃除中にすみません。ご主人は二階ですか?」
ひょこんと棚から顔を覗かせたわたしを見て、そのひとは低すぎず高すぎない穏やかな声でそう言った。
わたしは悪戯が見つかった子どもみたいな気持ちになって、どぎまぎしながら彼の前にちゃんと出て行った。別に覗き見したわけじゃないけど、そんな風に思われたかもしれないと思うと恥ずかしかった。
カウンターの奥には誰もいない。
わたしはマスクをぐいっと顎の下に引き下げて、鼻の頭の汗をエプロンのポケットから取り出したハンドタオルで拭ってから、彼に向かって頭を下げた。
「いらっしゃいませっ」
「え? あ、ああ……はい」
お客さんへの大事な一言だ。
彼はなんと答えたものかというように、はいと一言だけ返してくれたけど、ちょっとだけ疑問系になってた。
だから、わたしは慌てて次の言葉を告げる。
お客さんの質問には迅速に返答。わからないことはわからないとはっきり言う。そして、困ったときには店主さんを呼ぶ。
「見当たらないので上だと思いますけど、ちょっと声をかけてきますからお待ちください」
ぺこりと頭を下げて、わたしはカウンターの奥にある二階へ続く階段から上に向かって叫んだ。
「おじさん、お客さんだよー」
奥から野太い声が返ってきたのを確認して、わたしはすぐに彼の元へ戻って、またぺこりと頭を下げる。
「すぐ戻りますから、何か、あの、ご覧になってお待ちください」
お店の中にはそれこそ溢れんばかりに本がある。
このひともここに来るくらいだから本は好きだろうし、古い本というのはぱらぱらめくってみるだけでもとても楽しいのだ。
彼はそれではとばかりに近くの棚をじーっと見つめ、嬉しそうに目を細める。その顔だけで本がとても好きなひとなんだろうと感じられて、わたしはなんだか嬉しくなった。
このひとにもらってもらったら、きっと大事に読んでくれるだろう。もらってもらえたらいいねと彼の見ている棚の本に心の中で呼びかける。
ひょろっとしたやせ形の体型に撫で肩。少し猫背気味だけど、着物がとっても似合ってる。今日はじめて着たわけじゃなくていつも着ているんだろうなという感じ。
お祭りでもなければお正月でもない。ごくごく普通の夏の日に、着流し姿の男性が古書店にいる。
それがわたしに非日常を感じさせて不思議な気持ちになった。
棚のお片付けに戻りつつ、隙間からちらちらお客さんを見る。
せっかく着流しでばっちり決めてるのに、髪は癖っ毛みたいで変な風に跳ねてる。もしかして、無造作ヘアかも? ううん、あれは絶対癖っ毛だ。
色は白いし、腕は細いし、なんだか弱そう。
年はいくつくらいだろう。あやちゃんより上に見えるから、三十代かもしれない。
そんな風に観察している内に、店主さんが現れて、ふたりはカウンターに本を並べて話し込んでる。
店主さんはいい本が手には入るとそれを好みそうな常連さんに連絡してるらしいから、きっとあのひと好みのいい本が手に入ったんだろう。
恋愛小説や推理小説ばかり読んでるわたしにはよくわからない。
わたしの好んで読みそうな本は、その辺の本屋さんに面白そうなのがたくさん積まれてて、刷ったばかりのぴかぴかしたものがいつでも買える。
だけど、あのひとたちはそういう本だけじゃ物足りなくて、大好きな作家さんの初版本だとか絶版になってもう買えない本だとか、そういうものをああやって探し続けてるんだ。
どうしても読みたい本なんてないわたしは、ふたりの会話には到底ついていけない。
ふうとひとつ吐息を漏らして、わたしは本棚の整理に戻った。
「すずちゃん」
着流しのお客さんが来てからどのくらい時間が経っただろう。
店主さんに呼ばれて、わたしは掃除の手を止めてカウンターに駆け寄った。
彼はまだ店主さんの前にいて、手には本の入った紙袋を持ってる。
「紹介するよ。安里君だ」
店主さんはにこにこしながら、着流しのお客さんをわたしに紹介してくれた。
「安里君はね、こう見えて作家先生なんだよ」
「先生なんて呼ばれるほどじゃないです。今にも消えそうなんですから」
苦笑しながら、安里さんは身体ごとわたしを向いてくれる。
「はじめまして。安里です。小説家と言っても名ばかりのようなものでお恥ずかしいのですが、一応物書きをしています」
「あ、は、はい」
「そう緊張なさらずに。僕、怖い顔をしていますか?」
ぶんぶん首を横に振る。
小説家。小説家だ。本物の小説家さんなんて初めて見た。
ふわあと変な興奮が身体の奥から湧いてきて、安里さんに何を言えばいいのかわからなくなる。
「すずちゃん、固まっちゃったな」
「困りましたね。人見知りなんでしょうか」
「いつもはそうでもないんだが」
苦笑する店主さんの顔を見て、わたしははっとする。
自己紹介。わたしもしなきゃ。
「あの、涼花です。涼しい花って書いて涼花。みんなすずちゃんって呼んでくれます」
早口に言うと、安里さんがふっと笑みをこぼした。
「どうぞお見知りおきくださいね、涼花さん」
優しく声をかけられて、「こ、こちらこそ。よろしくお願いします!」なんてしどろもどろに答える。
初めての小説家さんとのご対面に舞い上がっていたわたしは何度も縦に頭を振った。
それが、わたしと安里さんとの出逢いだった。