九月四日
にゃあ。
甘えるような鳴き声とともに、黒猫のクロベエがとことこと歩いて来た。そして、少女の前に仰向けになる。まるで、俺の腹を撫でたいのなら撫でても構わぬぞ、とでも言っているかのような動きだ。
「く……ろ……く……ろ……べ……」
たどたどしい口調で言いながら、少女は笑みを浮かべた。そしてクロベエの腹を撫でる。手の動きはぎこちないが、その表情は優しさに満ちていた。
クロベエは喉をごろごろならしながら、うにゃん、と鳴いた。少女に何かを語りかけているかのように……。
そんな一人と一匹の触れ合いを見ながら、吉良徳郁はため息をついた。一体、何がどうなっているのだろうか……普通、野良猫は会ったばかりの人間にあんなポーズをしたりしない。もっとも、クロベエも昔はどこかの家で飼われていたのかもしれないが。
いや、そんなことはどうでもいい。それ以前の問題として、この少女は何者なのだろう?
昨日、この少女は全裸で河原にたたずんでいた。犬のシロスケは、尻尾を振りながら少女の前に進み出ていく。そして尻を地面に着けた姿勢で、少女の顔を見上げていた。
それに対し、少女は血まみれの顔で微笑みながら手を差し出す。シロスケは、その手をぺろぺろ嘗めていた。
ふと、少女の顔がこちらを向いた。
少女は微笑みながら、こちらに近づいて来る……徳郁は異様なものを感じながらも、その場を離れることが出来なかった。
少女は、徳郁をじっと見つめる。その瞳は、右が赤く左が緑だ。黒髪は短く切り揃えられており、肌は白い。顔立ちは美しいが、どこか人間離れした何かを連想させる。
それと同時に、赤ん坊がそのまま成長したようなあどけなさをも感じさせた。
さらに近づいて来る少女……徳郁はその時になってようやく、相手が裸であることを意識した。
その途端、一気に頬が紅潮する。今の状況のあまりの異様さに、思考能力が低下していたらしい。徳郁は着ていたシャツを脱ぎ、放り投げる。
「早く着ろ。それを着て、さっさと病院に帰れ」
徳郁は下を向き、ぶっきらぼうな口調で言った。少女が何者かは分からない。だが、どう見てもまともな人間とは思えなかった。恐らく、どこかの病院から抜け出して来たのではないだろうか……。
かつて医療少年院にいた徳郁は、心の病にかかってしまった者を数多く見てきた。ここにいる少女も、恐らくはその類いであろう。何かの拍子に、病院から抜け出してしまったのか。
「さっさと病院に帰れ」
徳郁はもう一度、同じセリフを口にした。そして背中を向け、その場から立ち去ろうとする。
だが……わん、という声が聞こえてきた。シロスケの吠える声だ。徳郁が振り返ると、シロスケが前足を小刻みに動かしながら、徳郁をじっと見つめている。まるで、地団駄を踏んでいるようだ。
お前、この娘を置いて行く気なのかよ!? 酷い奴だな!
シロスケに、そう言われているような気がした。
徳郁はため息をつき、少女に視線を移す。少女は、徳郁の渡したシャツを着ていた。そしてニコニコしながら、シロスケの頭を撫でている。
「お前、名前は?」
尋ねる徳郁。もっとも、まともな返答はあまり期待できそうもないが……。
「な……まえ……」
少女は首を傾げる。この答えは、半ば予想していた通りだった……無駄かもしれないと思いつつ、徳郁は質問を続ける。
「ああ、お前の名前だ」
「さ……ん」
「ええ?」
徳郁が聞き返すと、少女は笑みを浮かべた。
「なま……え……さ……ん……な……まえ……さん……」
「え……じゃあ、お前の名前はサンなのか? サンが名前なんだな?」
尋ねる徳郁。すると少女は頷き、真っ直ぐ自分に近づいて来る。
そして、少女は物憂げな表情でじっと徳郁を見つめた……徳郁は鼓動の高鳴りを感じ、意味も無く目を逸らす。その時、奇妙なことに気づいた。
他の人間に対し感じるはずの嫌悪感……それが、今は感じられないのだ。徳郁は他人に近寄られると、それだけで体の奥底から不快な気持ちになるのに。触れられただけで、反射的に突き飛ばしたことも一度や二度ではない。
だが、サンと名乗るこの少女だけは……。
「付いて来い。ウチに泊めてやる」
そして一日たった今でも、サンは徳郁の家にいる。
奇妙なことに、今ではクロベエまでもがサンに懐いてしまっているのだ。クロベエは喉をごろごろ鳴らしながら、サンにまとわりついている。徳郁はクロベエと仲良くなるのに、かなりの時間を費やしたはずなのだが……。
サンは嬉しそうに微笑みながら、クロベエの体を優しく撫でている。徳郁の渡したジャージの上下を着ているが、ブカブカだ。
徳郁はそれを見ながら、どうしたものかと考える。サンという名前からして、日本人ではないのだろう。では、どこの国から来たのだろうか? この辺りで何をしていたのだろうか? 一応、風呂やトイレの使い方は知っているらしい。昨日はシャワーで顔や体に付いていた血を洗い流させ、家にあった食べ物を与えたのだ。サンは貪るように食べ、飲み、すぐに寝てしまったのだが……。
いったい、あの血は何だったんだ?
そもそも、俺はどうすればいいのだろう?
徳郁がそんなことを考えていた時、外から声が聞こえてきた。わん、と鳴く犬の声だ。
徳郁は苦笑し、玄関に行きドアを開ける。すると、外にはシロスケがいた。ちぎれんばかりに尻尾を振っている。
そして次の瞬間、凄まじい勢いで家の中に入り込んで来た……。
「お、おいシロスケ!」
徳郁は慌てて制止しようとする。しかし間に合わなかった。シロスケは家の中に入り込み、尻尾を振りながらサンにじゃれついて行く。
すると、クロベエが素早く起き上がり、背中の毛を逆立てる。そして威嚇するような声を上げた。
だが、サンの手が伸びていく……クロベエの背中を優しく撫でると、一瞬にして大人しくなった。喉をごろごろ鳴らしながら、サンのそばで座り込む。
一方シロスケは、嬉しそうにサンの顔を嘗める。はあはあ言いながら、尻尾をちぎれんばかりに振るわせている。
「お前ら、いったい何なんだよ……」
言いながら、徳郁は頭を抱えた。一昨日までは、単純そのものだった自分の生活。余計なことに頭を悩ませる必要などなかった。
それが今では、一気に複雑なものへと変わってしまった。
自分はこれから、どうしたらいいのだろう……。
・・・
岸田真治の目の前には、奇妙な男がいる。紺色の地味なスーツに身を包み、軽薄そうな表情で笑みを浮かべながらソファーに座っている。中肉中背で髪は短め、年齢は二十代後半から三十代前半か。
真治の隣で椅子に腰かけている立花薫は、かなり不快そうな表情である。この男の笑顔が嫌いなようだ。
「お久しぶりですね岸田さん。お元気そうで何よりです。まあ御父上様とは、年に一度くらいは顔を合わせてますが」
そう言って、住田健児は頭を下げた。その顔には、にやけたような笑みを浮かべている。
真治も、にこやかな表情で頭を下げる。しかし内心では、この男が何をしに来たのか考えていた。住田が何者であるのか、真治はよくは知らないが……確かなことが一つある。軽薄そうに見えるが、実は政府の関係者なのだ。
「実は、今日ここに来たのはですね……この魔歩呂市に潜伏している、ある人を探して欲しいんですよ」
住田の言葉に、真治は首を傾げた。
「ある人、ですか……何者です?」
「この男です」
そう言って、住田は一枚の写真を取り出しテーブルの上に置く。
真治は、その写真をじっくりと眺めた。若い男だ。彫りが深く、端正な顔立ちをしている。だが同時に、その表情からは強烈な目的意思が感じられた。髪は短く刈り込まれており、ピアスの類いは付けていない。
「いったい何者なんです、この男は?」
真治が尋ねると、住田は大げさに顔をしかめて見せた。
「こいつは、村田春樹といいましてね……三日前のことなんですが、旧三日月村を囲む塀に爆弾を仕掛けた疑いがある、らしいんですよ」
「ああ、あの事件の……ひょっとして、テロリストか何かなんですか?」
「いやあ、それがですねえ……ちょいと面倒な男なんですよ」
村田春樹、二十二歳。三日月の出身である。三日月村事件があった当時は十二歳であった。しかし事件の起きた日、村田は下級生の女の子と一緒に村を出て、町を遊び歩いていたのだという。
しかし、村田が町で遊び歩いている間……彼の両親や友人たちは全て、殺人鬼の市松勇次によって皆殺しにされてしまった。
その後、村田は遠くの親戚に引き取られたのだが――
「そっから、村田はイカレちゃったらしいんですよ。あちこちで喧嘩はするは物は盗むは……札付きの不良になっちまいました。そっからヤクザにでもなりゃ良かったんですが、挙げ句の果てには爆弾騒ぎですからね。いったい何を考えているのやら……」
そう言って、住田は首を振って見せる。
真治は改めて、写真の中の村田を見つめた。実にいい面構えをしている。そこいらのチンピラやヤクザとは次元の違う迫力だ。何かの目的のために命を削り、必死で生きているのが伝わってきた。
さらに、その目は……激しい怒りと深い哀しみとを秘めている。こんな目を見るのは久しぶりだ。
なんて、いい目をしているのだろう……。
真治の心が揺れ動いた。久々に胸の高鳴りを感じる……この男を素材にしてみたい。村田の両手両足を切断し、この魅惑的な両目を抉り出してみたい……。
「あの……岸田さん?」
住田の声で、我に返る真治。
「あ、すみません……この村田を探すんですね?」
「いや、この村田はついでですね。正直、放っといてもいいんですよ。実は……本命はこっちです」
そう言って、住田はもう一枚の写真を取り出す。
真治はその写真を手に取り、じっくりと眺めた。何とも異様な写真だ。灰色の壁に覆われた部屋の中、白いワンピースのような服を着た少女が写っている……はずなのだが、この写真ではよく分からない。
そもそも少女の顔すら、よく見えていないのだ。少女はうつむいており、髪は短い。だが、それ以外の特徴がない。
「すみません、これだと顔が分からないですね。他の写真は無いんですか?」
真治の問いに対し、住田は顔をしかめる。
「申し訳ないんですが、写真はそれだけなんですよ……」
「え? しかし、これだと顔の形すら分からないですよ――」
「一つだけ、明らかな特徴があります。この娘は、右目が赤くて左目が緑色なんですよ」
「はい?」
さすがの真治も、思わず聞き返していた。右目が赤で左目が緑……どういう人種なのだろうか。
「いや、私も実物は見てないんですが、そうらしいんですよ……あと、名前はサンだそうです。もし見つけたら、捕まえて連絡してくださると助かります。ただ、気を付けた方がいいですよ。素手で三人の男を殺したらしいですから」
・・・
かつて三日月村のあった場所の南側には、広大な森林が広がっている。地元の人間からは、狼森と呼ばれているが……その狼森のそばの道路脇に、一台の車が停まっていた。
高田浩介は今、その車の運転席で物思いにふけっている。これから先、どこに行くべきなのか……自分が救わなくてはならない人物は、今どこにいるのであろうか。
「ねえ浩ちゃん、どうかしたの?」
不意に、希美が尋ねてきた。浩介が後ろを向くと、希美とまひるが不安そうな面持ちでこちらを見ている……浩介は微笑んだ。心配をかけてはいけない。
「うん……今日は何を食べようかなあ、って考えてたんだよ」
「なにそれ……パパの食いしん坊!」
そう言って、まひるが笑う。希美も、可笑しそうに笑った。
そして浩介は……二人の笑顔を見て、改めて今の自分が幸せであることを確認した。
この二人の笑顔があれば、自分は何も怖くはない。
だが、二人の笑顔が一瞬にして凍りついた。
「気を付けて……また、あいつよ……」
希美の声は震えている……いったい何が起きたのだろうか。
だが、バックミラーに映る人影を見た瞬間、浩介の体は硬直した。
あの男が、こちらに歩いて来る。
おととい出会った、不気味な外国人が……。
男は田舎道を歩き、ゆっくりとこちらに近づいて来る。浩介は動くことが出来なかった。まるで蛇に睨まれた蛙のように……。
男はどんどん近づいて来る。
そして……一昨日と同じように、ドアガラスの前で立ち止まる。
男はこちらを向き、にやりと笑いながら会釈した。
浩介は男の顔を見つめる……彼は目を逸らすことが出来なかった。まるで催眠術でもかけられたかのように、浩介は会釈を返す。
すると男は右手を挙げ、ドアガラスをコンコンと叩く。
その指示に、浩介は逆らうことが出来なかった。自らの意思とは別に、手が勝手に動きドアガラスを開ける。
浩介と男は、じっと見つめ合った。
「やあ、また会いましたね……あなたは、どうしてもこの件に関わるつもりのようですなあ。どうなっても知りませんよ。たった一つの命を捨てる気ですか? まあ、俺は自らの命に無頓着な人は、嫌いじゃないですがね」
そう言って、男は浩介を見つめる。不思議な目だった。瞳の色は黒く、まるで吸い込まれてしまいそうな錯覚に襲われる。だが、浩介は目を逸らすことが出来なかった。
「え? あ、いや……そんなつもりは無いです……」
浩介はしどろもどろになりながら言葉を返す。いったい、この男は何を言っているのだろうか。この件とは、何を指しているのだろう?
だが、もう一つの声が聞こえてきた。
「ペドロさん、こっちはさっさと終わらせたいんだがな……」
その声を聞いた浩介は、ようやくペドロから視線を外した。そして、声の主の方を見る。
浩介は全く気づいていなかったのだが……ペドロと呼ばれた外国人の後ろから、一人の男が付いて来ていた。中肉中背で、これといって特徴のない平凡な顔立ちだ。特におかしな点もない。強いて言うなら、まだ夏の暑さが残っている時期であるにもかかわらず、革のジャンパーを着ていることくらいだ。
「ああ、そうだったね士郎くん。まずは、君の用事の方を優先だ」
ペドロは男の方を向いてそう言った後、浩介の方に向き直る。
「では、失礼しますよ……あなたとは、また会いそうな気がします。ただ出来ることなら、この場から速やかに離れた方がいいと思いますよ……」
そう言うと、ペドロは歩き出した。士郎と呼ばれた男はちらりと車の中を一瞥したが、すぐにペドロの後に続いて行く。二人はどんどん歩き、やがて道路を外れて林の中へと消えて行った。
「あの人、誰かを殺すつもりだわ……」
希美の声を聞き、はっと我に返る浩介。
「どういうことだ?」
「いや、違う……何でもない……」
消え入りそうな声を出す希美。だが、浩介はなおも言葉を続ける。
「あの二人が、何かやらかすんだな!?」
「もうやめて! 浩ちゃんが関わることじゃない!」
突然、声を荒げて怒鳴りつける希美……いきなりの変貌に浩介は怯み、目を逸らした。
しかし、顔を上げる。
「すまない……私は行かなくてはならないんだ。彼らが誰かの命を奪おうとしているのなら、見逃すわけにはいかない」
そう言うと、浩介は車から飛び出す。
そして、二人の後を追った。
・・・
ペドロは落ち着いた様子で、士郎に背中を向けて林道を歩いて行く。
一方、士郎は辺りを見回しながらポケットに手を入れる。背中を向けている今がチャンスだ。この化け物を、自分はあまりにも甘く見ていた。正直、後ろからでなければ殺れる自信はない。士郎は、ポケットの飛び出しナイフを抜き、襲いかかろうとした。
だが、その瞬間――
ペドロは、くるりと振り向いた。まるで、こちらの行動を見抜いていたかのように……。
そして、口を開いた。
「ここでいいかな……ここなら、部外者に話を聞かれる心配はないよ。で、我が息子は何と言っていたんだい?」
いかにも楽しそうな表情のペドロ……士郎は右手をポケットに突っ込んだまま、不敵な表情を浮かべた。
「明はこう言っている……俺はまともな人間として生きる。あんたの顔は見たくない。二度と俺の前に姿を現すな、と」
「ほう、なるほど。予想通りの答えだ。で、君はわざわざそんなことを伝えに来てくれたのかい? 東京から、こんな田舎にまで……ご苦労様な話だ」
「いや、それだけじゃないんだよ。俺の個人的な意見も伝えに来た」
言いながら、士郎はじりじりと間合いを詰めていく……だが、ペドロは平然としている。
「まあ、そうだろうな……で、君の意見とは何だい? 予想はついているが、一応聞かせてくれ」
「あんたは死んだ方が、明のためだ。悪いが死んでもらう」
言うと同時に、士郎は襲いかかった。
士郎は右手を前にして突進し、ナイフで切り付けていく。大振りではなく、しなるように小さな動きだ。手首のスナップを使い、ペドロに切り付ける――
だが次の瞬間、士郎の体はバランスを失った。そのまま宙を舞う。
そして、背中から地面に落ちた。
士郎は一瞬、何が起きたのか分からなかった。しかし、体は自動的に反応する……素早く地面を転がり、間合いを離して立ち上がった。長年の厳しい訓練により、考えるより先に体が動いていたのだ。
「クソ……達人かよ、てめえは……」
ペドロに向かい毒づきながら、半身に構える士郎……ナイフの軌道を見切られ、腕を掴まれて投げられたのだ。合気道や古武術などの演武でしか見たことのない動きを、ペドロは実戦で使えるのだ。
目の前にいる男は、自分のこれまで相手にしてきた連中とは根本的に違う。明から聞いていた話を、遥かに上回る怪物だ。
士郎は久しく忘れていた思いが、凄まじい勢いで体内を駆け巡っていくのを感じていた。
恐怖、そして喜び……士郎の体内には、二つの相反する感情が湧き上がっていたのだ。ペドロの圧倒的な強さに怯えているはずなのに、なぜか笑みが零れる……。
「ほう……さすが明の友だちだけのことはある。日本に置いておくのはもったいないな。君、俺と一緒にメキシコに行かないか? ここでの用事が片付いたら、の話だが」
「ここでの用事? どういう意味だ?」
言いながら、士郎は状況を素早く確認する。ペドロまでの距離は、約三メートル。そして、ナイフはペドロの足元に落ちている。しかし、ペドロにそれを拾うような素振りはない。薄笑いを浮かべ、じっと士郎を見ている。
「君も気づいただろう。この魔歩呂市には何かがある……俺はそれを調べるために、ここまで来た。それが終わったら、俺はメキシコに戻る。君もどうだい?」
「悪いが、そんなものに興味はないな……俺はな、てめえさえ殺せりゃそれでいいんだ」
言うと同時に、士郎は襲いかかった――
士郎の弾くような目突き……左手の指先が、ペドロの眼球めがけて放たれる。
しかし、ペドロは薄ら笑いを浮かべたままだった。そして顎を引き、指先を額で受け止める。
だが、士郎の攻撃は止まらない。次の瞬間、右の掌底が飛んでいく。掌底はペドロの顔面に炸裂――
しかし、ペドロは眉一つ動かさなかった。
直後、士郎は腕を掴まれる――
そして一回転する景色。背中を襲う強烈な痛み……士郎は思わず呻いた。強烈な投げを喰らったのだ。常人ならば、しばらく動けないほどのダメージだ。
だが士郎も、これで動けなくなるような鍛え方はしていない。
彼はすぐさま反撃する。ペドロの右足首を掴み、そのまま両手で関節を極めにいった……変形のアンクルホールドで、右足首の破壊を狙ったのだ。さらに自らの両足を、ペドロの左足へと絡ませていく。
しかし、ペドロは一瞬にして右足を引き抜いた。
同時に左足も外す。さらに右の膝が、鳩尾に落とされる――
士郎は呻いた。あまりにも強烈な一撃……ペドロは薄ら笑いを浮かべ、右手を振り上げる。
だが、ペドロは動きを止めた。
「な、何をやってるんですか! 警察呼びますよ!」
不意に聞こえてきた声……ペドロは苦笑し、士郎の体から離れる。
「士郎くん……さっきも言った通り、俺にはやる事がある。それが終わったら、日本を離れるつもりだ。その後は、日本に来るつもりはない。だから……もし良かったら、俺に協力してくれないか?」
「何だと……」
想定外の言葉に、戸惑う士郎……だが、ペドロはお構い無しだ。
「俺を殺すのは厄介だよ……はっきり言うが、君には難しいね。それよりも、俺に協力した方が手っ取り早いよ。それに、君の求めているものも手に入る。一石二鳥という言葉もあるだろう?」
そう言って、ペドロは笑みを浮かべた……だが、またしても声が響く。
「な、何をやってるんですか! 止めないと警察を呼びますよ!」
士郎は、その声のした方を見た。中年の男がスマホ片手に、こちらに走ってくる。
ペドロは、ちらりとその男を見た。だが、すぐに視線を戻す。
「さて、余計な邪魔が入ったことだし、俺は失礼するよ。士郎くん、俺の提案を考えておいてくれ。ただし、今度また俺を殺しに来たら……その時は容赦しないからね」
「だ、大丈夫ですか?」
言いながら、士郎に駆け寄って来た者……よく見ると、それは先ほどペドロが話していた中年男だった。
士郎は立ち上がり、辺りを見回す。ペドロは既に、林の中に消えてしまった。今さら追っても無駄だろう……それよりも、しなくてはならないことがある。
「いや、大丈夫です。申し訳ないんですが、ちょっと話を聞かせて欲しいんですが……」