九月三日
ひとけの無い森の中、ドスッという音が響き渡る。しかも、一度では終わらない。続けざまに、何度も聞こえてくるのだ。
その音の主は、吉良徳郁であった。自宅の庭に吊るされたサンドバッグめがけ、拳と足による打撃を叩き込んでいるのだ。スピードのあるパンチは、重いサンドバッグに手首までめり込む威力がある。腰の回転を利かせた回し蹴りは、サンドバッグをくの字に曲げるほどだ。
一心不乱にサンドバッグを殴り、蹴りを叩き込む徳郁……だが、後ろからの視線を感じた。その瞬間、パッと振り返る――
そこにいたのは、猫のクロベエだった。ドアの前で仰向けに寝そべり、残された左目でじっと徳郁を見つめている……お前は何をやっているんだ? とでも言いたげな表情だ。
徳郁は微笑み、動きを止めた。体から滴り落ちる汗を拭う。
「なんだクロベエ……腹が減ったのか? ご飯を貰いに来たのか?」
徳郁の言葉に、にゃあと答えるクロベエ。徳郁はトレーニングを切り上げ、家に入って行く。すると、クロベエも後に続いた。
かつて、徳郁は少年院にいた。しかし、そこで多くの人間とトラブルを起こしたのだ……彼は院生だけでなく、職員ともトラブルを起こす筋金入りの問題児だった。
徳郁が唯一、少年院で学んだのは、体を鍛えることだった。悪意に満ちた少年院で自分の身を守るために、徳郁は暇さえあれば、己れの体を鍛え続けていたのだ。
もともと腕力は強く、身体能力に関しても非凡なものを持っていた。効果はたちまち現れ、荒くれ者揃いの少年院でも、徳郁はひときわ恐れられる存在へと変貌する。
やがて、あまりに凶暴かつ反抗的な徳郁は……再度の精神鑑定を行うために医療少年院に送られ、そこで成宮亮と出会う。
徳郁にとって、亮は初めて出来た友人だった。
外から、何やら声が聞こえてくる。
クロベエに缶詰めをあげた後、軽い昼寝をしていた徳郁。だが、その昼寝はシロスケの吠える声により中断された。シロスケにしては珍しく、妙に興奮している様子である。扉の前で、さかんに吠えているのだ。
いったい、何事が起きたのだろうか……徳郁は体を起こした。そして、注意深く外の様子を窺う。
シロスケは扉の前で、忙しなげに歩いていた。ときおり立ち止まり、顔を上げて吠える。徳郁は首を傾げながら、扉を開けて外に出た。
「おいシロスケ、どうしたんだ?」
声をかけると、わん、と鳴く声が返ってくる。
そして、シロスケは歩き出した。とことこと森の中に入って行きかけたが……ぴたっと立ち止まり、何か言いたげな様子でこちらを向く。
「付いて来い、って言ってんのか……」
そう言って、徳郁は外に出ていく。すると、シロスケは尻尾をぴんと立てて歩き出した。
仕方なく、その後に続く徳郁。付近は木が密集して生えており、地面はデコボコで非常に歩きにくい。徳郁はこんな人里離れた場所に住んでいるが、山歩きは得意ではないのだ。
だが徳郁の苦労などお構い無しに、シロスケはどんどん進んで行く。
そして時おり立ち止まっては、徳郁が追い付くのを待っていた。
「おいシロスケ……いったいどうしたんだ? 何があったんだよう?」
徳郁は思わず声を出していた。もっとも、シロスケからは答えなど返ってこないのだが……。
それにしても、実に妙な話だった。シロスケは今まで、つかず離れずの微妙な距離感で徳郁と接していた犬である。普段は森の中の縄張りをうろうろし、腹が空いた時や気が向いた時に徳郁の元を訪れる……そんな犬だ。普段は、ことさら徳郁に媚を売ったりはしない。
むしろ、気まぐれな野良猫であるはずのクロベエの方が、徳郁に懐いているくらいだ。
そんな、いつもは孤高の野良犬であるシロスケが、どこかに自分を導こうとしているのだ。徳郁は戸惑いながらも、後を追って行った。
五分ほど歩いただろうか……不意に拓けた場所に出た。大きな川のほとりだ。
ここには、たまに旅行者たちが訪れることもあるのだ。河原で釣りをしたり、バーベキューをすることもある。そういう時、徳郁はいっさい近づかない。旅行者とトラブルを起こしたくないからだ。
そして今、河原には人の姿が見える。若い女……いや、少女といった方がいいのだろうか。年齢は十代半ばだろうか。ただし、その少女は旅行者には見えなかった。
なぜなら、衣服らしき物を何も着ていなかったからだ。
しかも、全身が血まみれだった。
一糸まとわぬ姿を真っ赤に染めたまま、少女はじっと立っている。
徳郁は困惑し、その場に立ちすくんでいた。だが、シロスケは平然とした様子で近づいて行く。
そして、少女の前で立ち止まる。尻を付き、前足を揃えた姿勢で少女の顔を見上げた。
すると、少女はシロスケに微笑んで見せた……血まみれの顔であるにもかかわらず、その表情はとても優しげだ。
だが次の瞬間、少女は顔を上げた。その目が、徳郁を捉える。
徳郁もまた、少女の目を見る。不思議な瞳をしていた……右目は赤く、左目は緑だ。髪は黒く短めで、肌の色は白い。しかし、その体に付いているのはペンキでもケチャップでもなく、本物の血液だ。血を見慣れている徳郁には一目で分かった。
その奇妙な瞳で徳郁を真っ直ぐ見つめ、少女はゆっくりと近づいて来た。
・・・
見れば見るほど、魅惑的な絵であった。
まず目に飛び込んでくるのは……真っ白い部屋の片隅にしゃがみこんでいる、全裸の少女。
その周りには、犬や鳥の頭を付け、タキシードを着た奇怪な者たちがグラスを片手に談笑している。そんな中……少女は絶望したような目で、じっと天井を見つめていた。
岸田真治は、この絵を見る度に何とも言えない気分になる。体の芯に響く何かを感じるのだ。正直、一千万までなら出してもいい。この絵を自分の部屋に飾りたいものだ。
「岸田さん、最近はどうですか?」
その優しい声に対し、真治はにこやかな表情で口を開く。
「そうですね……今のところ、特に問題ないですよ。仕事も上手くいってますしね」
「そうですか。それは良かった」
そう言って微笑んだのは、白衣を着た初老の女だった。頭は白いものが目立つが、顔つきや物腰には気品が感じられた。机の上に両手を乗せ、暖かい表情で真治を見つめている。
彼女は、心療内科医の大森香苗である。二人のいる部屋は、落ち着いた雰囲気に包まれていた。だが、その壁には二枚の絵が飾られている。一つは綺麗な街の風景を描いた絵、そしてもう一つは、真治のお気に入りの不思議な絵であった。
「前々から思っていたのですが、素敵な絵ですね」
突然の真治の言葉に、大森は複雑な表情になる。
だが、それはほんの一瞬だった。すぐに笑みを浮かべて口を開く。
「そう……ところで、岸田さんはこの二枚のうち、どちらの絵が価値があると思うの?」
「いや、それは比べるまでもないですね。こっちの絵ですよ」
そう言うと、真治はお気に入りの絵を指差した。部屋の隅に裸の少女がしゃがみこんでいる絵だ。
すると、大森の顔に奇妙な表情が浮かぶ。喜びと悲しみとが同居したような複雑な……だが、それは一瞬だった。
「外れよ……こっちの絵の方がずっと価値があるわ。評価も高いし……」
そう言って、女はもう一方の絵を指差す。綺麗な街の一場面を切り取ったかのような絵だ。
真治は思わず苦笑した。どうやら、自分には絵を見る目がないらしい。もっとも、絵の才能が無いことなど、とっくの昔に自覚していたが。
それにしても、こんな鼻持ちならない空気を醸し出す、何の面白みもない絵の方が価値があるとは……世の中は分からないものだ。
「岸田さん、どうしてこちらの方が価値があると思ったの? あなたの考えを聞かせて欲しいわ」
不意に大森が尋ねた。
真治は二枚の絵を見る……そして、街の描かれた絵を指差した。
「まず、この絵ですが……ひどい匂いがしますね」
「匂い?」
「そうです。この絵からは描いた人の自己顕示欲しか感じられません。この人は絵が描きたかったのではなく、自分を称える声や喝采……さらには、それに伴う金銭が目当てです。この画家は有名になれるなら、手段は問わないタイプでしょうね」
真治はそこで言葉を止めた。そして、少女の絵を指差す。
「それに対し、こっちの絵からは……生命が感じられるんですよ。己れの内にあるものを削り取り、そして絵にしているような……そう、命そのものですね。これを描いた画家は、きっと絵でなくてはならなかったんだと思います。自身を表現する手段は、絵だけだと……上手い下手は知りませんが、その魂は本物の画家であったと僕は思います」
「……」
大森は黙ったまま、じっと真治の顔を見つめていた……。
だが、不意にその表情が歪む。
「ありがとう……その絵を描いたのは、うちの息子なの……」
「ええっ!? この絵を描いたのは息子さんなんですか!?」
真治は驚きのあまり、叫びながら椅子から立ち上がっていた。
それに対し、大森は小さく頷く。
「そうよ」
「じゃあ、今でも絵を描かれてるんですか? ぜひ、他の絵も見せてください――」
「それは無理ね……もう、死んでいるから」
「はい?」
「この絵を描き終えた後、首を吊って死んだの……」
そう言って、大森は微笑んだ。
寂しげな笑顔だった。
「差し支えなければ教えていただきたいんですが……息子さんに、何が……あ、言いたくなければ――」
「大丈夫……」
そう言って、大森は笑みを浮かべた。しかし、その目は憂いを帯びている。
真治は黙ったまま、話の続きを待った。どうやら大森は、自分に話を聞いて欲しいようだ。しかも、単なる雑談ではない。あたかも告解の言葉を聞く神父のような役割を、真治は求められているのだ。
ならば、自分は聞かなくてはならない。
「色んな要因が重なったみたいね。この絵が誰からも評価されなくて、ショックを受けてて……おまけに、三日月村にいた恋人が、あの事件に巻き込まれて亡くなったのよ。後を追うように、首を吊って死んだ……馬鹿な子よね。息子に先立たれる親のことも、少しは考えて欲しかったわ」
淡々とした口調で語る大森……真治は何も言えなかった。
ふと、視線を窓に移す。外では学生服を着た少年たちが、馬鹿声を上げながら歩いている。
神という存在は、何と不公平な審判を降すのだ……と真治は思った。
あんな連中なら、何人死のうが構わないのに。
・・・
それは、凄惨な光景だった……。
道路から少し離れた雑木林の中、高田浩介はしゃがみこんで絶句していた。その目の前には、三人の男が倒れている。
三人とも、Tシャツにジーパンというラフな服装である。まるで、気軽にふらっと旅行に来たような雰囲気だ。確認はしていないが、どうやら三人とも死んでいるらしい。
何故なら、全員の首や腕が有り得ない方向にねじ曲げられていたからだ。さらに、首や腕の折れた骨が露出し、そのパックリ開いた傷口からは、おびただしい量の血液が流れ出している……人間離れした腕力を持つ何者かが、まるで玩具の人形のように三人の人間を壊してしまったかのように見えた。
そして三人とも、苦悶の表情を浮かべている。その目には、死んでからも未だ消えぬ恐怖があった……。
そもそもの発端は、浩介が車を走らせていた時……道路に停められている奇妙な車を発見した事だった。
「浩ちゃん……あの車……この辺りで、何かあったみたいよ」
希美の声を聞き、浩介は自身の車を停める。
そして注意しながら、停められている車に近付いてみた。誰も乗っていない。しかも鍵は付けっぱなしなのだ。だが、それより異様なのは……後ろのドアが開けっぱなしになっていることだった。
一体、これはどういう訳なのだろう?
浩介は辺りを見回し、慎重に歩いてみた。妙に静かだ。この車に乗っていた者は、どこに行ってしまったのだろうか。
浩介は慎重に歩いた。そして車から二十メートルほど離れた場所で、目当てのものを発見する。
車の持ち主と思われる、三人の死体を……。
「一体、どういうことなんですかねえ?」
浩介の通報により、その場に現れた警官たち……だが、第一発見者である浩介に対し、露骨に不審そうな目を向けている。
「どういうこと、と言われても……」
浩介は口ごもり、下を向いた。はっきり言って、自分でも分からないのだ。あんな酷い有り様の死体を見たのは初めてだ。
もっとも、死体を見たこと自体は初めてではないのだが……。
「あなたは、ここで何をしていたんですか?」
明らかに不審そうな表情で尋ねる刑事……浩介は答えに窮した。そもそも自分自身ですら、ここに何をしに来たのかがわからないのだから。
「え、ええ……ちょっと旅行に……」
「旅行? こんな所に、ですか?」
刑事の表情が、さらに険しくなる。鋭い目で、じっと浩介を見つめた。浩介は思わず目を逸らして下を向く。こういうやり取りは、以前にも何度か経験しているが……いつになっても、慣れることが出来ない。
「すみませんが、ちょっと署まで来ていただけませんかねえ……」
黙っていたかと思うと、不意にそんな言葉を口にした刑事……浩介の表情がひきつった。
「え、いや……それはちょっと――」
「何故です? 私は話を聞きたいだけですよ。それとも、何かやましい事でもあるのですか? 我々に知られてはまずい事とか……」
そう言って、刑事は口元を歪める。どうやら、浩介に選択肢は無さそうだ。
「わかりました」
数時間後、ようやく浩介は解放された。物腰は柔らかいが、陰険そうな目付きの刑事は……ねちねちとした口調で浩介に様々な質問をし、浩介は何とかやり過ごす。
やがて刑事は、浩介をいくら攻め立てても時間の無駄であることを、やっと理解してくれたらしい。ようやく解放されたが――
「高田さん、今この周辺は少しピリピリしてましてね……気をつけた方がいいですよ。捜査に協力してくれたお礼に一つ忠告しておきますが、この魔歩呂市からは一刻も早く立ち去った方がいいですよ。私にはわかっています……あなたは、ただ旅行に来た訳じゃないですよね。何の用事かは知りませんが、さっさと片付けるんですな」
浩介を取り調べた松戸という名の刑事は、帰り際にそんなことを言っていた。
松戸刑事の言葉はともかくとして……この魔歩呂市で一体、何が起きているのだろうか。浩介がここに来たとたん、爆破事件とやらで車を調べられ、さらには殺人事件の第一発見者となってしまった。
この先、何が待っているのだろう。
「浩ちゃん、止めるなら今のうちよ。この先は、もっとキツいことに巻き込まれると思う……」
希美が、ためらいがちに声をかけてきた。
浩介は苦笑する。彼女の言うことは正しい。自分はここで引くべきなのだろう……そもそも、こんな一文の得にもならないボランティアのようなことをして、いったい何になる? これまでにも、自分が介入したばかりに余計なトラブルを引き起こしたこともあったのだ。
しかも、今回はいつもとは違う。
ひょっとしたら……。
今度こそ、命を落とすことになるのかも知れない。
ふと、浩介の頭をそんな思いがよぎった。だが、有り得る話だ。爆破事件の次は猟奇的殺人事件。さらには、昨日すれ違った不気味な男の言葉……。
(この辺りには、本物の化け物が出るんです。あなたなら、分かりますよね)
この魔歩呂市では、何かが始まっている。得体の知れぬ事件が……自分は否応なしに、その事件に巻き込まれてしまったらしい。
だが、今さら後戻りをする気はない。たとえ死ぬことになったとしても構わないのだ。
本来なら、自分はあの時に死ぬべきだったのだから……。
・・・
到着した民宿の部屋で、天田士郎はほっと一息ついていた。もっとも、居心地がいい……とは、お世辞にも言えない部屋だが。六畳一間の部屋には、ちゃぶ台とテレビと小さな冷蔵庫が設置されている。それ以外にめぼしい物はない。畳はぼろぼろで、手入れも行き届いていないようだ。しかも、従業員の態度も悪かった。来年早々には、潰れていてもおかしくない。
だが、今の士郎にとってはこれで充分だ。彼の目的は旅行ではない。この地に潜伏している殺人鬼と接触することなのだから。
士郎は窓を開け、外の風景を見た。本当に何もない場所である。しかし、この魔歩呂市は妙だ。閉鎖的な村社会に特有の、よそ者を歓迎しない空気……それがあまりにも強いような気がする。
自分の裏の顔……そこから発散される何かが、人々に感知されているのだろうか?
いや、そんなはずはないだろう。だが、この辺りを歩いていた時……ずっと何者かの視線を感じていた。自分に人目を惹くような要素はないはずなのに。
そういえば、噂で聞いたことがある。この魔歩呂市には、心霊スポットが存在しているという話だ。旧日本軍の通信施設の跡地や、かつて使われていた坑道などが有名らしい。
そういった場所に加え、三日月村事件に興味を持つマナーの悪い旅行者たちが訪れ……結果、地元民たちは旅行者を歓迎しなくなったのかもしれない。
まあ、そんなことはどうでもいい。自分には関係のないことだ。この魔歩呂市で何が起きていようが、自分の知ったことではない。
自分は出来るだけ早く、殺人鬼のペドロと接触しなくてはならないのだ。そして用事を済ませ、この陰気な魔歩呂市からさっさと立ち去る。
士郎は外に出た。人通りのない田舎道をゆっくりと歩く。しばらく歩くとコンビニがあったはずだ。
やがて、目指すコンビニが見えてきた。だが、店の駐車場には車が停まっており、入り口には四人の若者がたむろしている。三人の男と一人の女という組み合わせだ。地元の若者たちだろうか……どう見ても、法を遵守する品行方正なタイプには見えない。
むしろ、その逆……他人に迷惑をかけることを、勲章として捉えているタイプのようだ。
普段なら、士郎はこの手の若者は避けて通ることにしている。こんな連中と関わり合っても、百害あって一利なしだ。出来るだけ波風を立てず、社会の闇の中でひっそりと動く……それが士郎の生き方だ。
しかし、今の士郎は苛立たっていた。微かではあるが、発作の兆候が現れているのだ……。
「ちょっとどいてくれないか。電話をかけたいんだ」
冷たい口調で言うと、士郎は若者たちの脇をすり抜けて公衆電話に向かう。しかし――
「え……何、おっさんケータイないの?」
不意に、若者の一人が叫んだ。同時に、他の若者たちがゲラゲラ笑い出す。
士郎はため息をついた。彼は身長百七十センチ強、それほど厳つい体格には見えない。顔つきも平凡だ。若者たちから見れば、暇潰しの玩具でしかないのだろう。
普段ならば、笑みを浮かべて争いを避けるはずだった。そもそも、士郎は飛ばしの携帯電話とスマホを持っているのだ。公衆電話など使う必要はない。
ただ万が一の事態を想定し、公衆電話を使うことにしたのだ。携帯電話から、こちらの位置を特定する方法などいくらでもある。これから電話をかける相手は得体の知れない男なのだ。一応、用心するに越したことはない。
もっとも、騒ぎが起こりそうであるなら、無理に公衆電話を使うこともない。
だが、今の士郎は発作の兆候が出ている。それを収めるには、暴力か流血しかなかった……。
「俺は電話をかける、と言ったんだ。失せろ」
士郎は冷たく言い放つ。すると、若者たちの態度が一変した。
「んだとぉ!」
若者のうち、ひときわ喧嘩早そうな男が喚きながら立ち上がった。そして、士郎に詰め寄っていく。
だが、その鼻先に士郎の左拳が飛んだ。続いて、腰の回転を利かせた右拳……若者は完全に不意を突かれ、その場に膝から崩れ落ちる。
残りの若者たちは、一瞬にして静まり返った。たった二発のパンチで、彼らのリーダー格が倒されたのだ……嘲るような表情が消え失せ、代わりに恐怖が若者たちを支配した。
一方、士郎は平然とした表情で彼らの顔を見回す。
「電話をかけるから失せろ、と言ったはずなんだがな……聞こえなかったのか? それとも、お前らには日本語が通じないのか?」
若者たちが全員、血相を変えて立ち去ったのを見届けると、士郎は公衆電話の受話器を取り、コインを入れた。
「あんたがペドロか? 俺は天田士郎、工藤明の使いの者だ。あんたと会って話がしたい……」