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九月二日

 その日の朝、吉良徳郁は成宮亮の運転する車に乗っていた。その車は、徳郁の自宅へと向かっている。そう、今の徳郁は仕事を終え、家に帰るところなのだ。

 昨日の仕事もまた、いつもと同じようなものであった。亮に依頼されて人を殺し、その死体を解体する。そして精肉工場の機械で細かく切り刻み、養豚場の豚に食べさせる……これは徳郁にとって、ごく普通の日常なのだ。


 そして徳郁は仕事を終え、真っ直ぐ自宅に帰って来た。

 彼は、周囲を山に囲まれた魔歩呂市の外れの地域に住んでいる。山の中に建てられた、ペンションのような家で暮らしているのだ。人間嫌いな徳郁にとって、他人と接触せずに済む環境は何よりありがたいものであった。

 そして、亮はいつもと同じく、徳郁の自宅のすぐそばに車を停めた。ヘラヘラ笑いながら声をかける。

「ノリちゃん、また頼むよ……頼りにしてますぜ」

「ああ」

 ぶっきらぼうに答え、徳郁は車を降りた。そして、家に向かい歩いていく。すると、ドアの前には一匹の黒猫がいた。右目は醜く潰れ、体のあちこちに古傷がある。

 その黒猫は、ドアの前で大きな体を横たえていた。見るからにリラックスした、くつろいでいるような様子だ。そして顔を上げ、残された左目で徳郁の顔をじっと見つめている。

 すると、徳郁はにっこりと微笑んだ。真っ直ぐ歩くと、黒猫の前で立ち止まった。だが黒猫は逃げようともせずに、じっと徳郁を見つめたままだ。恐れるような素振りはない。むしろ、よく来たな……とでも言いたげな、悠然とした態度である。

「ただいま、クロベエ」

 そう言うと、徳郁は手を伸ばした。そして、黒猫の肉付きのいい腹を撫でる。黒猫はやや迷惑そうな表情をしているが、抵抗もせずにされるがままになっていた。

 徳郁は微笑みながら、ドアを開けて家に入る。黒猫も起き上がり、徳郁の後に続いて家に入って行った。


 家の中は、がらんとしており殺風景だった。家具の類いはほとんど見当たらず、余計な物は全く置かれていない。かろうじてテレビと冷蔵庫、それに洗濯機があるくらいだ。

 そう、徳郁は生活に彩りを与えるようなツールを、全く必要としていなかったのだ。テレビとラジオ、それに亮に持たされた携帯電話くらいはあるが……それ以外の電子機器やお洒落な家電などは持っていない。徳郁は、自分に必要な物と必要でない物をきっちりと理解している。世の中に存在している大半の物は、徳郁にとって必要ない物なのだ。


 徳郁は床にあぐらをかいて座り、亮からもらったトートバッグを置いた。そして、中に入っている物を取り出す。それはキャットフードの缶詰めだった……高級なものばかりである。

 その缶詰めを見たとたん、クロベエの様子が変わった。早くよこせと言わんばかりに、喉をゴロゴロ鳴らしながら徳郁の腕や足にまとわりついて来る。徳郁は苦笑した。

「わかったから、ちょっと待ってろよ」

 言いながら、徳郁はポケットからアーミーナイフを取り出した。缶切りやハサミなどが付いている物だ。

 缶切りの部分を使って缶を開き、中身を皿の上に空ける。

 すると、クロベエはいかにも美味しそうな様子で食べ始める。

 徳郁はそんなクロベエの様子を見ながら、思わず目を細めていた。昨日、冷酷な表情で女を殺し、死体をミンチに変えた姿が嘘のようだ……。

 その時、外から声が聞こえてきた。声といっても、犬の吠える声だが。

 徳郁は立ち上がり、扉を開ける。すると、今度は一匹の犬が尻を地面に着け、前足を揃えた姿勢でじっとこちらを見ていた。体は大きく、クロベエのように傷だらけである。一見すると、灰色の毛に覆われているようだが……よく見ると、もともとの毛の色は白い。

「シロスケ、来たのか」

 言いながら、徳郁は手を伸ばした。そして、犬の頭を撫でながら微笑む。犬は尻尾を振りながら、わん、と鳴いた。


 クロベエとシロスケは、この辺りに住み着いている野良猫と野良犬である。二匹はお互いに近寄ろうとはしないし関わろうともしていないが、積極的に争おうともしていない。

 ただ二匹とも、徳郁のことは気に入っているらしく、毎日のように家に姿を現す。そして餌をねだりに来るのだ。クロベエなどは、いつの間にか家の中にまで入り込むようになってしまった。

 そして徳郁は、クロベエとシロスケの存在のおかげで心を癒されている。


 幼い時、そして今に至るまで……徳郁は動物のことが大好きだった。人間に対しては、押さえきれないほどの嫌悪感を抱いている。しかし動物に対しては、その嫌悪感は発揮されないのである。

 小学校の時など、徳郁は教室にはほとんど居なかった。代わりに、校庭に設置されていたウサギ小屋に入り浸っていた。

 そのため、当時の担任の教師は徳郁の両親を呼び出し、特殊学級に入れるべきだと言った。しかし、両親は聞き入れなかったのだ。結果、徳郁は授業以外の時間のほとんどを、ウサギ小屋で過ごしていた。

 もっとも、特殊学級に入ったところで……徳郁の人格には何ら変わりがなかっただろうが。

 幼い頃の徳郁……彼が将来なりたかったものは、動物園の飼育係であった。人間と関わらず、動物とだけ関わって生活したい。それが徳郁のささやかな夢だった。

 しかし、彼のそんなささやかな夢ですら……叶うことはなかったのだ。


 ・・・


 四方を山に囲まれた魔歩呂市にも、一応は歓楽街らしきものがある。そこにはレストランや映画館などのレジャー施設が集まっていた。さらに、飲み屋や風俗店なども数多く存在する。

 そして……当然ながら、ヤクザや外国人マフィアのような裏社会の住人たちも存在している。




 繁華街の片隅に建てられている、古ぼけた四階建てのビルの一室……そこで岸田真治は壁にもたれかかったまま、事の成り行きをじっと見ている。

 部屋の中央では、一人の男と一人の女がソファーに座っていた。一人の大柄な男とテーブルを挟み、向き合う形である。両者の間には、緊迫した空気が流れていた。


「それは無理ですね。いくらなんでも、理不尽かと思いますが」

 女の方が、強い口調で言い放った。若くはないが、熟女と呼ぶのは失礼かもしれない。髪型から靴に至るまで寸分の隙もない。さほど美人ではないが、その顔つきからは高い知性と強固な意思を感じさせる。

「岩瀬さん……俺たちにそんな理屈が通じると思っているんですか? 俺たちはヤクザじゃないんですよ。ヤクザのルールを押し付けないでもらえませんかねえ……」

 女に向かい凄んだ大柄な男は、真治の部下である立花だ。がっちりした体格と厳つい風貌は、見る者に威圧感を与えるだろう。頭の方は少しばかり鈍いが、暴力には慣れている。

 しかし、昨今は人に言うことを聞かせるには、暴力だけでは足りないらしい。岩瀬と呼ばれた女には、怯んでいる様子がないのだ。よほどの自信があるのか、あるいは真治の怖さを知らない向こう見ずなだけの愚か者か。

「とにかく、あなた方の申し立ては筋が通っていないですね。これ以上、続ける気でしたら、こちらにも考えが――」

 岩瀬は、そこで言葉を止めた。目の前に置いてあるテーブルに、真治が腰かけたからだ。

 すると、女の隣にいる男の表情が一変した。

「何じゃゴルァ! 姐さんを馬鹿にしとんのかぁ!」

 わめく男。すると、岩瀬が無言のまま男を殴りつける……殴られた男は顔をしかめ、岩瀬に頭を下げた。

「ほう」

 真治は感心したような声を出す。女にしては、いいパンチだ。伊達にヤクザの女幹部をやっている訳ではないらしい。

「清水……お前は喋るな。口を閉じていろ」

 岩瀬は、低い声で男を恫喝した。そして、鋭い目付きで真治を見つめる。

「いいですか、岸田さん……私たちも、この魔歩呂市に遊びに来た訳ではありません。組の看板を背負っているんですよ。お分かりですね」

 言いながら、岩瀬は真治を見据えた。その言葉の裏には、圧力が込められている。真治はヤクザの女幹部と接触したのは初めてだが、大したものだと思った。

 ただ……惜しむらくは、真治という人間のことを何もわかっていない点だ。

 そして、真治は岩瀬との会話に飽きていた。


「あの、岩瀬さん。一つお聞きしたいのですが、あなたは僕が何者なのか、理解していますか?」

 唐突に、優しげな口調で尋ねる真治。岩瀬は眉を潜めた。

「あなた、何を言っているんですか――」

「この魔歩呂市はね、あなた方から見れば田舎町かもしれません。しかしね、田舎は田舎で怖い面があるんですよ。昔から、この辺りにおいて絶大な権力を持っている神居カムイの一族をご存知ですか?」

「……神居家なら、知っています。それが今、ここで何の関係が――」

「でしたら今、神居家の当主であり最高権力者でもある、神居宗一郎カムイ ソウイチロウはご存知ですね。あれは僕の父です」

「……はあ?」

 唖然とした表情の岩瀬。一方、真治はその端正な顔を歪めて見せた。

「僕はね、神居宗一郎が愛人に生ませた子供なんですよ。つまり、僕は神居宗一郎の隠し子なんです。もっとも、本人に隠す気は無かったようですがね……ですから僕は、少々のことは揉み消すことが可能なんですよ。この魔歩呂市にある、神居の王国を甘く見ない方がいいですね」

 そう言って、真治は岩瀬をじっと見つめる。

 すると、岩瀬はため息をついた。

「前々から、そうではないかと思っていたのですが……今、はっきりと確信しました。あなたはどうやら、心の病気のようですね」

 岩瀬の言葉を聞き、真治は苦笑した。

「そう、あなたの言う通りだ。僕は病気です。ただし……僕は気は狂っているかもしれませんが、嘘はついていません。僕は神居宗一郎の息子なんですよ。だから、こんなことも出来る」

 その言葉と同時に、真治の手が動いた。まるで稲妻のような速さだ……見ている者には、何が起きたかわからなかっただろう。

 直後、岩瀬の喉がぱっくりと開く。

 そこから大量の血液が迸った……。

 部屋に訪れる沈黙。しかし――

「う、うわあぁぁぁ!」

 横にいた男が悲鳴を上げる。だが、真治はお構い無しだ。左手を伸ばし、男の髪を掴んだ。

「あんたもヤクザなんだろ……だったら、この程度のことで悲鳴なんか上げるなよな」

 言葉と同時に、真治は右手のナイフを走らせる。

 抵抗する間もなく、男は喉を切り裂かれた。


「立花、すまないが後始末を頼む」

 そう言うと、真治は自らの顔や手に付いた返り血を拭き取る。そして、床の上の死体を見つめた。二人とも、呆れるほど間抜けな表情だ。

 恐らくは、二人とも賢い人間なのだろう。少なくとも、岩瀬の方は女でありながらヤクザの幹部になっているのだ。かなりのキレ者なはず。

 だが、真治の怖さを全く理解していなかった。相手の怖さを理解できない……それもまた、愚か者ゆえの過ちだ。


 ・・・


 それは、とても奇妙な男だった。

 肌の色は浅黒く、身長は百六十センチほどであろうか。しかし腕は長く、がっちりした体格の持ち主である。顔の造りや肌の色は、明らかに日本人のものではない。かといって、欧米人とも違う。見た目からは年齢を推し量れないが、若くないのは確かだ。そして……どこか野獣のような雰囲気を漂わせている。

 作業服のようなものに身を包んだその男は、超然とした態度でこちらに向かい歩いて来た。顔には不気味な笑みを浮かべて……。


 その時、高田浩介は車を停めて弁当を食べていた。ここに来る途中のコンビニで買ったものだ。

 浩介は、無言のまま食べていた。しかし――

「こ、浩ちゃん……気をつけて……」

 希美の妙に上ずった声を聞き、浩介は顔を上げる。

 すると前から、奇妙な男が歩いて来るのが見えた……。


「希美、あいつは何者なんだ?」

 浩介は男を見つめ……いや睨みながら、希美に尋ねる。彼もまた、前方より近づいて来る男にただならぬものを感じていた。この辺りは、山に囲まれた田舎道である。少し道路を外れると、そこは背の高い草の生い茂る野原だ。

 なのに、男は何の荷物も持たず、作業服を着た格好ですたすたと歩いている。まるで地元民のような気楽な顔つきだった。

 しかし、こんな不気味な地元民がいるような場所ではないはずだ。

 浩介の目は吸い寄せられるように、じっと男を見つめる……まるで蛇に睨まれた蛙のように、動きが止まっていた。

 そして男は、こちらに向かい真っ直ぐ歩いて来る。その距離はどんどん縮まって来ていた。今や、男の顔がフロントガラス越しにはっきりと見える。

 不思議な顔つきだった。人相は悪く、危険な香りを漂わせている。だが、それとは真逆の知性と品のようなものも感じられるのだ。いったい何者なのだろうか……浩介がこれまでに会ってきた、どの人物とも違って見える。飼い犬と野生の狼が、似て非なる性質の持ち主であるように……。

 さらに男が近づいて来るにつれ、浩介は不思議な感覚に襲われた。車の中の空気が、どんどん重苦しくなっているのだ。男の体から発せられる何かが緊張感を生み出し、その緊張感が軽い息苦しさを生じさせていた。そして、浩介の鼓動も早くなっている。胸の苦しさを感じながら、それでも浩介は動けなかった。

「浩ちゃん、車を出して」

 希美の上擦ったような声が聞こえてくる。にもかかわらず、浩介は動けなかった。得体の知れない感覚に支配され、体が硬直していたのだ……。


 やがて、男は立ち止まった。運転席のドアガラスのすぐ横で、じっと浩介を見つめている。不思議な目だった。何もかもを呑み込んでしまいそうな、暗い瞳だ……浩介はその視線に捕らわれてしまったかのような感覚に襲われた――

 不意に、男はタバコの箱を取り出す。一本抜き取ると、口にくわえて火を点ける。

 美味そうな表情で煙を吐き出すと、男はドアガラスを軽く叩いた。

 すると浩介の体は、本人の意思とは無関係に動いていた……ドアガラスを開け、顔を合わせる。

 すると、男は笑みを浮かべた。


「随分と顔色が悪いですね……大丈夫ですか?」


 意外なことに、その口から出たのは流暢な日本語だった。発音も完璧だ。どう見ても、日本人では無いのだが。

「え? あ、はい……大丈夫です……ちょっと気分が悪くなったので休んでいるだけですから……」

 しどろもどろな口調で答える浩介。すると、男はニヤリと笑い、後部座席の方を見る。だが、それは一瞬だった。すぐに視線を浩介に戻す。

「あなたは、実に面白そうな人だ。出来ることなら、あなたとしばらく語り合いたいですが……俺も片付けなければならない仕事があります。なので失礼しますよ」

 そう言うと、男は恭しい態度で頭を下げる。

 だが頭を上げた瞬間、男の顔から表情が消えていた……。

「一つだけ忠告しておきます。何の用でここにいるかは知りませんが、この辺りにはあまり長居しない方がいい。でないと、あなたの身に災いが降りかかることになりますよ」

「わ、災い……ですか」

 呆然とした表情で聞き返す浩介……すると、男は頷いた。

「ええ。この辺りには、本物の化け物が出るんです。あなたなら、分かりますよね……まあ信じるも信じないも、あなたの自由ですがね」




 突然、浩介の体が震え出した……。

 浩介は驚愕の表情を浮かべて、自分の手足を見る。そして、どうにか震えを止めようとした……だが、止まらない。浩介は必死で、車のハンドルを掴む――

「浩ちゃん! 大丈夫、大丈夫だから落ち着いて! あの男はもう居なくなったから!」

 その声を聞いた途端、震えが止まった。ふと外をみると、男の姿は無い。いつの間に立ち去って行ったのだろうか……。

「ねえパパ、大丈夫?」

 今度はまひるが、心配そうに聞いてきた。浩介、は無理やり笑みを浮かべる。

「ああ……もう、大丈夫だよ」


 ・・・


 天田士郎は今、車を走らせていた。行き先は、四方を山に囲まれた町の魔歩呂市である。こんな曰く付きの場所には、なるべくなら近づきたくはない。だが、彼にはどうしてもしなくてはならないことがあった。


 木を隠すには森の中、人が隠れるなら都会……それが逃亡者のセオリーのはずだった。少なくとも、士郎はそう思っている。魔歩呂市のような地域の繋がりが異常に強い田舎は、逃亡者が隠れるには適さない場所ではないだろうか。

 もっとも今、この付近に潜伏している逃亡者は常人ではないのだ。神が気まぐれで誕生させた、ある種の天才であり怪物でもある。何を考えているのかなど、士郎に理解できるはずがなかった。


 ペドロ・クドー……メキシコ人の母と、日本人の武術家である父との間に生まれたハーフである。人間離れした野獣のごとき身体能力と、いかなる状況においてもヘラヘラ笑っていられる図太い神経、そして何者にも屈しない反抗心の持ち主だが、人間らしい情愛は一切持ち合わせていない。メキシカン・マフィアと深い繋がりがある裏社会の大物だったが、アメリカで七人を殺害した容疑で逮捕される……だが、司法取引により終身刑となったのだ。そして、アメリカで地獄の入り口との異名をとる重警備刑務所のレイカーズに入所した。

 その後、ペドロはレイカーズ刑務所で十五年ほど服役していたが……つい最近、病のため獄中で亡くなったという通知が息子の元に来たらしい。


 しかし数日前、日本に住んでいる息子に、死んだはずのペドロからメッセージが送られてきたのだ。

 元気でやってるか? 俺は魔歩呂市にいる、という内容のメッセージが……。


 そして、士郎は息子からの返事を伝えるために、魔歩呂市へと向かっている。裏の何でも屋である士郎にとっても、楽な仕事ではない。

 だが、ペドロの息子である工藤明クドウ アキラは父との縁を切り、真面目に暮らしているのだ。連続殺人犯であり、逃亡者でもあるペドロとは関わりたくない。そこで、明と個人的に付き合いのある士郎が、代理人として会うことになったのだ。

 もっとも、士郎の方は単なるメッセンジャーで終わるつもりはない。彼は彼なりに、きっちりと仕事をするつもりでいた。

 自分のできる仕事を。


 車を走らせながら、士郎はずっと考えていた。死んだはずの男が、アメリカの重警備刑務所を脱獄し、日本にいる……有り得ない話だ。しかし、明は嘘を吐くような男ではない。何者かのイタズラ、という可能性も考えられるが、そもそもペドロの存在自体を知っている者はほとんどいないはず。第一、そんなイタズラをしたところで何になるというのだろう。

 出来ることなら、イタズラであってくれた方がありがたいのだが、ペドロは生きている……と考えた方が辻褄が合うのも確かだ。

 

 士郎は、暗い気持ちになってきた。この魔歩呂市は、極めて特異な地域なのである。三日月村の事件にしても、閉鎖的な村社会による村八分という仕打ちが市松勇次の狂気を育み、凶行のきっかけを作り出していった……などと指摘している文化人もいたくらいだ。

 そう、この魔歩呂市という場所は……地域全体に閉鎖的な空気が流れているのだ。歓楽街はともかくとして、それ以外の場所は明らかによそ者を歓迎しない雰囲気だ。

 その原因は、神居の家にある。現在の当主である神居宗一郎は、この魔歩呂市において絶大な権力を持つ人物とのことだ。噂によれば、地元の警察ですらおいそれとは手出しできないらしい。

 この地に特有の伝統と因習に支配された、不気味な場所に逃げ込んだ連続殺人犯と接触する……裏の世界でそこそこ有名な仕事師である士郎にとっても、気の進む仕事とは言えない。


 ため息をつきながら、車を走らせる士郎……だが、その視界に霧のようなものが映る。士郎はすぐに車を停めた。ひょっとしたら、持病の発作が始まったのかもしれないのだ。

 士郎はまず、自らの手を見た。次いで、外の風景に視線を移す。

 ガラス越しにではあるが……外の風景が、僅かに霞んで見える。これは、間違いなく発作だ。

「クソが……」

 小声で毒づいた後、士郎はポケットから小さなナイフを出す。さらに、左腕の袖を捲り上げた。

 筋肉と……線のような傷に覆われた、太い二の腕が露になる。

 士郎はそのナイフで、自らの左腕に切りつけた。

 ぱっくりと傷が開き、血が流れ落ちる。

 それを見つめる士郎の目は、氷のように冷たい光を帯びていた。


 傷を手早く処置した後、士郎は改めて外の風景に視線を移す。先ほどよりは、風景がはっきりと見える。霞のようなものは見えない。どうやら、発作は収まったらしい。

 だが、今のはあくまで応急処置のようなものだ。根本的な解決にはなっていない。発作を止めるには何をすればいいか、士郎にはよく分かっている。

 発作を止めるためにも、ペドロに会わなくてはならないのだ……。






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