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短編・詩:裏メニュー

作者: 茴香

「貴女、コーヒー好き?」

「好きよ。貴女も良く知っていることだと思うけど?」


唐突にそんなことを問われて私は一瞬キーボードを叩く手を止めて、そのまま振り返らずに答える。私が無類のコーヒー好きなことは周知の事実であり、私を良く知る人間が私にこのような質問をすることはまずない。しかし彼女はわざわざ私にそれを問いかけてきた。ならば何かあるのだろう、私はその事実に小さな違和感を覚え、彼女の次の言葉をただひたすらに待っていた。しかしいくら待てど彼女は何も言ってこない。


「どうしたの? いきなりそんなことを聞くなんて、何かあるのかと思ったわ」


 私は再びパソコンに向かい、机の上ではリズミカルにキーボードを叩く音が不思議な旋律を奏でている。するとようやく彼女から返事が返ってきた。


「じゃあコミダコーヒー店って知ってる?」


 私は指を止め、今度は椅子を回して彼女に向き合い、彼女を見つめて答える。


「愚問ね。コーヒー好きの私が知らないわけじゃないでしょう? 世に喫茶店チェーンは数あれど、今時フルサービスの喫茶チェーンは貴重よ。それに私はあそこの焙煎が気に入っているの。独特の香りと苦味、それであの値段とは素晴らしいわ。それに貴女知ってるかしら? あそこは朝になるとコーヒー一杯の値段でトーストが付くのよ。そう、俗に言うモーニングという奴ね。それに疲れたときにはあそこのシロノエールはコーヒーとの愛称が素晴らしいわ。ホットケーキの上に冷たいソフトクリームがこれでもかって乗ってる不思議なメニューだけど、実際食べてみればその素晴らしさが分かるわ……っと、話が逸れたわね。それで、コミダコーヒー店を知っているかということだったかしら? 少なくとも今言ったくらいには知っているつもりよ」


 思わず熱弁する私に彼女は少し驚いたのか、目を大きく開いて呆然としていたが次の瞬間、彼女の目が怪しく光る。


「シロノエールは至高。それは認める。でも貴女はそこまでしか知らない」

「……どういうことかしら?」


 彼女の言葉に思わず私の瞳に力が宿る。先ほどはああ言ったが、私は週に5日はコミダコーヒー店に通っている所謂常連と呼ばれる部類なのだろう。店員の名は全員把握しているし店長とも仲が良い。そんな私が知らないことなどあるはずが無い。故に私は彼女の言葉を看過することはできなかった。すると彼女は真っ直ぐに私の瞳を見つめてゆっくりと口を開く。


「コミダコーヒー店にはシロノエールを越える逸品がある。それは店に選ばれた一部の者にしか食べることが許されない裏メニュー。貴女がいくら常連を気取っていても、それを食べていないうちは常連を名乗るのはおこがましい」


 彼女の言葉に私は衝撃を受けた。私の住む町は喫茶店が多い。朝にはコーヒー一杯の値段でトーストが付いてくる店も多く、手ごろな値段からモーニングを利用する客が多い。そしてもう一つの特徴として、いくつかの喫茶店にはその名を知る者にしか食べることを許されない裏メニューが存在する。有名な店としては『モウンテン』にある裏メニューだろう。しかしあれはもはや試練の一つであり、とても楽しむ余裕は無い。しかし、私は不覚にもコミダコーヒー店の裏メニューの存在を知らなかった。彼女の言葉は私の胸に深く突き刺さり、そして同時にあの程度で常連を気取っていた自分を恥じた。私は恐る恐る彼女にその裏メニューの名を聞いた。


「……そのシロノエールを越えるメニューって?」

「その名はクロノエール。店長に真の常連と認められた者がたどり着く境地」

「クロノエール……」


 私は彼女の言葉に戦慄し、同時に沸き起こる常連としての意地。それからの私の行動は早かった。毎日朝晩とコミダコーヒー店に通い、店長ともできる限り会話をするようにした。そしてあざといとは思ったがシロノエールを褒め称え、暗にその上の例のメニューを催促した。そんな日々も一月が続くとさすがに飽きてくる。一月で食べたシロノエールは合計30は越え、私の体重はまるで私の熱意に比例するかのように右肩上がりだ。そして一月がたったある日、私は常連としてのプライドをかなぐり捨てて店長にたずねることにした。


「時に店長、そろそろ私も……駄目かしら?」

「えっ? いきなりどうしたんですか!? そんな……気持ちはありがたいですが、私には妻子が……」


 なにやら妙な勘違いをする店長に私は上気した頬を隠すように俯きつつ慌しく手を横に振った。


「いやいや……そうじゃなくてですね。あの……その……」

「えっ? 違うんですか。これはとんだ勘違いを。でも少し残念ですね」


 朗らかな笑顔で頭を掻く店長を前に、私が一方的に恥ずかしがっているのは癪なので私は覚悟を決めた。胸を張って店長の瞳を見つめてゆっくりと息を吸い込む。見れば厨房の影から知り合いの店員達が私達の様子を興味深く見つめている。もはや逃げ場はない。ならば私は常連としての矜持を以って前に進もう。そして私はゆっくりと、大きく響く声で店長に言った。


「そろそろ私も常連として認めて頂きたいんです。どうか、どうかこの私にクロノエールを食べさせて下さい」


 叫びに近い私の言葉は店内に響き渡り、店長をはじめ店員達は私のその様子に思わず言葉を失って立ち尽くしていた。しかし、これで私がどれだけ真剣なのか伝わったはずである。人事を尽くして天命を待つ、私の好きな言葉だ。毎日足しげく店に通い、誠意も見せた。私のコミダコーヒー店への愛は十分に伝わった筈である。私は手に汗握りながら店長の言葉を待った。そして運命の時が訪れる。


「あの……大変申し上げにくいのですが、当店にはクロノエールなる商品はございません」

「えっ? 常連にしか許されない裏メニューのクロノエールのことですよ?」


 すると私の言葉に周囲の店員達が残念そうな表情を見せた後、私と目を合わせるのが嫌なのか咄嗟に視線を逸らす。明らかに何かがおかしい。そう思って目の前の店長に向き直ると店長も他の店員と同様何故か私に目を合わせようとしない。そしてその表情は……まるで見てはいけないものを見てしまったようなーー戸惑い。そして私は店長の言葉を反芻する。『当店にはクロノエールなる商品はございません』、つまりこの言葉が意味するところは一つ。


「あの女あああぁぁぁーー!! だましやがったなあああぁぁぁ!!!!!」


店内に私の悲鳴がこだまして、私は力なく膝から崩れ落ちた。



 それでも私はコミダコーヒー店の常連である。愛すべきコーヒーと気さくな店員達、そしておいしいシロノエール。あれはこれ以上を目指した強欲な私を戒めるための罰だったのである。ちなみに私に素敵な裏メニューを教えてくれた素敵な同僚には、裏メニュー中の裏メニューである喫茶『モウンテン』の『小倉重』をご馳走してあげたのは言うまでも無い。彼女はあまりの感動に涙を流して最後には至福の表情で机に倒れ臥した。


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