2.キスのち
――好きだよ。
その言葉を理解するよりも早く訪れた次の驚きに、優奈は動くことができなかった。
唇を覆う柔らかい感触と眼前に迫る黒い瞳。
(少し違う)
黒だと思ってた瞳。よく見ればそれは黒に近いダークブラウンだった。
(これが、与田先輩の色)
まるで世界に二人きりになってしまったみたいだ。嵐の存在以外を感じることができない。
どれくらいの時間そうしていたのかは分からないが、終わりは唐突に訪れた。
「離れろ!」
怒鳴り声とともに、強い力で引き離された。
「三千院、大丈夫?」
焦った顔をした涼にそう聞かれたが、優奈が考えていたのはまったく別の事だった。
(どうして……?)
優奈に拒む隙も与えずに嵐の意思のみで行われた口づけのはずなのに、どうしてか離されたことに不満を感じてしまっている。
「三千院?」
「あ……」
もう一度涼に声を掛けられ、優奈は自分の置かれた状況を思い出した。
「だ、大丈夫……だよ」
自分の感情を悟られないように笑顔を浮かべてそれだけ返す。
生まれて初めて自分を狡猾な人間だと思った。ぎこちなく弱い声は、まるで被害者のそれそのもので、名残惜しいと思う優奈の本心を完璧に隠していた。
「全然大丈夫には見えないよ……」
優奈が被害者の声と感じたように、涼もそう受け取ったらしい。優奈を背中に隠した涼は嵐に食って掛かった。
「与田先輩! いったいどういうつもりなんですか!」
「俺はただ、俺がどれくらい優奈を好きなのかを示してみせただけだよ」
言いながら、嵐は自ら捨てたカツラを拾い上げた。それを手の中で弄ぶ。
「優奈も……ついでに君も、俺のことを男だとみてなかったみたいだからね。……ま、当たり前か」
嵐は男子からも女子からも支持されている。常に前を見据えて自信溢れるその姿が魅力的だからだろう。
しかし、今の嵐にそのような自信は感じられない。普段は決して見せない、弱さのようなものがにじみ出ている。
「だからってなんで……なんで三千院にキスなんて……しかも、こんな……」
涼の視線が左右へ伸びる。
はっきりとは言わなかったが、何が言いたいのかすぐに分かった。こんな生徒達の目の前で、と言いたかったのだろう。
あまり現実を直視したくないけれど、周りでは生徒達が好機の目で優奈達を見ている。
「良い機会だと思ったからだよ。俺のことを男だと認識していないのは、なにも君達だけじゃないだろうからね」
そう言って嵐が周りを見やる。
優奈のクラスにも嵐のファンクラブがあった。たしか会員の半数は男子だったはずだ。
「優奈」
「は、はい!」
呼ばれて、反射的に顔を上げてしまった。嵐に焦点を合わせた瞬間、唇に先程の感触が蘇ってくる。
優奈の中で何かが疼く。
「今日はもういいよ。部活に行くといい」
「え……?」
「本当は一緒に生徒会の会議に出るつもりだったんだけどね。こんな状況になった以上それは諦めることにするよ」
すっかり頭の片隅に追いやられてしまっていたけれど、そういえば嵐は委員会の用事で迎えに来たのだ。
「いいんですか?」
「うん。……というか、今俺にあんまり近づかないで。興奮覚めやらぬってこういう感じの事を指すのかな? 今優奈のそばに居たら自分でも何をしでかすか分からない」
意味を理解するのに数秒を要した。
カッと顔が熱くなる。
「し、失礼します。さようなら!」
そこまで言われて、意識しないなんて無理だった。
踵を返し、体育館へと直行した。
バトン部の練習を終え帰宅した優奈は、真っ先にシャワーを浴びた。
シャワーが流れる音だけが耳に入ってくる。
汗と一緒に、今日あったことすべてが流れていってしまえば良いのにと思った。
顔を洗う。特に、唇をよく洗った。きっともう、接触した部分は綺麗に洗われてしまっているだろう。
でも。
(なくならない……)
嵐の感触が、いくら洗っても落ちてくれない。
しっとりと、吸いつくようにくっついた唇。
忘れたいと思うほどに記憶を強く刺激して、感覚が鮮明に蘇ってくる。
嵐のことは嫌いじゃなかった。
強くてかっこよくて、美人でなおかつ頭も良い。あんな風に堂々とした人になれたらいいな、と少し憧れていたくらいだ。
といっても優奈が憧れていたのは、男性としての嵐ではなくて、女性としての嵐だった。
確かに、嵐を女の人として見ていた。今ならそう言い切れる。
嵐に言われるまでは、自分が嵐をどう見ていたかなんて考えもしなかった。嵐に言われて初めて、自分が嵐をどう見ていたかを知ったのだ。
自分自身の、嵐に対する言動を思い返す。嵐は私の好意に気づいていたに決まってる。それほどあからさまな態度だった。
きっと嵐は、優奈の好意に気づくと同時に、嵐を男性として見ていない事にも気づいたのだろう。
キスされて、ようやく相手を男性だと認識するだなんて……遅すぎる。
(明日から……どんな顔して先輩に会えばいいんだろう……)
今まで通りになんてできるはずがない。
そして、なにより大きな問題。
明日、クラスメイトにどんな質問をされるかと思うと……不安は募るばかりだ。
「学校……休みたいな……」
その呟きはシャワーの音に飲まれてしまったはずだった。
――しかし、その願いは運命に聞き届けられていた。