1.脱女装宣言
午後三時半を知らせるチャイムが鳴った。
「えー、ではホームルームはこれくらいに……」
チャイムを聞いて先生がホームルームを切り上げる。
(聞いてからじゃ、遅いんだって!)
特に重要な事はないくせに、時間いっぱい使ってホームルームを行う先生に焦れながら、優奈はカバンを握りしめる。
長く間延びしたチャイムの音が止む。
「それでは日直、挨拶を」
「起立。礼」
礼もそこそこにして、教室にいる誰よりも早く、優奈はドアへと駆け出した。
(早くしないと、来ちゃう)
焦りを胸に、優奈はドアを力いっぱいスライドさせる。
目の前に現れたのはYシャツをまとった胸板だった。
「やぁ、三千院さん」
「……遅かったか」
斜め上にある笑顔を見て、優奈は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「そんな顔をされるなんて心外だな。そんなに僕に会いたくなかった?」
心の中で頷きながら、優奈は周りに目を向けた。
教室では他の女子生徒がヒソヒソと話しながら優奈に視線を送ってくる。
「三千院さん、石橋君に対して冷たいよね」
「イケメンに好かれてるけど、私はそんなつもりないんですー、ってアピってるつもりなわけ?」
小さな声でもそれはすべて優奈に届いていて、それを気にせずにいられるほど優奈は図太くない。
「そんなことないよ」
仕方なくそれだけを返す。
するとまたヒソヒソと声が上がる。
「やだ、ああやって中途半端に弄んでるわけ?」
「気持ちに応える気がないならきっぱりそう言えばいいのに」
(どうしろって言うのよ!)
拒んでも応えても、どちらにせよ文句を言われる。それがこの目の前の超が五つ付くイケメン、石橋涼と関わってしまった以上避けられない宿命なのだ。
「ねぇこの後暇? 一緒にお茶でもしない? ……あ、ちょっとベタだったかな」
くっきりとした二重の瞳を細めて彼は笑った。
まずいと思って優奈が耳を塞いだ直後、教室内に絶叫がこだまする。涼の女子生徒のファン達が、彼の色気に耐えられずに悲鳴を上げたらしい。
「悪いけど、今日はこの後部活があるから他を当たって」
というのは体のいい言い訳で、今日以外も部活はあるし、部活がなかったとしても涼の誘いを受けるつもりはないのだが。優奈にその気がないことなど涼だって知っているはずだ。
涼が優奈に特別な態度を示すのは今日が初めてではない。同じクラスになった去年に始まり、もうそろそろ一年ほどになる。一年間も涼からアプローチされていて応えないというのは女性本能の異常である、というのが周囲の意見だが、好きになれないものは好きになれないのだからしょうがない。二年生になってクラスが変わればそのうち忘れるだろうと簡単に考えていたのだが、まさかクラスが変わった今年も涼の言動が維持されるとは思っていなかった。
「部活ねぇ……」
少し考える素振りを見せた涼は、ふいに優奈の耳元に口を寄せた。
「サボっちゃいなよ」
耳元に掛かる呼気。内側をくすぐる低音。
「なっ……」
くすぐったさに耐えかねて、優奈は反射的に数歩後ずさった。
「こんな事を君に言ってしまう僕は、悪い男なのかな。でも、君のためなら悪い男になるのも良いかもしれない」
もう一度優奈は耳を塞いだ。お約束のようにけたたましい声が教室を支配する。
「うるさいな、何の騒ぎ?」
涼への黄色い声をテノールが切り裂いた。
「与田先輩」
涼の横からひょいと覗いた顔を見て、優奈は言った。
パッチリとした黒い瞳とそれを守る長いまつげ、すっきりとした唇が卵型の美しい顔に配置されている。誰が見ても美少女だ。
「ちょっと、邪魔だよ」
しかし涼にそう文句をつける声は女性のものではない。
彼の名前は与田嵐。ロングのウイッグを常に付けている上に、制服もスカート着用。真実を知らなければ、背の高い女の子にしか見えないが、れっきとした男である。
「これはこれは与田先輩、いつ見ても飽きない美人ですね」
「そういう言葉は女の子だけにかけてあげなよ。俺に言わないで。気色悪い」
女子にしか見えない格好をしているがノーマルらしく、心底嫌そうな顔をしている。
「機嫌を損ねてしまったようで申し訳ない。しかし僕はですね、綺麗なものには綺麗と……そして可愛いものには可愛いと言わずにはいられないんです。どうか許して下さい。……どこへ行くつもりかな、三千院優奈さん」
ギクリと優奈の肩が強張る。
そっとその場を離れようとしていた優奈だったが、涼に見つかってしまった。
(与田先輩と話してるから気付かないと思ったのに)
仕方なくもう一度顔だけ涼の方を向く。
「どこって……体育館だけど? 部活あるって言ったでしょ?」
「あぁ確かに君は部活があると言ったね。でも僕はサボればいいと提案したはずだ。その返事をせずに場を離れてしまうなんて酷いじゃないか」
「どっちも却下。三千院はこれから俺と一緒に委員会に出るんだよ」
「はい?」
嵐の言葉に優奈も涼も声を上げた。
(今日委員会があるなんて、聞いてない)
優奈の心を読んだかのように嵐が補足する。
「連絡がいってないだろうから、迎えに来たんだ。さ、行くよ」
「え? な、な、な?」
それだけ言うと、優奈の右手を掴んでさっさと歩きだしてしまった。
その手に引かれ、半ば引きずられるようにして優奈は廊下へ出る。
と、
「待って」
左側の腕を、石橋が掴む。
「三千院から手を放して。これでも俺は急いでるんだ」
切れ長の瞳を細めて嵐が涼を睨む。涼は反応を見せなかった。
「石橋君?」
「あ、あぁ、ごめん」
彼はすぐに優奈の腕を解放した。そして照れくさそうに口元を隠しながら、目を伏せる。
「ちゃんとした理由があるし、相手も与田先輩で、何も問題ないって分かってるのに……なんでかな? 君が僕以外の人間に手を引かれて去っていくのが見るに堪えなかったんだ」
三度周りから甲高い声が上がる。耳を隠し損ねた優奈は、鼓膜を刺激する痛みに顔をしかめた。ふと隣を見ると、嵐はちゃっかり耳を手で押さえて悲鳴の波動を防御している。
「ふぅん、俺もなめられたもんだね」
耳から手を外しながら嵐が、不機嫌そうな顔でそう言った。
「俺だから問題ない、か……それってさ、俺がこの子に何もしないって確信してるってことだよね」
ふわりと香る甘い香り。それが嵐のものだと気づくのに、時間はかからなかった。
――ぎゅっ。
「え?」
気が付くと優奈は嵐の腕の中に閉じ込められていた。
その姿からは想像できない固い胸板。それとアンバランスな女性らしい匂いとサラサラと落ちてくる長い髪。
「優奈」
「……っはい!」
動揺して声が裏返る。それも無理はない――。
(初めて名前で呼ばれた!)
顔を上げると、そこにはとても綺麗で不敵な笑顔があった。
(どうしようっ! 近すぎるっ!)
「好きだよ」
「……………………………………はいっ?」
耳を疑うというのはこういう時にいうのだろう。あまりに予想外で反応が遅れた。
「ちょっ……何言ってるですか! 先輩!」
冗談かと思って嵐の次の言葉を待つけれど、表情は真剣そのもの。撤回してくれる様子はない。
「信じられない? それは俺が女の子の格好をしてるからかな? それとも俺がいままで優奈に厳しく接してきたから?」
「先輩! 三千院を放して下さい!」
優奈と先輩の間に涼が割って入る。
嵐は不機嫌を隠そうともせず涼を睨みつけた。
「邪魔しないで」
「邪魔してるのは先輩の方じゃないですか。本気で三千院のことが好きってわけじゃないくせに」
「そう言い切られるのは不愉快だな。俺は本当に優奈のことが好きだよ。君こそ、本気じゃないんじゃない? いろんな女の子に声をかけてるみたいだし」
「――もう! 二人ともいい加減にしてっ!」
優奈もさすがに我慢の限界だった。
「ここをどこだと思ってるんですか? 廊下ですよ、廊下。ほら見て、こーんなに注目されてるじゃない!」
教室から顔をのぞかせる……なんて程度じゃない。完全に廊下まで出てきて見ている人がほとんどだ。頭にくることに、見物人のほぼ全員がニヤニヤと顔を緩ませて見ていた。
「君たち、これは見世物じゃないよ。用事のない人はさっさと下校しなさい」
嵐の声も、この状況じゃ焼け石に水。嵐と目を合わさないようにするだけで、誰も立ち去る気配はない。
それを見た嵐は軽くため息をついた。
「しかたないね。優奈、周りの人間を人間と思わないで。……そうだね、よく言われるようにかぼちゃとでも思っておけばいい。そうすれば気にならないから」
「いえ、気になります」
「ねぇ優奈。優奈は俺のことどう思う? 好き? それとも……」
「先輩、話を聞いてください!」
(気になるって言ったよね?)
まさかそのまま話が続くとは思わなかった。
「三千院は僕と先輩、どちらを選ぶ? 両方っていうのはなしだよ。そうなると、答えは一つしかないけど、君の口から直接聞きたいんだ」
「い、石橋君まで!」
(なんか……段々と悪化してる気がする!)
「優奈!」
「三千院!」
「……うぅ」
校内トップクラスの美形二人に見つめられ、優奈はいままでの人生の中で一番困惑していた。
これが夢ならどんなに良かっただろう。本当に夢なら覚めないで欲しいと思ったかもしれない。けどこれは現実で、どんなに願っても覚めてくれる気配はゼロ。
混乱の渦に飲み込まれてる優奈を見て、嵐が動いた。
「優奈が決められないのは、俺の覚悟が伝わってないからなんだね。じゃあ、俺は――」
ふぁさっと柔らかな音を立てて、何かが先輩から滑り落ちた。
次に嵐を見たとき、何かが違った。
「俺は完全な男に戻るよ。優奈を手に入れるために」
男だ。
優奈の目の前に居たのは、凛とした美しさを持つ美人ではなく、正真正銘の美形な男の人だった。
「もう一度言うね……好きだよ」
その言葉とともに、唇が重ねられた。