第13話 午後の授業は……
「え~、そんなわけで~、1モルというのはですね~……」
午後の教室に、とてつもなく眠気を誘うのんびりとした感じの声が響きます。
化学の授業中です。
担当の柳原先生はおじいちゃん先生です。
とってもマイペースな授業運びで評判です。
午後の時間にこの授業があると、地獄以外のなにものでもありません。
なぜなら、定期的に抜き打ちで小テストを課せられるからです。
眠気を誘う声で眠気を誘う授業内容を展開されながらも、眠ってしまうわけにもいかないのです。
もちろん、あとで誰かからノートを借りれば問題ないのですが……。
ヤンキーからしっかりとノートを取るように言われている私には、眠るなんて選択肢はありえないのです。
もっとも、そのヤンキーにしても、化学の時間はいつも、眠ったりせず真面目に受けています。
ご年配の方を敬う気持ちが強いらしく、絶対に化学の授業を抜け出したりなんかはしないのです。
だったら並木先生とか担任の浅田先生とかも、年上には変わりないのだから、敬ってしかるべきなのでは、と思うのですが。
単純に、ヤンキーはおじいちゃんっ子なのです。
すなわち、おじいちゃんラブなのです。……いえ、ラブは違いますね、さすがに。
ともかく、そんな柳原先生の授業が続いていました。
目がしぱしぱします。
ヤンキーが起きてノートを取っているなら、私が眠っても大丈夫……なんてわけにもいきません。
ノートをチェックされて板書を写していないことがバレたら、ヤンキーから容赦なくどつき倒されるでしょうから。
それにしても、どうして柳原先生の声はこうも眠気を誘うのでしょう。
相手を眠らせる魔法でも唱えているのでしょうか。
口もとに注目していたら、魔法を詠唱するエフェクトみたいなものが見えたりして……。
そんなおバカなことを考えつつ、柳原先生の唇を凝視していたのですが。
思いもよらなかったものが飛び出してきました。
……いえいえ、おじいちゃん先生だからって、入れ歯が飛び出したとか、そんなことはありませんよ?
というか、もしそうであったら逆に微笑ましいくらいだったでしょう。
入れ歯を飛び出させた柳原先生としては、焦りまくって授業が中断してしまう結果になったかもしれませんが。
柳原先生の口から飛び出していったもの、それは――。
小さくて羽が生えた、なんというか、悪魔のような姿をした物体でした。
しかも、息を吐き出すたびに、無数に散らばっていきます。
ふと気づけば、周囲のクラスメイトの顔に、そんな悪魔たちが張りついていました。
まぶたにぶら下がった悪魔が、自らの体重をかけて目を閉じさせます。
つまりこれは……睡魔ってやつですね!
柳原先生の口から飛び出した睡魔は、まるで空中を泳ぐように渡り、次々と生徒の顔面に着地していきます。
泳ぐように、というよりも、完全に泳いでますね、あれは。平泳ぎですし。
…………もしかして、スイマー……?
そんなダジャレなんて……。
いえ、確かにこの柳原先生は、そういったくだらないダジャレを連発したりもするのですが……。
教室の中を見渡してみれば、もうすでに半数近い生徒が睡魔に負けて眠ってしまっています。
生徒が何人寝ていようともお構いなしに、授業は続いていきます。柳原先生のマイペースさは健在のようです。
睡魔が次に狙ったのは、釘バットでした。
普段は騒がしい釘バットですが、授業中だととっても静かです。
まぁ、眠っている授業が多そうではありますが……。
そんなわけで、釘バットは睡魔に抗うことすらなく、一瞬で寝入ってしまいました。
続く犠牲者は、なんとヤンキーでした。
ヤンキーは化学の授業だけはいつも真剣に聞いています。
そんなヤンキーですらも、睡魔には勝てないようです。
なにやら三つ又のフォークみたいな武器でツンツンされると、あっさり眠りに落ちてしまいました。
ぱたりぱたりとクラスメイトが倒れていきます。
そんな様子を見守るこの私だけが蚊帳の外……なんてはずもなく。
当然のように、私のほうへも睡魔は襲いかかってきます。
ですが、ヤンキーも釘バットも眠ってしまった今、私がノートを取らなかったら確実に怒られます。
デコピン千回の刑が待っているかもしれません。
そんなに多くのデコピン、するほうも大変そうですが。実際に食らった経験もあるため、否定なんてできるはずもないのです。
「おっ、てめぇ、抵抗する気か? 面白れぇ。どこまでもつか、勝負だ!」
目の前に迫った睡魔が、私に宣戦布告してきます。
一方の私は気力を保つだけで精いっぱい、虚勢を張ることすらできません。
どうにか眠らないように懸命に頑張ります。
シャープペンの先を手の甲に押しつけたりまでして、痛みで眠気を吹き飛ばそうとします。
「へっ、やるじゃねぇか。だが……この技に耐えられるかな? 食らえ、スリーピングウェーブ!」
刹那、眠気の大波が私を飲み込もうと迫ります。
目を開けていられないほどの凄まじい圧力……。
私はついに、力尽きてしまいます。
「ぐへへへへ、ようやく落ちたか。最初から素直になっていれば、そんな苦しまずに済んだものを……!」
勝ち誇ったような睡魔の声を聞きながら、私の意識は眠りの渦の底へと沈んでいきました。
睡魔には負けてしまいましたが……。
授業時間は残り少なかったはずです。チャイムが鳴るまで、あと数分程度だったでしょう。
ここまでのノートはしっかり取ってありますし、ほぼ問題ないはずです。
☆☆☆☆☆
「お~い、パシリ~!」
「はっ!」
気づけば私はヤンキーに体を揺すられていました。
すでに休み時間になっているようです。
「おっ、やっと起きましたね、アニキ!」
「そうだな」
寝ぼけまなこでヤンキーを見つめ返します。
そこで、なんだかちょっと違和感……。
自分の額の辺りに手を添えつつ、質問してみます。
「あの……額が痛いんだけど……」
「頭突きで起こしたからな!」
やっぱりです!
「ううう、ひどい……」
と、そんな私を見て、ヤンキーと釘バットは突然笑い声を上げました。
「な……なによ~?」
「にししし! パシリ、思いっきりペンケースの跡がついてます!」
「え~~っ!?」
手鏡を取り出して見てみれば、頬の辺りにくっきりと横線がついていました。
どうやら私は、ペンケースの上にほっぺたを乗せた格好で眠ってしまっていたようです。
しかも、被害はそれだけに留まりません。
「それに、ヨダレも垂れてるな!」
ヤンキーの指摘どおり、ヨダレを垂らしていました。
アゴの辺りについていたヨダレは、軽く拭い取るだけで処理できたのですが……。
机の上に目を向けます。
ノートや教科書……は、どうやら被害を受けていないようでした。
ただ……。
ペンケースの中はヨダレまみれ。想像以上の大量のヨダレによって、筆記用具類が溺れるくらいの勢いでした。
「はう~~~、お気に入りの悪魔ちゃん消しゴムが~~!」
「あ~あ、ヨダレまみれだな! ばっちぃ!」
「ばっちくないよ!」
言い返しながらも、ティッシュで綺麗にヨダレを拭き取ります。
そのままにしておくわけにはいきませんからね。
そういえば、さっきの睡魔……。
辺りを見回しても、影も形もありません。
悪魔ちゃん消しゴムがヨダレで溺れている状態だったせいで、あんな夢を見てしまったとか、そんな感じだったのでしょうか。
「ところでパシリ。ノートはしっかり取ったのか?」
「あっ、うん、バッチリだよ! 最後ちょっとだけ寝ちゃったけど、九割くらいは写したし、あとは黒板に残ってる部分を書き写せば……」
大丈夫、と言おうとして、私の声はぴたっと止まります。
今日の分のノートが、真っ白だったからです。
「……ほほ~? この真っ白いのが九割か~?」
「いや、その、あれ~? 変だな~?」
もしかして……。
ノートに書き写していた記憶部分まで含めて、全部夢だったの……!?
さーっと血の気が引きます。
「パシリ!」
「はい……」
「デコピン1万回の刑だ!」
「ぎゃ~~~~! 想像の十倍~~~~!」
こうして、頭突きで赤くなっていた額に、容赦なくデコピン連打が開始されてしまうのでした。




