0-2Cat Can Call?
それは突然の出来事であった。
その時の状況を説明しろ、と言われても明希にはきちんと答える術がない。なにしろあっという間に視界が黒くなったのだ。
その日の夕方、明希は通学鞄を持って電車を降りた。部活帰り特有の倦怠感が体を包んでいた。
午前中には塾があったせいで鞄の中には勉強道具。高校生になった今、大学受験に向けて真剣に考えて行かなければならない時期だ。
そして、それはあと一歩で玄関というところだった。
ちょうど扉の取っ手に手を伸ばしたまさにその時、上下感覚がおかしくなったように明希の視界はひっくり返った。
そして、あっという間にプツリと電源を切ったかのように目の前が黒に覆われ、それはまるで体のすべての器官が一遍に活動を止めたとでもいうように、意識が途切れた。
慌て伸ばした手は、虚空を掴んだ。
それこそ一瞬の出来事だった。これ以上説明のしようがない。
どこかで読んだ物語のように神様が出てくるわけでもなく、追われる身となって逃走劇を繰り広げるのでもない。
巫女でも勇者でも魔王でもない。
ただ起きたら質素な(といっても十分ひらひらした)寝巻きに身を包んで、子のいない老夫婦が神に授かった少女としての人生を歩んでいた。
迷信を信じた憐れな老夫婦の養子だ。
───只の世間知らずな貧乏貴族の娘
よくよく考えると、神が授けて下さったなどと言って不自由なく生活していることに驚くべきだ。
これだって全くありがちな物語。全く、偶然は起こるものか。
もちろん最初は怖かった。夜に独りで泣いたりした。
しかしそんな時期はとうに過ぎているのだ。
むしろ今はよくある王宮のドロドロ、いやデロデロに巻き込まれなくて済むことに明希は感謝していた。
美形含め、ああいうものは安全地帯から眺めるのが一番だ。……まあ、田舎の貧乏辺境伯がそれにお目にかかれるかどうかは別として。
何はともあれ“お茶の時間”を除けば、明希は十分快適と言える生活を送っていた。
その時、老婦人の言葉に上の空で相槌を打つ明希の耳に、気取ったようなソプラノが響いた。
「まーたやってるゥ。嫌なら断っちゃえばいいのにィ」
明希は思わずびくりと肩を揺らした。誰かいるのだろうか?侍女にしては不遜な物言いだ。
と、老婦人が目を細めて微笑んだ。
「あら、猫ちゃんだわ。……猫なんて飼っていたかしら?」
そこには白くしなやかな体の猫が優雅に歩いていた。
「はァア?あんたに飼われた覚えなんてないわよォ」
猫が喋った?いや、猫が話すなんてあり得ない。
しかし、猫の口が動くと声も響く。明希が拭いきれぬ違和感に混乱する中、老婦人は至って平静だ。明希は微かに眉根を寄せた。
喋るだなんて──
……気のせいだ。猫は喋らない。
「……すみません。懐いてしまって」
「いえいえ、いいのよ」
その猫は丁度一昨日ごろやって来たのだ。
そう、只の猫。話すはずがない。たまたま余っていたクッキーをやったのだが、それで居着くようになったのかもしれない。
あくまで、只の猫なのだ。
「お嬢様、旦那様が書斎でお待ちです」
取り次ぎに来た侍女と話し込んでいたアナマリアが申し訳なさそうに明希に声を掛けた。お茶の時間を邪魔してしまったことを後ろめたく思っているようだ。
明希にとっては嬉しい──毎回礼儀作法について間違っていないかびくびくするから──のだが
「分かりました」
そう言って立ち上がった明希は既に白い猫の事など頭の隅に追いやっていた。──そう、喋る猫なんて居るわけがない。只の空耳だ。