夫以外の義家族に溺愛されております
夫以外の義家族に溺愛されております
夫のロランが三年ぶりに帰ってきた朝、義母は私の皿に焼きたてのパンをもう一枚置いた。
「昨日も遅くまで帳簿を見ていたでしょう。卵も食べておきなさい」
義父は新聞を畳み、蜂蜜の瓶を私の前へ寄せた。義妹のアニエスは、私が編んだ薄緑色の髪紐を指で整えている。
「午後は街へ買い物に行きましょう、お義姉様。新しいリボンを見たいの」
「いいわね。帳簿を片づけたら一緒に行きましょう」
そんな話をしていたところへ、食堂の扉が開いた。
ロランは旅装のまま、入り口に立っていた。磨かれた長靴には王都の乾いた泥がついている。その後ろには、赤い外套の若い令嬢が控えていた。
ロランは誰に声をかけるでもなく、私の向かいの椅子を引いた。
「紹介する。フローラ・ベルナール男爵令嬢だ」
フローラは小さく頭を下げたが、席には着かなかった。ロランの椅子の背に手を添え、私を見ている。
彼は給仕が置いた紅茶にも手をつけず、こちらをまっすぐ見た。
「セシリア、離婚してほしい。私はフローラを愛している」
義母の手が止まった。皿に載せようとしていた卵が、銀の匙の上で揺れている。義父は新聞を畳み、アニエスは髪紐から手を離した。
私はパンに塗りかけていた杏のジャムを端まで伸ばし、ナイフを皿の右側へ置いた。
「承知いたしました」
ロランは、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「話が早くて助かる。今日中に荷物をまとめてくれ。実家には私から説明しておく」
「荷物をまとめるのは、あなたのほうでしょう」
義父の声に、ロランが顔を上げた。
「父上、何をおっしゃっているのです」
「離婚するのだから家を出ろと言いたいのだろう。だが、出ていくのはお前だ」
義父は眼鏡を外し、胸元の布でレンズを拭いた。義母は卵の皿を私の前に置き、それから隣の席へ腰を下ろした。
「母上まで、どういうことですか」
「三年間、あなたはこの家に帰らなかったわ。手紙は誕生日に一度だけ。領地の報告にも目を通さず、送金の催促だけは毎月届いた。今さら、この家にどんな用があるの?」
ロランは口を開いたが、言葉は出てこなかった。
義父が家令に目配せをすると、家令は革鞄から三通の書類を取り出し、テーブルへ並べた。
「お前が王都で作った借金の一覧だ。次は領地の金を私的な晩餐会に流用した記録。そして、これが国王の認可状だ」
ロランの視線が、三通目の印章に止まる。
「認可状……?」
「お前が王都へ出て一年目、後継者を替える申請をした。二年目に調査が始まり、先月、認められた」
「誰に替えたのです」
義父は私を見た。
「次の当主はセシリアだ」
ロランの手がテーブルにぶつかり、紅茶が受け皿にこぼれた。
「冗談でしょう。セシリアは私の妻です。離婚したら、この家とは関係がなくなる」
「二年前、私たちはセシリアと養子縁組をしたのよ」
義母が静かに言った。
「あなたが冬至祭にも帰らなかった年ね。私が肺炎で寝込んだとき、セシリアは十日間つきっきりで看病してくれた。熱が下がった朝、私から娘になってほしいとお願いしたの」
「そんな話、聞いていない!」
「手紙を出しましたよ」
アニエスが席を立ち、食器棚の引き出しから紐で束ねた手紙を持ってきた。封筒は擦れていたが、赤い封蝋には開封された跡がない。
「お兄様から返事があったのは、王都で使うお金を増やしてほしいという一度だけです」
ロランは手紙の束を見つめた。それでも、手を伸ばそうとはしなかった。
私はパンを皿に置いた。
離婚を告げられたのだから、指輪を外して荷物をまとめる。それが筋なのだろう。けれど、目の前の書類を、私の居場所を守るための道具にしたくはなかった。
「お義父様、お義母様。私が後継者になったことと、離婚のことは別です。ロラン様もお戻りになったばかりですし、まずはご家族で話し合っては……」
「セシリア」
義父は、私の言葉をさえぎらず、穏やかに呼んだ。
「私たちは三年間、話し合う時間を待った。だが、お前の夫は帰らなかった」
彼はロランへ目を向ける。
「凶作の村へ種麦を手配したのはセシリアだ。崩れた橋の修繕費を組み直し、冬を越せない羊飼いに空き家を貸したのもこの子だ。お前は、その間、何をしていた?」
「王都で人脈を築いていました」
「借金以外に持ち帰ったものがあるなら、見せてみなさい」
ロランは黙った。フローラも、彼の横顔を見つめたまま何も言わない。
「セシリアが役に立つから、後継者にしたのですか」
ロランの声は、さっきより低くなっていた。
「違います」
答えたのはアニエスだった。
「私が婚約者に騙されたとき、朝まで一緒にいてくれたのはお義姉様です。お母様が眠れない夜には本を読んで、お父様が甘いものを食べすぎたら台所に頼んで砂糖を隠してもらう。お兄様は、私の好きな花の名前だって知らないでしょう」
「家族というのは、役に立つ人を残すための仕組みではないわ」
義母は、私の冷めかけた紅茶に温かい茶を注いだ。
「一緒に食事をして、病気のときには水を運び、間違えたときには叱る。セシリアはもう、私たちの娘です。あなたが夫でなくなっても、何も変わらない」
膝の上で握っていた左手を、ゆっくり開いた。
指輪を抜くと、薬指に細い跡が残っていた。私はそれをテーブルに置いた。義母が私の手を取り、親指で赤くなったところをそっと撫でる。
「セシリア。あなたはどうしたい?」
昨夜まで、離婚したあとの暮らしを考えたことはなかった。いつか夫が帰ってきたら、二人で領地を支えるのだと思っていた。
けれど、夫がいなかった三年間にも春は来た。麦は育ち、食堂には毎朝パンの匂いが満ちた。私はこの家で、誰かの妻である前から、誰かの娘であり、姉であり、家族だった。
「私は、この家に残りたいです」
義父が深くうなずいた。アニエスは私の肩に腕を回し、義母は冷めた卵を厨房へ下げるよう給仕に頼んだ。
ロランが椅子から立ち上がる。
「実の息子より、他人を選ぶのですか」
義父は、彼をまっすぐ見た。
「三年間、家族から離れていたのはお前だ」
それから家令に向き直る。
「王都の屋敷は売却し、借金の返済に充てる。残った金と、お前個人の財産は渡そう。爵位も領地も継がせるつもりはない」
フローラは外套の襟を直し、ロランから半歩離れた。愛していると言った男性に爵位がないと知って、彼女の顔から笑みが消えていた。
けれど、それは私が口を出すことではない。
二人が食堂を出ると、家令はロランの使った椅子を壁際へ下げた。給仕が新しい卵料理を運び、義父は新聞を開き直す。義母は私のパンにチーズを三枚載せた。
「お義母様、さすがに多すぎます」
「今日は離婚記念日ですもの」
「そんな記念日、聞いたことがありません」
「今、作ったのよ」
アニエスが笑い、杏のジャムを自分のパンにたっぷり塗った。義父も新聞の陰で肩を揺らしている。
私は温め直された紅茶を飲んだ。窓から差し込む朝日が、指輪の跡を照らしていた。
夫はいなくなった。
けれど、食卓には私の椅子が残っていた。




