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変わらない想いの先に  作者: ミルハ


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小さな勇気と揺れる心

彩心、琴音、健人の三人で他愛ない話をしていると、教室の扉が開く音がした。

その気配に、彩心の胸がきゅっと鳴る。

視線を上げると、そこにいたのは——やはり慧だった。


(…今だよね。)


喉が少しだけ渇く。

それでも彩心は、胸の鼓動を押さえるように指先を握りしめ、勇気を振り絞った。


「お、おはよう…」

ほんの小さな声だった。

けれど、その一言に、空気が一瞬止まる。


琴音と健人が同時に振り向き、目を見開いた。

慧もわずかに驚いたように瞬きをしたあと、すぐに表情を緩める。


そして、少しだけ照れたように、柔らかく笑った。

「…おはよう、彩心ちゃん。」 


——ぶっ。

健人が飲んでいたお茶を盛大に吹き出す音が響く。


彩心は一瞬遅れて、自分が何と呼ばれたのかを理解し、顔が一気に熱くなった。


「…っ」

何も言えず、俯く。

頬がじんじんするのが、自分でもわかる。


隣では琴音が、口元を押さえながら、にやけるのを必死に我慢していた。

目だけはきらきらと輝いていて、楽しそうなのが一目でわかる。


慧は頭を掻き、少し気恥ずかしそうに視線を泳がせる。


「ご、ごめん。前から思ってたんだ…」

一度言葉を切ってから、照れ隠しのように続けた。

「彩心って、すごくいい名前だなって。 だから…彩心ちゃんって、呼んでもいい?」


その問いかけは、思っていたよりもずっと優しくて。

彩心の胸に、ふわりと温かいものが広がる。


「…うん。」

かろうじて絞り出した声は、小さく震えていた。


「ひゅ〜!」

琴音が我慢できずに声を上げる。


健人は顔をしかめ、わざと興味なさそうに廊下の方へ視線を逸らした。


その様子を横目に、彩心はもう一度、深く息を吸う。

今度は、逃げない。


「わ、私も…」

一瞬、躊躇ってから、意を決したように続けた。

「慧くんって、呼んでもいい…?」


“慧くん”。


その呼び方が教室に落ちた瞬間、健人の目が、ほんの一瞬だけ細められた。


慧は少し驚いたように目を瞬かせ、それからぱっと、心から嬉しそうに笑う。

「うん、もちろん!」


ちょうどそのとき、チャイムが鳴った。

慧は名残惜しそうに手を軽く振り、自分の教室へと戻っていく。


「彩心、すごーい!」

琴音が一人で大はしゃぎする中、彩心は自分の言葉を思い返して、耐えきれなくなり、そっと机に顔を伏せた。


胸の奥が、まだ熱いままだった。


***


その日の放課後。

彩心と琴音は、視聴覚室でクラリネットの練習をしていた。

譜面台の前で音を重ねながら、窓の外から微かに届く掛け声が、休符の合間に耳に入ってくる。


ふと、窓際に立った琴音が身を乗り出した。

「…あ、見て。慧くんだよ。」


その一言に、彩心の指が一瞬止まる。

思わず楽器を下ろし、琴音の隣へ駆け寄った。


校庭では、サッカー部の掛け声が響いていた。

その中で、慧が汗を光らせながらボールを追い、勢いよく蹴り出す。

真剣な表情と、仲間に向ける笑顔が、やけに眩しい。


教室で見せる、穏やかで少し照れたような笑顔とはまるで別人だ。

声をかければ優しく返してくれる、あの慧が、今はこんなにも遠く、力強く見える。


(…同じ人、なんだよね。)


そう思うだけで胸がきゅっとして、鼓動が早くなる。

知らなかった一面を覗いてしまったようで、彩心は視線を逸らせなくなっていた。


「てか、なんで琴音まで慧くんって呼んでるの?」

彩心がくすっと笑うと、琴音もつられて笑う。


「かっこいいね…」と琴音が呟く。


「…うん。」

彩心も、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じながら頷いた。


そのときだった。

慧のもとへ、マネージャーらしき女子が駆け寄ってくる。

差し出されたタオルを受け取り、二人は楽しそうに言葉を交わす。

そして、流れるような仕草で、軽くハイタッチ。


——ドクン。


慧の笑顔が、その子に向けられた瞬間。

胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。


すらりとした体型。

整った顔立ち。

自分とはまるで違う、眩しい存在。


「…やっぱり。」


(私なんかより、ずっとお似合い…)


舞い上がっていた気持ちが、すっと冷えていく。

名前で呼ばれただけで、あんなに嬉しくなっていた自分が、急に恥ずかしくなった。


慧くんにとって、私は——

大勢いる女子の中の、一人にすぎない。

そう思った瞬間、息が詰まりそうになる。


肩に、ぽん、と軽い衝撃。

琴音の手だった。


「何落ち込んでるの?」

いつもの調子で言いながらも、声は優しい。

「あの子、マネージャーでしょ。あんなの、普通だって。」


「でも…」

彩心は視線を伏せたまま、小さく首を振る。

「あの子、すっごい綺麗だし。私なんか敵わないよ。」


視線を外し、楽器に向き直る彩心。

音を出そうとするけれど、胸がざわざわして息がうまく入らない。


「彩心…」

琴音は心配そうに彼女を見つめた。


——それは、彩心の心に、初めて静かに芽生えた嫉妬という感情だった。

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