心に落ちた言葉
『可愛い…』
『青山さんって、怒ってても可愛いなって思って…』
あのときの慧の言葉が、どうしても頭から離れなかった。
何度も忘れようとするのに、ふとした瞬間に、耳の奥で再生される。
こんな気持ち、初めてで、なんだか落ち着かない。
放課後。
視聴覚室には、クラリネットパートの部員だけが集まっていた。
チューニングの音が控えめに響き、柔らかくも澄んだ空気が漂う。
譜面台の前に立ち、彩心はクラリネットを構える。
深く息を吸って、音を出す。
——けれど、指が思うように動かない。
キーを押さえる感覚がどこかぎこちなくて、少し気を抜いた瞬間、リードの音が掠れてしまった。
「…っ」
小さく息を整えようとした、そのとき。
「彩心、どうしたの?」
隣で同じ譜面を覗き込んでいた琴音が、眉をひそめる。
「音、さっきから不安定だよ。もうすぐコンクール近いんだから。」
「ご、ごめん…」
彩心はクラリネットを下ろし、視線を落とす。
「ちょっと、考え事してた。」
「ふーん?」
琴音は口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「何、考えてたの?」
「な、なんでもない…」
必死にごまかしながらも、彩心の胸の内には慧の声が響き続けていた。
男子から“可愛い”なんて言われたのは初めてかもしれない。
しかも、それがあの一ノ瀬くんから——
(でも…彼は優しいから、きっと他の女子にも同じように言ってるんだよね。)
そう思おうとするのに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを止められない。
——やっぱり、嬉しかった。
帰宅後、布団にくるまって目を閉じても、譜面の音符より先に、慧の言葉が浮かんでくる。
思い出すたびに頬が熱くなって、それでもどこか安心したような気持ちになって。
静かな幸福に包まれたまま、彩心はいつのまにか、夢の中へと落ちていった。
***
次の日。
教室の扉がゆっくり開く。
彩心は思わず息を呑んで目を向けた。
(…一ノ瀬くん?)
胸が高鳴り、鼓動が耳まで響く。
——入ってきたのは、まさに慧だった。
思わず彩心は慌てて顔をそむける。
頬が熱くなり、言葉も出ない。
「またお前かよ。」
健人の呆れた声が教室に響く。
彩心の心臓は、期待と動揺でまだドキドキしたままだった。
彩心は、ふと昨日、慧から言われた言葉を思い出した。
『青山さんって、怒ってても可愛いなって思って…』
胸の奥がじんわり熱くなり、頬が真っ赤に染まる。
昨日のことを思い出して胸が熱くなる彩心をよそに、慧は迷うことなく笑顔を向けてきた。
「青山さん、おはよう。」
まるで、それが当然のことのように。
彼女に会いに来たことを、隠す様子もなく。
彩心は一瞬固まってから、慌てて返す。
「お、おはよう…」
「おいおい、俺のことは無視かよ!」
健人があきれた顔でツッコミを入れる。
慧は軽く笑って「よう、健人」と言いながらも、視線はやっぱり彩心に戻っていた。
「…なんだよ、俺はオマケかよ。」
健人がぼやき、わざとらしく肩をすくめる。
「というか、慧、青山はやめとけ。こいつと関わるとバカがうつるぞ。」
「なっ…!」
彩心は顔を真っ赤にして睨み返す。
「あんたに言われたくない!」
そんな二人のやり取りを見て、慧はくすりと笑った。
そして、まっすぐ彩心の目を見つめながら言う。
「そんなことないよ。青山さんと、もっと仲良くなりたいな…」
普段はあまり言葉にしない慧だが、彩心を目の前にすると自然に口から言葉が溢れ出てしまうようだった。
あまりにストレートな言葉に、彩心も健人も息を呑んだ。
彩心は思わず俯き、頬を赤く染める。
胸の奥がざわつき、心臓が跳ねるのを感じる。
一方、健人は慧の表情をじっと見つめる。
普段の軽やかな笑顔の奥に、彩心に向けた真剣な眼差しを読み取り、一瞬、鋭く警戒するような目つきに変わった。
教室には、わずかにざわめきが残るだけで、一瞬の沈黙が訪れる。
健人は眉をひそめ、何か言おうか迷ったが、結局口をつぐむ。
彩心はその間、視線を下に落とし、胸の高鳴りを感じながらじっとしていた。
「…あ、今日、俺ら日直じゃん!」
空気を変えるように健人が言った。
「青山、一緒に黒板消すの手伝えよ。」
「あっ…そうだった。」
彩心は、はっとしたように瞬きをする。
慧の言葉が胸の奥でまだ余韻を残したままなのに、急に現実の音が戻ってきた気がした。
それは、少し拍子抜けしたような、それでいて名残惜しいような感覚だった。
「慧、悪いな。ちょっと今は忙しいから、またあとで!」
健人はそう言って、ちょっと強引に彩心の腕を引いて連れていく。
「ちょっ…!」
不意に強く引かれて、彩心は思わず声を上げる。
「い、痛いよ!」
その様子を、慧は心配そうに見つめる。
思わず声をかけそうになって、けれど言葉を飲み込み、少し戸惑ったように口を開く。
「お、おう…」
名残惜しそうに頷いた。
ほんのわずかな時間でも、彩心の傍にいられたことが嬉しくて、その余韻を手放すのが惜しいようだった。
「じゃあ、またね、青山さん。」
その声は、どこか切なさを帯びていて、彩心の胸に静かに染み込んだ。
「…またね。」
彩心は小さく、ほとんど息に紛れるように答える。
自分でも驚くほど、その一言に想いがこもってしまって、言い終えたあと、胸の奥がじんと熱くなった。
その二人の空気を、健人は黙って見ていた。
口元にはいつもの軽い笑みを残したまま、けれどその奥で、ほんの一瞬だけ表情が曇る。
理由はうまく言葉にできない。
ただ、胸の奥に小さな棘のような違和感が引っかかって、冗談で流せなくなりそうな気配を感じていた。
誰にも気づかれないように、健人は視線を逸らす。
けれど、そのもやもやは消えず、静かに胸の内に広がっていくのだった。




