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変わらない想いの先に  作者: ミルハ


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26/29

音色に込めた未来

彩心の受験を控えた前日。


午後の光が、教室の窓から斜めに差し込んでいた。

黒板の端には、次の授業の板書がまだ消されずに残っている。

机の上には開きっぱなしの楽譜と、筆箱と、少し飲みかけのペットボトル。

いつもと同じ教室なのに、今日だけは空気が少しだけ違っていた。


ざわめきの中で、仲間たちは彩心を囲んでいた。


「彩心ならできるよ!大丈夫。」

琴音がいつもの明るい声で笑い、親友の肩をぽんと叩く。

その手の温もりが、現実に引き戻してくれる。


「お前のクラリネットの腕前なら、絶対大丈夫だ!」

健人は腕を組み、力強く言い切った。

迷いのない声だった。


二人の言葉が、背中をそっと押してくれる。

胸の奥で固まっていた緊張が、少しだけ緩む。


「…ありがとう。」


彩心はぎこちなく笑った。

笑顔を作ることはできる。

でも、指先はまだ冷たい。


音大という狭き門。

何年もかけて積み重ねてきた努力。

けれど、結果は明日で決まる。


教室の外では運動部の掛け声が聞こえる。

世界はいつも通り動いているのに、自分の時間だけが止まっているような感覚。


そのとき、慧が一歩前に出た。

教室のざわめきが、ほんの少し遠のく。


慧は迷いなく彩心の前に立ち、その両手をしっかりと握った。

温かい。


「彩心、自信持って。」

まっすぐな声。


「俺も、みんなも応援してるよ。」

その言葉は、励ましというより宣言に近かった。

揺らがない確信のようなものが、そこにあった。


彩心を少しでも安心させたい。

ただそれだけが、慧の想いだった。


胸の奥に、じわりと温かさが広がる。

さっきまで重かった空気が、少し軽くなる。


「…ありがとう。みんなが応援してくれるから、心強いよ。」


もし、だめだったら——


その先の未来は、まだ思い描けない。

怖くないと言えば嘘になる。


でも。

挑戦しなければ、きっと後悔する。

結果よりも、この場所から一歩踏み出すことのほうが、今は大事だと、彩心は思った。


彩心は、慧の手をぎゅっと握り返す。


「私も…慧みたいに頑張りたい。」


慧は柔らかく微笑んだ。

けれど、その瞳は真剣だった。


「うん。悔いが残らないように、全力で挑んできて。たとえ明日どんな結果になっても、それで彩心の価値が変わることはない。俺は、彩心の音を信じてる。」


——信じてる。

その言葉は、小さなお守りのように胸の奥へ落ちていった。


明日、どんな結果になったとしても。

この教室で受け取った想いだけは、きっと揺らがない。


***


そして、受験当日。


冬特有の澄みきった青空が広がっていた。

けれど空気は鋭く、頬に触れる風は冷たい。

吐く息が白く溶けていく。


昨日、仲間に励ましてもらった。

笑って、背中を押してもらって、あんなにも温かかったのに——


いざこの朝を迎えると、胸の奥に潜んでいた不安が静かに顔を出す。

緊張で喉はからからに乾き、今朝は何も喉を通らないまま、家を出た。


でも。


この震えは逃げたいからじゃない。

本気で挑もうとしているからだ。

そう思うと、不思議と少し誇らしかった。


会場へ向かう途中、彩心は制服のポケットにそっと手を入れる。

指先が触れたのは、小さなブローチ。

慧がくれた、あの日の約束のような贈り物。

冷たい金属の感触が、ゆっくりと体温を帯びていく。


(大丈夫。慧が、みんなが待っててくれてる。)


ぎゅっと握りしめる。

胸の奥へ、静かに勇気を流し込む。


『俺は、彩心の音を信じてる。』

昨日の声が、はっきりと思い出される。

まるで、本当に隣に立っているみたいに。


***


音大の試験会場は、凛とした緊張に包まれていた。


廊下には楽器ケースを抱えた受験生たち。

控え室からは、かすかなロングトーンや指慣らしの音が漏れてくる。

誰もが自分の世界に入り込んでいる。


彩心が受けるのはクラリネット専攻。

課題曲と自由曲の演奏。


控え室で最後に音を確かめる。

低音は安定している。

高音も、震えていない。


「受験番号〇〇番、青山 彩心さん。」

名前を呼ばれた瞬間、時間がゆっくりになる。


試験室に入ると、審査員たちが静かに座っていた。

無言の視線。

張り詰めた空気。


深呼吸をひとつ。

肺いっぱいに吸い込んだ空気は冷たく、でも、その冷たさが逆に意識を研ぎ澄ませる。

クラリネットを構える。


最初は、C. M. ヴェーバー《クラリネット協奏曲 第1番 ヘ長調 作品73》第1楽章 冒頭。


華やかで技巧的な旋律。


最初の一音。

——鳴った。


澄んだ音が、空間を真っ直ぐに切り開く。

そこから先は、音に身を委ねるだけだった。

一音一音に神経を集中させながらも、流れを止めない。

指先は自然に動き、音は思ったよりも伸びやかに響く。


緊張は消えていない。

でも、震えはもうない。


次は自由曲。

サン=サーンス《クラリネットソナタ 変ホ長調 作品167》第1楽章。


この曲は、彩心の心そのものだった。


柔らかな旋律に、これまでの時間を重ねる。

仲間と笑い合った日々。

慧と交わした約束。

迷いながらも、前を向いてきた自分。


『彩心ならできるよ!大丈夫。』


『お前のクラリネットの腕前なら、絶対大丈夫だ!』


『俺は、彩心の音を信じてる。』


仲間たちの言葉を胸に、音をそっと乗せる。

音楽は、嘘をつかない。


最後のフレーズを吹き終えたとき、空気がふわりと変わった気がした。


ほんの一瞬の静寂。

やがて、審査員の一人が静かに頷く。


「結構です。」

その一言が、遠くから聞こえる。


(…やり切れた。)


大きな成功の確信ではない。

でも、逃げなかったという確かな手応え。


深く一礼し、部屋を出る。

扉が閉まった瞬間、全身から力が抜けた。

足が小さく震える。


冷たい廊下の空気が、今度はやけに優しく感じられた。


ポケットの中のブローチを、もう一度そっと握る。


結果は、まだわからない。

けれど。

“彩心の音”は、ちゃんとそこにあった。


***


そして、合否発表の日。


空は重たい冬の曇り空。

光はあるのに、どこか色を失っている。


この日まで、彩心は何度も夜中に目を覚ました。

演奏の場面が夢に出てきては、「あの音は大丈夫だっただろうか」と思い返す。


ついに、今日。

すべてが決まる。


期待がないわけじゃない。

でも、それ以上に不安が胸を占めていた。


彩心はスマホを握りしめる。

指先が冷たい。


大学の合否ページを開く。


「ログインしてください」

たったそれだけの文字が、やけに無機質で、冷たく見えた。


心臓が強く跳ねる。

鼓動が耳の奥で鳴っている。


深呼吸。


一文字ずつ、パスワードを入力する。

読み込み中のわずかな時間が、永遠のように長い。


――画面が切り替わる。

そこにあったのは。


「合格」

たった二文字。

けれど、世界が一瞬で反転した。


頭が真っ白になる。

理解が追いつかない。


(…え?)


視界が揺らぐ。

涙が、遅れて込み上げてくる。


「…うそ、ほんとに?」

声が震える。


スマホを抱きしめるように胸に引き寄せる。

涙がぽろぽろと落ちた。


次の瞬間。


「やったな!彩心!」


「きゃーー!!彩心、おめでとう!」

健人の大きな声と、琴音の歓声。

琴音が勢いよく抱きついてきて、現実に引き戻される。


その賑やかな輪の少し外側から、誰かがゆっくりと近づいてくる気配がした。


ふっと。

彩心の視界の端に、沙希の姿が現れる。


大きくはしゃぐでもなく、騒ぎの熱を壊さないように、そっと歩み寄る。

そして、彩心の目の前に立った。


「本当におめでとう。」

穏やかな微笑み。

その声は小さいのに、まっすぐに届く。


まさか、こんなふうに祝福してくれるとは思っていなかった。

一瞬、驚きで言葉を失う。


それから、少しだけ照れくさくなって――

「…ありがとう。」

素直にそう言えた。


そして。

慧が一歩、前に出る。

周囲の声がすっと遠のく。


まっすぐに、彩心を見る。

その視線は、受験前と同じ。

いや、それ以上に温かい。


そっと、手を握る。


「おめでとう。」

短い言葉。

でも、そこに全部が込められていた。


「彩心ならできるって、信じてた。」

一度、息を吸ってから続ける。


「彩心の音には、人の心を優しくほどく力がある。これから先、きっとたくさんの人の心を温めるよ。」

慧の声は、静かで確信に満ちていた。


彩心の胸が、きゅっと締めつけられる。


「慧、ありがとう…」


涙が止まらない。


「慧のおかげで、私、頑張れたんだよ。」

震える声で、やっとそれだけ言えた。


慧は微笑み、そっと彩心の頭を撫でる。

その手のぬくもりが、受験の日から今日まで胸に溜め込んでいた不安を、すべて溶かしていく。


もう、大丈夫だと。

身体が先に理解した。


曇っていた空の向こうに、微かに光が差した気がした。


***


そして、それぞれの進路が決まった。


健人は地元の大学の教育学部へ。

子どもたちの前に立つ自分を思い描きながら、少し照れくさそうに笑った。


琴音も地元の文学部に合格。

「言葉で誰かを支えられる人になりたい」と、まっすぐな目で語る。


沙希は東京の国公立大学へ。

彩心と同じ街に出ると決まりながらも、その表情はどこか静かで、覚悟を秘めていた。


そして慧は、すでにイギリスへの留学を控えている。

遠い空の下で、新しい世界に身を置く準備を、着々と進めていた。


それぞれが、自分で選んだ道。

交わる場所は少しずつ変わっていくけれど、誰ひとり立ち止まってはいない。

未来は確かに、拓かれていた。


不安がないわけじゃない。

知らない街、知らない日々、離れていく距離。

けれどそれ以上に、胸の奥には、期待と希望が静かに灯っている。


笑い合う時間は、変わらずそこにあるのに——

ふとした瞬間、「あと、何回こうして集まれるだろう」と誰も口にしない問いが、胸の奥をかすめる。


別れのカウントダウンは、いつのまにか、静かに始まっていた。


それでも今はまだ、誰も振り返らない。

前を向いたまま、それぞれの春へと歩き出そうとしていた。

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