信じる心の旅立ち
慧が挑んだイギリスの大学の筆記試験は、想像以上の難関だった。
世界各国から集まる受験者の中で、日本からの合格枠はわずか。
高度な英語読解、時事問題を絡めた論述、論理的思考を問う記述式問題——
一瞬の迷いが命取りになる試験だった。
何度も過去問を解き、夜遅くまで英語のニュースを聞き続け、自分の意見を何度も書き直した日々。
「これで本当に通用するのか」と不安に押し潰されそうになりながらも、それでも挑み続けた。
その筆記試験を、慧は突破した。
そして、次はいよいよ最終選考——
現地での面接。
今日、日本を発ち、イギリスへ向かう。
***
朝の空気はひんやりと張り詰めていた。
冬の光が、ガラス張りのターミナルを白く照らしている。
成田空港の出発ロビーは、旅行客やビジネスマンで賑わっていた。
スーツケースの車輪が床を転がる音。
断続的に流れる英語と日本語のアナウンス。
コーヒーの香りと、どこか慌ただしい足音。
その中で、彩心たちは落ち着かない様子で立っていた。
出発案内の電光掲示板に並ぶ“London”の文字が、やけに遠く感じる。
しばらくして——
人混みの向こうから、背筋を伸ばした慧が歩いてきた。
黒いコートに身を包み、いつも通り落ち着いた足取り。
けれど、その手に握られたパスポートと搭乗券を持つ指先に、わずかな力が入っているのを、彩心は見逃さなかった。
瞳の奥にある、静かな緊張。
大きな挑戦を前にした人間だけが持つ、あの澄んだ光。
「…やぁ。来てくれてありがとう。」
穏やかに微笑む。
その声は落ち着いているのに、ほんのわずかに呼吸が浅い。
「慧…頑張ってね。」
彩心はそう言った瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
涙が滲む。
それは、寂しさからではなかった。
慧がどれだけ努力してきたか、どれだけこの試験に人生を賭けているか、知っているから。
その緊張も、不安も、全部感じ取ってしまう。
慧は一瞬驚いたように目を見開き、それから、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫だよ。」
短い言葉。
けれど、そこには迷いのない覚悟があった。
横で見ていた琴音が、ふっと優しく笑った。
そっと彩心の肩を軽く叩く。
「彩心が泣いてどうするの。慧くんなら絶対大丈夫だから。だから今は、笑顔でね?」
健人も笑いながら頷く。
「そうそう。慧は落ち着いてるのに、なんで彩心が一番取り乱してんだよ。」
さらに沙希まで口を挟んだ。
「慧の方がよっぽど不安なのよ。だから、あなたは泣き顔なんか見せないで、ただ信じて。それが慧の力になるんだから。」
彩心は慌てて涙を拭い、顔を赤らめながら笑った。
「そ、そうだよね。ごめん…慧なら大丈夫だよ!私、信じてるから。」
慧は安心したように目を細め、「ありがとう」と穏やかな笑顔を見せた。
そしてふと、彩心の頬に残る涙に気づく。
ポケットからハンカチを取り出し、そっとその雫を拭った。
ハンカチ越しの柔らかな感触に、彩心の胸がふっとほどける。
「ほら、笑って。」
柔らかな声とともに、慧はほんの一瞬だけ彩心の頬にそっとキスを落とした。
周囲のざわめきが遠のく。
彩心の胸を締めつけていた不安が、ゆっくりとほどけていく。
温かな温もりが、じんわりと広がった。
——大丈夫。
そのキスは、別れのしるしではなく、帰ってくる約束のしるしのようだった。
彩心は小さく息を吸い、今度こそ本当の笑顔を浮かべる。
搭乗案内のアナウンスが流れる。
現実が、静かに動き出す。
慧は一人ずつに視線を向け、最後に彩心を見つめた。
「…じゃあ、行ってくる。」
「…いってらっしゃい。」
ガラス越しに遠ざかっていく背中。
人波に紛れながら、それでもまっすぐ前を向く姿。
ロンドン行きの文字が点滅する。
——そして、慧は日本を発った。
冬の光の中で、飛び立つ飛行機が小さく空へ溶けていく。
***
彼がいない数日間、彩心の心はそわそわと落ち着かなかった。
たった数日間。
それでも、慧のいない時間は思った以上に長く感じられる。
放課後、校門を出るとき。
ふと、隣に並ぶはずの背の高さを思い出してしまう。
教室の扉が開く音が聞こえるたび、反射的にそちらへ視線を向けてしまう自分がいる。
——慧は、今イギリスにいるはずなのに。
胸の奥が、きゅっと小さく痛む。
(面接に行ってる間だけで、こんなに寂しいのに…本当に遠距離になったら、私、大丈夫なのかな…)
スマホを手に取っては、画面を眺める。
イギリスとの時差を思い出し、今はきっと面接の最中かもしれない、と想像する。
授業中も、夜ベッドに入ってからも、ふとした瞬間に胸がきゅっとなる。
何気ない瞬間に慧のことを思い出してしまい、心がざわつく。
「今、慧はどうしてるんだろう…」
小さく呟くと、隣にいた琴音がくすっと笑った。
「彩心、大丈夫だから。慧くんはちゃんとやってるよ。」
健人も机に頬杖をつきながらからかう。
「そうそう。それよりお前、自分の受験の心配しろよ。」
「わ、わかってるよ!」
思わず三人で笑い合う。
その笑い声が、張りつめていた胸の奥を少しだけほぐしてくれた。
琴音と健人は、気づかないふりをしながらも、彩心が寂しさに飲み込まれないように、さりげなく明るい空気を作ってくれている。
慧がいなくても、彩心は一人じゃない。
離れていても想い合える人がいて、傍には支えてくれる仲間がいる。
それが、どれほど心強いことか。
彩心は、静かに胸の奥で噛みしめていた。
***
一方、その頃——
慧はイギリスのホテルの部屋で、静かにノートを広げていた。
機内の長い移動を終え、慣れない街の空気に触れた一日。
ロンドンの冬は、日本よりもどこか重たい色をしている。
窓の外には、低く垂れこめた曇り空。
石造りの建物が並ぶ街並みを、冷たい風が吹き抜けていく。
遠くでサイレンの音が微かに響き、ここが日本ではないことを改めて思い知らされる。
小さく深呼吸をひとつ。
机の上には、びっしりと書き込まれたノート。
想定質問、自己PR、時事問題への自分なりの意見。
何度も書き直した跡が、これまでの努力を物語っている。
落ち着いた眼差しでページをめくりながらも、胸の奥では、微かな緊張が波のように揺れていた。
——本当に通用するのか。
そんな不安が、ふと顔を出す。
そのとき、彩心の声がよみがえる。
『私、信じてるから。』
あの空港でのまっすぐな瞳。
涙をこらえて笑った顔。
その言葉は、まるで小さな灯のように、慧の胸に残っていた。
思い返すたびに、ざわめいていた心がゆっくりと静まっていく。
ひとりきりのホテルの部屋で、慧はそっと目を閉じた。
——迷わない。
この挑戦は、自分のためだけじゃない。
信じてくれる人たちの想いも、背負っている。
必ず結果を出す。
そして、胸を張って帰る。
そう静かに誓い、慧は再びノートへ視線を落とした。
ペン先が紙を走る音だけが、静かな部屋に響いていた。




