響け、心の音色
夏休みの終わり——
市の大ホールは、吹奏楽コンクールの緊張と熱気に包まれていた。
重厚な赤いカーテンが静かに垂れ、天井のシャンデリアが舞台をやわらかな光で満たしている。
客席のざわめきに混じる、微かなチューニングの音。
金管の低い響き、木管の澄んだロングトーン。
緊張をごまかすような小さな笑い声が、舞台袖へと流れてくる。
クラリネットのパートリーダーを務める彩心は、舞台袖で静かに深呼吸を繰り返していた。
(大丈夫。みんながいる。私が崩れたら、全部が崩れる…)
胸の奥がきゅっと締まる。
それでも、表情は崩さない。
メンバーに落ち着いた声で最終確認を伝える。
姿勢や入りのタイミング、全体の息の合わせ方——
けれど、内心では、ソロパートへの緊張が波のように押し寄せていた。
手の中のクラリネットを握る指先が、わずかに震える。
それを悟られないよう、ぎゅっと力を込める。
「彩心、大丈夫だよ。いつも通りで。」
隣に立つ琴音が、そっと囁いた。
その声は、不思議なくらいまっすぐに胸に届く。
彩心は小さく息を吐き、ゆっくりと頷いた。
(そうだ。私は一人じゃない。)
震えは、まだ完全には消えない。
それでも——前を向ける。
***
——観客席。
慧と健人は並んで腰を下ろし、静かに舞台を見つめていた。
さっきまでのざわめきが、少しずつ小さくなっていく。
「本当に出るんだな、あの二人。」
健人がぽつりと呟く。
慧は視線を逸らさず、わずかに息を飲んだ。
「…初めて見る。彩心が楽器を吹くところ。」
声は落ち着いているのに、胸の奥は妙に騒がしい。
やがて開演を告げるブザーが鳴り、ホール全体がすっと静まり返った。
咳払いひとつ響きそうなほどの静寂。
ゆっくりと幕が上がる。
照明が舞台を照らし出し、整然と並ぶ吹奏楽部の姿が浮かび上がった。
黒い制服、揃えられた譜面台、張りつめた空気。
慧の視線は自然と彩心に吸い寄せられた。
普段の笑顔や照れた仕草とは違う、堂々とした立ち姿。
初めて見る楽器を構えるその表情は、凛としながらも美しく、胸をぎゅっと掴まれるような感覚が走る。
(…彩心、こんなにかっこいいんだ…)
自分の手のひらに汗が滲むのを感じ、慧は少しだけ握りしめる。
耳に届くのは、客席のざわめきと呼吸。
舞台上の空気が張り詰める。
彩心は深呼吸を一つ、指先を軽く握り直す。
これから奏でる音に向けて、胸の奥がわずかに高鳴った。
張り詰めた静けさの中、彩心の心臓の鼓動と、慧の胸のざわめきが、そっと重なる。
***
演奏が始まる。
力強いマーチがホールに響き渡り、やがて繊細なバラードへと流れ込む。
天井に反射する音の波に、空気そのものが震えるようだった。
琴音は仲間と呼吸を合わせ、澄み切ったクラリネットの音色でメロディを支える。
その堂々とした演奏に、健人の視線は自然と釘付けになる。
(月城、いつも元気なのに、演奏だとこんな落ち着いてるんだ。なんか、いいな…)
クラリネットは、楽曲の中で温かくも力強い響きを奏でる。
彩心は緊張を抱えながらも、その一音一音に想いを込めた。
——そして、迎えるソロ。
すっと立ち上がり、スポットライトを浴びる。
客席の視線が一斉に注がれる中、彩心は迷わず吹き出した。
一音目は、凛とした光のように空気を切り裂いた。
緊張で震えていたはずの心は、音に乗せた瞬間に不思議と落ち着いていく。
流れる旋律は澄み切っていて、伸びやかで、まるで彼女の魂そのものが歌っているようだった。
力強くも繊細な音色がホールに響く。
クラリネットの音が会場を包み、観客の息を呑む。
まるで隙のない演奏。
普段の彩心からは想像できない集中力と確かな技術が、旋律に乗ってホールに広がる。
「…すごい。」
慧は無意識に口をついていた。
その瞬間、彼の瞳は完全に彩心の音色に奪われていた。
演奏が終わると、大きな拍手がホールに響き渡った。
彩心は楽器を抱きしめるように胸に下ろし、小さく息を吐く。
胸の奥に、小さな誇りが芽生えていた。
吹奏楽部は静かにステージを後にし、舞台袖へと退場していった。
***
——ロビー。
ガラス窓に夕陽が差し込み、会場を出る生徒たちの笑顔を柔らかなオレンジに染める。
彩心と琴音はクラリネットをケースにしまい、緊張の糸がほどけたように笑いながら話していた。
慧と健人がロビーで二人を待つ。
「彩心。」
慧が一歩近づき、まっすぐに彼女を見つめる。
「…本当に、感動した。あんな演奏するなんて思わなかった。すごかった…」
その言葉を聞いた瞬間、彩心の胸にじわりと熱が広がった。
演奏中は、自分の音でいっぱいいっぱいで。
ブレスも指もリズムも、ただ必死に追いかけていただけだった。
今になって、ふと実感する。
(そういえば…慧、私の演奏、ちゃんと聴いててくれたんだよね…)
嬉しさが、ゆっくり胸に満ちていく。
同時に、どうしようもない照れが込み上げてきて――
頬が熱くなる。
(嬉しいけど、恥ずかしいな…)
震える声で「ありがとう」と答えるのが精一杯だった。
慧は少し間を置いて、さらに言葉を重ねた。
「彩心の音色…俺、すごく好きだ。」
その一言に、彩心の頬がふわっと緩む。
(嬉しい…慧に、そんなふうに言ってもらえるなんて…)
込み上げてくる嬉しさに耐えきれず、思わず両手で頬を覆ってしまう。
「だめ…嬉しすぎる…」と小さく笑いながらも、隠しきれない照れが声に滲む。
耳まで熱くなっているのが、自分でもわかる。
そんな彩心の様子を見て、慧は小さく笑った。
そして、そっと手を伸ばし、愛おしむように彼女の頭を撫でる。
「ほんとだよ。」
優しく髪に触れるその手のぬくもりに、彩心の心はまたじんわりと満たされていく。
健人も茶目っ気たっぷりに笑いながらも、真剣さを交えた声で言う。
「いや〜マジで格好よかったな!俺まで緊張したわ。」
琴音もにこやかに声をかける。
「彩心、ほんとにすごかったよ。」
健人は照れ隠しのように、ぼそっと口にした。
「…まぁ、月城も悪くなかったな。」
「悪くなかったって、何よそれ!」
琴音は頬を膨らませて抗議するが、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
健人は少し視線を逸らし、今度は真剣な口調で続ける。
「いや…正直、すごかった。吹奏楽って、こんなにも胸に響くものなんだな。」
その言葉に、琴音の頬がほんのり赤く染まる。
「…なによ、篠原のくせに。でも、ありがとう。」
小さな声で返す横顔は、どこか誇らしげだった。
夕陽がロビーのガラスを黄金色に染め、遠くのホールからは次の団体の演奏が微かに漏れ聞こえる。
琴音と健人は少し離れた場所でじゃれ合い、彩心と慧は自然と手を取り合って会場を後にした。
熱気と旋律の余韻はまだ胸の奥で鳴り続け、夏の記憶として確かに刻まれていった。




