夏、全力で
インターハイの会場——
幕張メッセに隣接する総合競技場は、夏の陽射しを浴びて眩しく輝いていた。
ピッチを囲む観客席は、全国から集まった応援団の声で震え、色とりどりの旗が風に踊る。
人工芝の青が光を反射し、遠くのスピーカーから流れるアナウンスが、胸の高鳴りをさらに引き締める。
慧たちは都道府県予選を勝ち抜き、ついにこのインターハイの舞台に立っていた。
高校生活最後の大舞台。
ここで全てを出し切らなければ、後悔しか残らない——
慧はユニフォームの袖を握りしめ、スタンドを見上げた。
そこには、彩心の姿があった。
太陽に照らされ、瞳も笑顔もきらきらと輝く。
その瞬間、慧の胸はぎゅっと熱くなる。
(彩心が応援してくれるなら、絶対に後悔はしたくない。全力でやり抜きたい。)
夏祭りの夜、二人だけで過ごした静かな時間が脳裏をよぎる。
自然に触れ合った手のぬくもり。
交わしたキス。
そして彩心が囁いた言葉——
『私、いつでも慧を受け入れるから。』
その一言が、緊張で震える心をそっと包み込み、背中を押すように力をくれる。
***
スタンドでは、彩心が琴音と並んで声援を送っていた。
照りつける陽射しと観客の熱気が混ざり合い、空気はむっとするほど熱い。
応援団の太鼓が腹の底に響き、歓声が波のように押し寄せては引いていく。
彩心の視線は、ただ一人——
慧の背番号に向けられていた。
走るたびに揺れるユニフォーム。
ボールを追う真剣な横顔。
その姿を見るたびに、胸がどきどきと高鳴る。
「彩心、慧くんすごいね! ちゃんと声出して応援しなよ!」
琴音がニヤリと笑い、軽く肘で突く。
「う、うん…慧、頑張れー!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
頬が熱くなるのを感じながら、それでも視線は逸らせない。
ピッチでは、慧が相手からボールを奪い、迷いのない鋭いパスを繰り出す。
汗に濡れた髪が光を弾き、全力で駆け抜ける姿は、いつもの穏やかな彼とはまるで違って見えた。
仲間と目を合わせ、瞬時に動きを合わせる
その姿は頼もしく、眩しくて——
(かっこいい…)
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(いつもは優しくて、私を守ってくれる慧なのに…ピッチに立つ慧は、こんなにも強くて、遠い存在みたい…)
誇らしさと、ほんの少しの寂しさ。
その両方を抱えながら、彩心はただ、彼の背中を追い続けていた。
***
健人もまた、サイドで輝いていた。
慧からのパスを正確に受け止めると、迷いなく一歩踏み込む。
相手ディフェンスを鋭い切り返しでかわし、そのまま一気に駆け上がる。
次の瞬間、ゴール前へと鋭いクロスを放った。
観客席が「オーッ!」と大きくどよめき、スタンドの旗が一斉に揺れる。
太鼓の音がさらに強く鳴り響いた。
汗に濡れたユニフォームが陽射しを反射し、その表情は普段の軽い調子とはまるで違う——真剣で、鋭い。
ピッチを駆け抜ける姿は、誰よりも頼もしく見えた。
琴音が、思わず小さく呟く。
「篠原…かっこいいかも…」
自分の口から零れた言葉に、はっとする。
健人のクロスがゴール前へ吸い込まれ、決定的なチャンスが生まれる。
歓声がさらに高まり、空気が震える。
それでも琴音の胸に残ったのは、プレーの凄さ以上に——
真剣な横顔だった。
頬が、夏の陽射しとは別の熱でじんわりと染まる。
(…夏祭りのときも、あんな顔してたっけ。)
胸の奥がざわつき、慌てて視線を逸らす。
その頃、健人もまた、プレーの合間にちらりとスタンドを見上げていた。
一瞬だけ、視線が重なる。
ほんのわずかな時間。
けれど、その一瞬がやけに長く感じられる。
次の瞬間、健人は何事もなかったかのように前を向き、再び走り出す。
スタンドとピッチ。
離れているはずなのに、二人の間には確かな熱が流れていた。
その微妙で甘い空気が、夏の風に紛れてそっと揺れていた。
***
慧はピッチの上で、ただ前だけを見ていた。
ゴール前で激しくぶつかり合い、相手のタックルを紙一重でかわす。
こぼれたボールを拾い、迷わず健人へと繋ぐ。
足は重い。
呼吸は荒い。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
観客席から響く声の波の中に、確かに聞き慣れた声が混じる。
「慧、頑張れー!」
遠いはずなのに、不思議とはっきりと胸に届いた。
(彩心が見てくれてる。…だから、絶対に全部出し切るんだ。)
その思いが、疲労を押し返す力になる。
健人もまたサイドを駆け上がり、慧と視線を交わす。
言葉はいらない。
何度も繰り返してきた連携が、自然と形になる。
芝にスパイクが食い込み、汗が陽射しに散る。
仲間との一瞬一瞬が、高校最後の舞台に刻まれていく。
結果がどうであれ——
後悔だけは残したくない。
それが、二人の揺るがない思いだった。
***
ピッチ脇では、沙希がタオルとドリンクを手に、静かに試合を見つめていた。
歓声の中で響く彩心の声は、彼女の耳にも届いている。
恥ずかしさも忘れて、顔を赤くしながら必死に叫ぶ姿。
その真っ直ぐさに、沙希は思わず目を細めた。
(…慧の力は、あの子のおかげなのかもしれない。)
そう認める瞬間、胸の奥にあった小さな棘が、すっと溶けていく。
悔しさは——もうなかった。
ただ、慧が全力で戦う姿を、誇らしく思う気持ちだけが残っていた。
***
——試合終了のホイッスルが、空に高く響いた。
その瞬間、慧と健人はほとんど同時に力を抜き、ピッチに倒れ込む。
熱を帯びた人工芝の感触が背中に伝わる。
荒い呼吸。
汗に濡れた額。
それでも、二人の顔には確かな笑みが浮かんでいた。
やりきった——
その実感だけが、胸いっぱいに広がっている。
スタンドから、大きな拍手が降り注ぐ。
その中に混じる、ひときわ懸命な拍手。
慧はゆっくりと顔を上げ、スタンドを見つめる。
そこにいる彩心と目が合った。
言葉は届かない。
けれど、その笑顔だけで十分だった。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
***
その後、観客がまばらになったスタンドの出口で、沙希が彩心に歩み寄った。
その表情は牽制でも対抗心でもなく、穏やかで、どこか少しだけ切なげだった。
「青山さん。慧があんなに頑張れたの、きっとあなたのおかげね。…ありがとう。」
一瞬、彩心は驚いたように目を瞬かせる。
けれどすぐに、まっすぐな笑顔を返した。
「ありがとう、姫野さん。でも、あなたのサポートがあったからだと思う。ずっと近くで支えてくれていたんだよね。」
沙希の胸が、わずかに震える。
ふっと微笑み、二人は静かに手を差し出す。
そっと交わした握手は、競い合いでも敗北でもなく——
それぞれの想いに区切りをつけるためのものだった。
***
スタンドを出た琴音は、頬を赤らめつつ、健人に歩み寄ると、軽く肩を叩いた。
「篠原、今日のクロス、めっちゃかっこよかったじゃん。…あんたのこと、ちょっと見直した。」
わざと軽い口調で言うものの、声はどこか素直だった。
「お、おう…そんな真面目に褒めんなよ。照れるだろ。」
視線を逸らしながら頭を掻く健人。
けれどその耳は、ほんのり赤い。
琴音の無邪気な笑顔をまともに見た瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
***
一方、彩心と慧はそっと手を繋ぎ、競技場の外へと歩き出す。
熱気の残る空気。
遠くでまだ響く閉会式のアナウンス。
振り返れば、あのピッチには汗と情熱が確かに刻まれている。
「彩心、応援してくれてありがとう。君がいたから、全部出し切れた。」
素直な言葉が、自然と零れる。
「ううん。慧、本当にすごかったよ。私…そんな慧が大好き。」
そう言って、彩心は満面の笑みを向ける。
夕陽に染まったその笑顔は、まるで夏の終わりに咲くコスモスのようにやわらかく揺れて——
慧の胸の奥に、静かに、けれど確かに咲いた。
次の瞬間、彩心を強く抱きしめた。
試合中とは違う、守るような優しい力で。
夏の熱気と、まだ消えない鼓動。
その両方が、静かに胸の奥で重なり合っていく。
***
少し後ろでは、琴音と健人も並んで歩いていた。
互いに視線を逸らしながらも、口元に浮かぶ笑みを隠せない。
何気ない距離感が、ほんの少しだけ近づいている。
インターハイの余韻は、それぞれの胸に温かい灯を残していた。
この夏はきっと、忘れられない。




