守りたいこの瞬間
試合後の告白を経て、慧と彩心は正式に付き合うことになった。
放課後。
廊下の窓から差し込む光の中、慧が彩心の教室の前に立っている。
それだけで、胸がふわりと温かくなる。
特別なことはしない。
ただ、一緒に帰る。
少し近い距離で並んで歩く。
それだけで十分だった。
言葉にしたわけじゃない。
けれど、二人ともどこかで思っている。
——急がなくていい。
ゆっくりでいい。
ある日。
彩心が、慧の教室を訪れた。
扉の前に立つだけで、少しだけ勇気がいる。
「慧、いるかな…」
小さく息を吸って、扉をそっと開ける。
一歩、教室の中へ足を踏み入れた、その瞬間。
空気が、わずかに変わった気がした。
ざわめきが、すっと細くなる。
いくつもの視線が、一斉に彩心へ向けられる。
教室の奥の方から、沙希や女子たちのひそひそ声が落ちてくる
「え…あの子?」
「思ったより、普通の子じゃん。」
胸が、ひやりと冷える。
知らない顔ばかり。
ここは、慧の世界。
(…やっぱり、私なんか。)
足が、少しだけすくむ。
そのとき。
「彩心?」
教室の奥から、慧の声。
ぱっと表情を明るくして、迷いなく歩いてくる。
周囲の視線なんて気にしていないみたいに。
そして当然のように、彩心の隣に立つ。
「どうした?」
その声は、優しくて。
迷いがなくて。
周囲のざわめきが、少しだけ小さくなる。
そして、少し不機嫌そうに周囲を一瞥してから、彩心を見る。
「俺は…彩心じゃなきゃだめなんだ。」
はっきりと。
聞こえるように。
教室が、静まる。
胸の奥に溜まっていた「私なんか」が、じわりと溶けていく。
「…ありがとう。」
涙が滲みそうになるのを、必死にこらえる。
慧は少しだけ照れたように笑って、さりげなく彩心の手を引いた。
「帰ろう。」
その一言が、何よりも心強かった。
二人が教室を去ったあと、静まり返った空気の中で、沙希は握りしめた拳を震わせていた。
(…嘘でしょ。)
自分の発した「普通の子」という言葉が、慧のあの冷たくて強い拒絶によって、何倍もの惨めさになって自分に返ってくる。
慧があんな顔をするのを、自分は一度も見たことがなかった。
(私があんなに近くにいたのに…私の時間は、何だったの?)
華やかなはずの彼女の瞳が、今は絶望と屈辱で暗く淀んでいた。
***
一方で、慧のほうも周囲から冷やかされることがあった。
「なぁ、慧。お前の彼女、ほんと可愛いよな〜。羨ましいわ。」
にやにやしながら、男子が肩を叩く。
「だよな!あれを好き放題できるとか、最高じゃん。」
笑い声が重なる。
その言葉を聞いた瞬間。
彩心を軽く扱う言葉に胸がざわついた。
慧の表情が、すっと消えた。
一拍。
教室の空気が、わずかに重くなる。
「…今、なんて言った?」
低い声。
「そういう言い方、二度とするな。」
さっきまで笑っていた友人たちが、思わず黙る。
「え? 冗談だって。そんなマジになんなよ。」
「そうそう、軽く言っただけだし…」
慧はゆっくりと視線を上げた。
その目は、冷えていた。
「軽くでも言わせない。」
静かな声なのに、鋭い。
「彩心は“俺の彼女”ってだけの存在じゃない。…そんな目で見るな。」
空気が張り詰める。
誰も、笑わない。
普段は穏やかな慧の怒りに、男子たちは顔を引きつらせ、言葉を失った。
「…次は、冗談で済ませない。」
慧はそれだけ言い残して教室を後にした。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
残された友人たちは顔を見合わせ、青ざめた表情を浮かべるしかなかった。
慧の中で、彩心を「守りたい」という気持ちはますます強くなっていた。
***
期末試験が近づき、部活動が休止期間に入った頃。
慧と彩心は、放課後の教室で二人きり、机を並べて勉強をしていた。
夕暮れの光が差し込み、窓辺で彩心の髪と肌を柔らかく染めていく。
ページをめくる指先。
揺れる睫毛。
小さく息を吐く仕草。
慧はノートを覗き込むふりをしながら、無意識に彩心の仕草に目を奪われていた。
「…ここ、どう書けばいいかな?」
彩心が小さく眉を寄せる。
その何気ない仕草に胸がきゅっとなる。
「…こうじゃないかな。」
そっと指を差すと、彩心の手がかすかに触れる。
ほんの一瞬の偶然。
けれど、慧の心は一気に熱を帯び、そのぬくもりを手のひらに刻み込んだ。
「…可愛い。」
思わず零れた小さな声に、彩心が顔を上げる。
目が合った瞬間、慧の胸がまた締めつけられる。
「えへへ…そんなに見ないでよ。」
彩心が照れ笑いを浮かべて目を逸らす。
頬の赤み、呼吸の揺れ――
そのすべてが愛おしかった。
慧は自然に肩を寄せ、そっとその存在を感じ取る。
抱きしめるでもなく、手を強く握るでもなく、ただ隣に座るだけで心が満たされる。
「…落ち着くな、この瞬間。」
慧は、彩心の髪を指先で優しく撫でながら呟く。
互いの心臓のリズム、呼吸の間合い。
触れ合う前から、二人の心は確かに共鳴していた。
彩心が小さく笑ったとき、慧は心の中で思う。
――こんなに可愛いんだ。
守らずにはいられない。




