二つの波
健人と席が離れてから、彩心や琴音はほとんど彼と話さなくなっていた。
健人の方から声をかけてくることもなく、彩心も何度か話しかけようと思ったが、どこか健人が放つ近寄りがたい雰囲気に、結局言葉を飲み込んでしまう。
(…もしかして、私、避けられてる?)
そんなある日のこと。
教室は昼休みのざわめきに包まれていた。
机を引く音、窓の外から聞こえるグラウンドの掛け声、男子たちの笑い声がやけに大きく響く。
その輪の中心で、グラビア雑誌を広げた男子が彩心をからかう。
「なぁなぁ、このグラドル、青山に似てね?」
周囲から「うわー」「怒られるぞ」と冷やかす声が飛ぶ。
「は、はぁ?!何考えてんの!セクハラだから!」
顔が一気に熱くなる。
恥ずかしさと苛立ちが混ざり、心臓がどくどくと鳴る。
「いやいや、褒めてんだよ。な?お前もそう思うだろ?」
男子はちょうど通りかかった健人に同意を求めた。
「ああ…」
低く、短い声。
その声が落ちた瞬間、ざわめきの中で、そこだけ空気が少し冷えた気がした。
健人は一瞬だけ彩心を見た。
けれど、すぐに目を逸らし、そのまま通り過ぎる。
——以前なら。
絶対に一緒になってからかってきただろう。
「お前よりスタイルいいじゃん」とか、「こっちの方が可愛い」とか、わざと悔しがらせるように笑って。
それが鬱陶しくもあり、でも、どこか安心できるやりとりだったのに。
胸の奥が、じわりと痛む。
(…なによ。)
怒りたいのか、泣きたいのか、自分でもわからない。
(席が離れたって、“いつでも話せる”って言ってたのは、篠原じゃない。)
どうして今、こんなにも遠く感じるのだろう。
私が避けられているのだろうか。
それとも——
近づくのが怖くて、目を逸らしているのは、私の方…?
胸の奥で、何かが静かに崩れる音がした。
***
一方で、彩心と慧との距離は少しずつ縮まっていた。
彼は何かと彩心の席に立ち寄り、軽く声をかけてくれる。
目が合うと、思わず小さく息を詰める。
頬が熱くなるのは嬉しい証拠なのに、健人といるときの安心感を思い出すたび、心の片隅で素直に喜べない自分に気づく。
まるで胸の中で二つの波が押し寄せているかのようだ。
教室のざわめきが耳に入る。
紙をめくる音、椅子のきしむ音、遠くで笑い声が飛ぶ。
その中で、慧の笑顔だけが少し眩しく光る。
胸がちくりとした。
嫌な感じじゃない——むしろ、なんだか少し甘い。
ただ、心の中で揺れ動く感情をどう整理すればいいのか、彩心はまだわからなかった。
「最近、健人と話してない?」
慧が不意に尋ねてくる。
「…うん。」
彩心は少し俯きながら答えた。
手のひらが軽く机に触れる。
少し震えているのも、彼に見られたくない。
「そういえばそうだよね。最近、あいつ、なんか“話しかけづらいオーラ”出してんの。」
琴音が茶化すように口を挟む。
「そうなんだ…」
慧は不思議そうに呟いた。
「前は彩心のこと、保健室まで運んでくれたのに。席が離れたらそんなもんか…」
琴音はがっかりしたように肩を落とす。
彩心は何も言えず、ただ視線を机に落とした。
教室のざわめきが遠くに聞こえるようで、まるで自分だけが時間の流れから置き去りにされたかのような孤独感が胸を押しつぶす。
頬のわずかな熱と息遣いだけが、ここに自分がいる証のように感じられた。
慧は俯く彩心を静かに見つめる。
小さく震える手や肩のラインまで目に入り、言葉にならない切なさが胸の奥に静かに広がっていった。
彩心の心の中にある小さな波紋に触れるたび、自分はどう関わるべきなのかと、慧の心はそっと揺れた。




