水星蟲
翌朝、洗面台の排水溝に三匹の蟲が溺れていた。
私の住まうアパートは、町外れの川沿いに建っている。
築年数は四十年をゆうに超え、川沿いという事もあり少しよどんだ匂いを吐いている。壁は煤け、廊下の板は少し踏むだけで軋む、雨が降れば階段の隙間にしぶきが立ち、そして、夜中には配管内を何かが這い回っているような音すらする。
古い建物だから仕方がないと自分を納得させ、鼠でも繁殖しているのだろうと毎晩耳を塞ぐようにして私は眠っている。
──だが。
ある日の朝方、洗面所で歯を磨いていた時に、蛇口から流れ落ちる水が微かに──ほんの微かに光を帯びている事に気が付いた。
蛍光灯の光を反射しているのかと思ったが、水を掌に受けてみると、水滴のひとつひとつが銀粉でも含んでいるかのように薄っすらと煌めいていた。乾いた指で擦ると、砂鉄のような微弱な感触が残った。
翌日、ふたつ隣の部屋に住む独居老人にその事を話した。
老人は唇の端を少し上げ、掠れた声で「この建物は古いから、水は地下を抜けやがて星々のほうに還って行くんだ」と言った。
冗談とも、本気ともつかない声色だった。
私は苦笑して適当に相槌を打つと、背中に老人の視線を感じながら自分の部屋へと戻った。
──夜更けに目が覚めた。
天井から滴る雫の音。
見上げると、天井板に濡れた染みが広がり、その縁の辺りからか細い銀色の糸が垂れていた。
糸はゆっくりと揺れており──やがて。
翅を持つ小さな蟲が糸を伝い、下りてきた。
薄い翅は透明に近く、蠢くたびに銀光が散る。
羽音が聴こえる。
私は息をするのも躊躇いながら蟲を見つめ、夢とも現実ともつかぬ時間を過ごし、いつしか意識は溶暗していた──。
翌朝、洗面台の排水溝に三匹の蟲が溺れていた。
銀光を帯びた翅が微かに震えていた。
私は流しに水を注いだが蟲はそれに抗うように蠢き──やがて排水口の奥へと吸い込まれていった。
その日以来、蟲をよく見かけるようになった。
洗面台に始まり、台所の蛇口、風呂場の排気口、果ては私のベッドの下からと、どこからともなく舞い始め、銀光を散らしながら漂う。
夜が来るたびにそれらは増殖していった。
眠っている最中に羽音が鳴り続けた。だがどうする事もできなかった──。
やがて私は、胸の奥に羽音と蠕動を感じ始めた。
呼吸が細く、重たかった。
血管の端々へ何かが広がっていた。
ある日、鏡を覗くと、瞳の奥に銀光が輝いていた。
──まるで。
無数の翅の反射のように。
外に出てもどこか、自分の身体が光を帯びて揺らめいているような幻覚に襲われていた。
しかし、他人は誰も、何も言わなかった。
私は何となく水を避けて暮らし始めた。
蛇口を捻るのも、風呂に入るのも止めた。
それでも夜が更けると部屋中に湿り気が満ち、羽音の幻覚に襲われる。耳を塞いでも無駄だった──それは自分の中から聴こえてきていた。
畳の上に銀の蟲たちが這い、天井の染みからはとめどなく蟲たちが下りてくる。
布団の中に潜り込んできた一匹が冷たい翅で頬をなぞった時、私の中で何かがひび割れた。
翌日、また、ふたつ隣の部屋の独居老人を訪ねた。
チャイムを押しても、ドアをノックしても返事は無かった。
鍵の掛かっていない部屋に勝手に入ると、畳の上にちょうど人型の水溜りができており、そこに数え切れぬほどの蟲が浮かんでいた。老人の姿はどこにもなく、使った食器などもそのままだった。
──しかし。
上を見上げると、天井が透けて夜空が見えていた。
肉眼で水星の荒野が確認できるほど、すべてが視えていた──。
今でも夜になると、私の部屋には湿り気が満ち、天井がゆっくりと透けていく。
布団に包まって目を閉じても、まぶたの裏には銀光が散り耳孔の奥には羽音が鳴り続けている。
──いつか。
自分も。
あの老人と同じようにこの部屋から消えるのだろう。
このアパートの他の部屋にも、きっと同じ現象が起きているという確信めいたものがあった。
誰も、誰も口に出さないだけで、水星からやって来るものが、夜ごとに少しずつ近づいている。
私たちは、その銀光と羽音を受け入れながら、ただ黙って暮らしている。