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第八話「静かな部屋、開かれた窓」

土曜の夕方、塾のバイトを終えた理人は、駅前の小さなパン屋に立ち寄った。

特別な理由はなかった。ただ、そこにある匂いと灯りが、どこか落ち着く感じがしていた。

棚の端に残っていたチーズパンを一つ手に取って、レジに並ぶ。


「理人くん?」


声をかけられて、少しだけ驚いた。

振り返ると、そこには夏目がいた。手には紙袋、たぶん誰かへの差し入れ。


「あ、ごめん。急に声かけて」

「ううん、びっくりしただけ」


ほんの短いやり取り。それでも、声を交わすことで何かが整うような、そんな感覚があった。


「元気そうだね」

「そうかな。まあ、普通かな」

「普通って、大事だと思う」

夏目のその言葉は、彼にとって妙に腑に落ちた。


それ以上、言葉は続かなかった。

でも、それで十分だった。


帰宅後、シャワーを浴びて、机の前に座る。

ノートを開いたまま、少しぼーっとしていた。

日々の課題や、今後の進路、研究テーマ、論理の世界に惹かれながらも、焦りや不安がないわけではない。


けれど、どうしても「全力でやらなきゃ」とは思えなかった。

“頑張る”ことが、自分の中ではどこか不自然だった。


「本当にやりたいことが見つかったら、そんときでいいや」


ぼそっと口にしてみると、その言葉は意外にしっくりきた。

そして、「そのとき」がいつ来るかは分からないけれど、それまでの“普通”も、自分にとっては悪くないものなのかもしれない──そんな気がした。


翌朝、理人は久しぶりに窓を開けた。

夏の名残と秋の気配が入り混じる、柔らかい風がカーテンを膨らませる。

何をするでもない朝。

ただ空気を感じて、呼吸を整える時間。


彼は思う。

論理も、感情も、記号も、沈黙も──

すべてが、一つの部屋の中で共存しているような気がする。

それが自分という体系のかたち。


書き写したノートの中にある意味の模様たちも、生活のリズムの一部になっていた。

無理をしない。疲れたら休む。言いたいことがあれば、言ってもいい。

言わなくても、そこにある気持ちは、きっと存在し続ける。


午後、数学棟の屋上に立った。

ふと登ってみたくなっただけだったが、予想以上に風が気持ちいい。


遠くを見ながら、理人は小さくつぶやく。


「いつか見つかるかな……全力を注ぎたくなる何か」


そのとき、答えは返ってこなかった。

でも、探すことをやめてはいない自分がいた。

それが、今の彼にとっての“前進”だった。


少しだけ、笑ってみる。

誰も見ていない屋上で、風だけが彼の横を通り過ぎていった。


その夜、部屋の窓を少しだけ開けた。

屋上の風を思い出したわけではないけれど、外の空気がほしくなった。

カーテンの端が静かに揺れ、机の上のノートがページをめくる。


静かな部屋。

開かれた窓。

そこから差し込む光が、今日の彼の輪郭を、そっとなぞっていた。



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