第七話「意味と模様のあいだ」
朝、ぼんやりとした頭でノートを開く。
昨日の複素関数論の授業の内容を書き写そうとしたが、ペンを持った手が途中で止まった。
「この式はなんで成り立つんだっけ?」
ページの端に書かれた定理──コーシーの積分定理──は、何度も聞いたし、何度も書いた。それでも、書き出そうとするたびに、どこか“宙に浮く”感覚があった。
形としては理解している。証明も、定義も、使いどころも。しかし、そのすべてが、「知っている」の外にあるような感覚。
そのとき、ふと思い出した。
倫理の授業で、板書を写していた高校の頃のこと。
意味のわからない哲学用語をノートに書き写すだけで、少しだけ頭が整理される気がしていた。「概念と文字を結びつけておくことが、ずれを防ぐ」と、当時の先生が言っていた。
“ずれ”──
それは、今の理人にとっても、切実な問題だった。
先日、夏目と話したときのことが思い出された。
「理人くんは、言葉にするのが苦手なんだと思う。でも、それって別に悪いことじゃないよ」
「え、そう?」
「うん。言葉にしないで済むことのほうが、実は多いんじゃないかって思ってる。私は……言葉にしないと、どんどん自分の中がぐちゃぐちゃになるから言うだけ。たぶん、理人くんは、沈黙に耐えられる人なんだと思う」
その「耐えられる」という言葉に、理人は小さく反応していた。
本当に“耐えている”のか? それとも、ただ“反応しない”だけなのか?
答えはまだ出ていない。
午後の講義の前、図書館で数理論理学の本を開いていた。
ウィトゲンシュタインではなく、ゲーデルの不完全性定理についての章。
「形式体系のなかでは、すべての真理は証明できない」
その一節を読んで、理人はふと思った。
「じゃあ、自分という体系の中で、証明できないものがあるとしても……それはそれで整合的なんじゃないか?」
証明できないものがあることは、バグではなく“性質”なのだとしたら──
沈黙や、言葉にならない痛みも、ただ“写像されない”だけで、“存在しない”わけではない。
その思考が、少しだけ、理人の呼吸を楽にした。
その夜、また倫理のノートの写しを始めた。高校時代のノートは、段ボールの中にあった。
ページの端に、自分の字でメモが書かれている。
「これはこんな感じのものとなんとなくやっていると、いつのまにかすごくずれていることがあるから、縫い留めるように、これはこれ、あれはあれ、と言葉と意味、文字と概念を結び付けておくことはいいことだと思う。」
このときの自分が、いまの自分に言ってくれているような気がした。
数学の記号と、現実の意味のあいだには、橋がかかっていない。
でも、書くという行為が、その橋の“模型”くらいにはなるかもしれない。
「模様だけのノートでも、どこかで意味を育ててるんだろうか」
そんなことを思いながら、理人はまた、意味をなぞるように文字を書き写していた。
外はもう暗くなっていた。
窓を開けると、夜風がカーテンを揺らした。
今日一日を、誰にも気づかれずに終えること──
それも悪くない、と思った。
意味のあることだけが、生を構成するわけじゃない。
意味のない時間にも、確かに模様はあった。
それがいつか、言葉になればいい。
ならなくても、ただ“ある”ことを認めていたい。
それだけで、生きていくことは、少しだけやさしくなる。