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第六話「充足可能性と沈黙」

土曜の夜、塾のバイト帰り。

理人は、駅前のマックで小さなポテトをひとつ頼み、店の隅で冷めたままのそれをつまんでいた。

勤務のあと、家に帰る気分にならないとき、この場所が“ちょうどいい中継地”になった。


サッカーサークルのグループLINEでは、明日の活動について何人かがやりとりしている。理人も一応“出欠”に「行きます」と返していた。週に一度、大学のグラウンドで軽くボールを蹴る。ただそれだけの時間だが、唯一“考えないで済む時間”でもあった。


感情を扱うのが苦手な自分にとって、身体の動きはそれと無関係に成立する、数少ない現象のひとつだった。


翌朝、グラウンドには春の終わりの風が流れていた。

集まったメンバーは七人。3対3にキーパーひとりのミニゲームができるギリギリの数。笑い声はあるが、どこかみな、自分自身を持て余しているように見える。


理人は右サイドに張り、適度に走り、適度にボールを捌いた。汗が流れるほどではない。むしろ、無になる。

「考えない」という行為を実現できる数少ない時間だった。


休憩のとき、水を飲みながら、先輩の一人がぽつりと口にした。


「最近、何か楽しいことある?」


問いかけというよりは、独り言のようだった。


理人は少し考えたふりをして、首を軽く横に振った。


「まあ……でも、楽しくなきゃだめってわけでもないですし」


そう答えると、先輩はへえ、とだけ言って笑った。それ以上、何も聞いてこない。

その距離感がちょうどよかった。


帰り道、ひとりの部員──実はあまり話したことのない男──が、自転車で横に並んできた。

「理人くんって、いつも落ち着いてるよね」

そう言われて、理人は少し戸惑った。

「怒ったり、動揺したりしてるとこ、見たことない」


どう返せばいいかわからず、理人は笑ってごまかした。


それは、そうありたいから、というより、

そうでしかいられないだけだった。


怒りや不安を感じないわけではない。

ただ、それを誰かに向けるのは難しかった。

それを表す言葉を、まだ見つけられていなかった。


ウィトゲンシュタインは、こう書いた。


「命題が充足されているとき、それは真である」

「命題が語りうるのは、充足されうる内容のみである」


世界のすべてが論理で語れると信じた人の言葉。

でも、語れないことが、なかったことになるわけではない。

語りうるものしか認めない態度は、どこか暴力的でもある。


老子は、もっと穏やかに語った。


「無為にして化す」

「無名の天地の始め」


「何もしないことで物事を動かす」「名づける以前にすでに存在するものがある」

その思想は、沈黙に場所を与えてくれる。


沈黙には二種類ある。

語ることを諦めた沈黙と、語らないことを選んだ沈黙。


理人は、前者の中に長くいた。でも最近、ほんの少し、後者の側に足をかけられる気がしていた。


家に帰ると、洗濯物を取り込み、適当に昼食を済ませた。午後は特に予定がない。

机に向かう気分でもなく、スマホを放り出してベッドに横になった。


天井の模様をぼんやりと見つめながら、理人はひとつ、思った。


「頑張らなくても、生きてていいのかもしれない」


それは、どこかの誰かが「肯定」してくれたからではない。

ただ、サッカーをして、水を飲んで、何も話さなくても許されて、そんな一日が“在ってよかった”と感じられること自体が、十分な理由だった。


語られないことのなかに、真実が宿ることもある。


それがどんなに小さな気づきでも、理人にとっては確かな重みだった。

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