第五話「ドイツ語で泣く人」
火曜の午後。ドイツ語の授業は、文法中心の堅い進行からは少し外れて、今日は詩の読解だった。
Rainer Maria Rilke──ライナー・マリア・リルケ。名前だけは知っていたが、詩に触れるのは初めてだった。
教壇の前で、講師が原文を読み上げる。柔らかいが、どこか深い呼吸のような抑揚で。内容は、孤独と時間の流れについて書かれたものだった。ひとつひとつの単語の意味は拾えるが、それが全体として何を言っているのかは、はっきりしない。
けれど、不思議とその曖昧さが、心に残った。
周囲はノートに単語の意味を写したり、訳例を講師と確認したりしていた。そんななかで、一人の女子学生が、急に静かに涙を流しはじめた。
教室の時間が、少し止まった。
彼女は泣き声を立てるわけでもなく、ただ俯いたまま、目元を手で隠していた。講師は一瞬戸惑ったが、何も言わずに授業を続けた。他の学生も見て見ぬふりをしていた。理人も、そのひとりだった。
けれど、彼はそれからずっと、その涙の理由を考えていた。
授業が終わったあと、何人かが「あれ、なんだったんだろうね」と軽く言い合っていた。理人は何も言わなかった。
言葉にできることは、ほとんど何もなかった。
けれど、自分の中に、あの涙が刺さって残っていた。
言葉にならないもの。
理由がわからないのに、確かにそこにある感情。
それはまさに、自分が「写像できない」と思っていた類のものではないか──
帰り道、理人は古本屋に寄って、リルケの詩集を探した。日本語訳つきの文庫が一冊だけ残っていて、手に取った。ページをめくると、あの授業で読んだ詩が載っていた。
「Ich lebe mein Leben in wachsenden Ringen...
わたしは生の輪を描いて生きている、広がる輪を…」
その言葉の後に続く一節で、彼女は泣いたのだ。
それがどの一行だったのかはわからない。でも、どこかに「触れてしまった」のだと思った。
人は、母語でなくても、心に届く言葉を見つけてしまうことがある。
意味より先に感情が動いてしまう瞬間。
それは、論理では説明できない。文法では到達できない。
その夜、理人は珍しく何も考えずに、詩をいくつか読んだ。
理解しようとしなかった。ただ、意味の気配のようなものを感じていた。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」──
ウィトゲンシュタインのその言葉は、確かに自分を救ってきた。
けれど今は、語りえぬものを、それでも語ろうとした誰かの沈黙にも、別の意味を感じる。
言葉にできなくても、涙になることがある。
語れないままでも、それがそこに“ある”ことがある。
あの女子学生のことを、理人は知らない。名前も、顔も、生活も。
でも、あの瞬間の涙は、世界のどこかに“感情の場所”が確かにあるということを、理人に教えた。
写像できないものは、たしかに在る。
それを“ない”と切り捨てるのは、たぶん簡単すぎる。
そして、それを「見ないふりをしないこと」は、自分にもできるのかもしれない。
教室に残されたあの静かな涙の跡は、
理人の中で、まだ言葉にはならないまま、光のように揺れていた。