第四話「写像されない痛み」
複素関数論の講義が終わり、教室の空気がほぐれる。ノートを閉じる音、ペンケースのチャック、友人同士の低い笑い声──そういう雑音のような日常のなかで、宮坂理人は静かに教科書をバッグにしまっていた。
今日の内容は、正則関数と留数定理。計算は煩雑だが、美しさがある。穴の空いた関数をどう扱うか。その“例外”を、秩序のなかにどう位置づけるか。
席を立とうとしたとき、背後から声がかかった。
「ねえ、宮坂くんって、感情の整理とかどうしてる?」
不意に振り向くと、夏目がいた。講義中に何度か同じ列に座っていた記憶はあるが、直接話すのは初めてだった。
「感情……?」
「うん、たとえば、“なんでかわからないけど、すごくしんどい”みたいなとき。そういうのを、言葉でどう説明したらいいかって、考えたことない?」
理人は、言葉に詰まった。
夏目の目は真っ直ぐだった。詰問ではなく、ただ知りたがっているようなまなざし。
「……説明、しないな。というか、できないままにしてるかも」
「なんで?」
「うまく写像できないから」
夏目が小さく首をかしげた。
「写像?」
「ああ、ごめん。つまり……自分の中の感情とか状態を、言葉に変換しようとすると、必ずズレが出る気がする。定義域の一部しか切り取れない感じ」
「へえ、面白いね」
夏目は少し嬉しそうに言った。
「私、逆なんだ。どんなにズレても、言葉にしないと、もっと苦しくなる。言葉にすればするほど、ズレてても、“そこにある”って思える」
その日の帰り道、理人は駅まで夏目と一緒に歩いた。
彼女は自分の話をよくする。最近読んだ詩、昔見た映画、眠れない夜に考えてしまうこと──それらは話としてまとまりがあるわけではなかったが、彼女なりに「形にしよう」としていることが伝わってきた。
「今日の講義で出てきた“極”って、何かに似てると思わなかった?」
「極?」
「うん。“点”なんだけど、関数が定義できない。でも、そこを避けて通るわけじゃなくて、そこを中心にしてぐるぐる回りながら、値が変化する。……なんか、人間関係に似てるなって」
理人は黙って頷いた。面白い例えだと思った。けれど、同時に、自分には“ぐるぐる回る”ような感情の軌道がない気がした。
自分は、感情を中心にした回転運動ではなく、直線的な運動──あるいは、ただ漂っているだけなのかもしれない。
「宮坂くんって、話すときも整理されてるね。なんか、ズレが少ない感じ」
「……それ、褒めてる?」
「ううん、たぶん、羨ましいって言ってる。でも、ちょっとこわくもある」
こわい?
「感情って、整理されないままでも、そこにあるって思いたいときがあるの。ぐちゃぐちゃのままで、“でも私にはこれがある”って言いたい瞬間。でも宮坂くんは、そういうのを“ない”って言いそうな感じがする」
その言葉に、理人は答えられなかった。
もしかすると、自分の中にある何かを、「写像できないから」と放っておいたままにしていたのかもしれない。そしてそれを、「無い」と呼んできたのかもしれない。
それは果たして、自分を守っていたのか。あるいは、何かを置き去りにしてきたのか。
その夜、ノートにこう書いた。
「写像できないものも、在る。
定義されない感情も、欠陥ではない。
それを言葉にできる人がいる。
それがたとえ、自分ではなくても。」
ノートを閉じたあと、外の風が揺らしたカーテンの音が聞こえた。どこか遠くで、夏目の声がまだ響いている気がした。
それは、痛みを言葉に変えようとする音だった。
そしてその音は、たしかに今、理人の中にも届いていた。