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第三話「論理と食欲」

冬の終わり、理人は一週間ほど布団からほとんど出なかった。大学は春休みに入っていたし、バイトはキャンセルする理由もなかったので最低限出勤したが、それ以外の時間は、ひたすら眠っていた。食事もほとんど摂らなかった。空腹感はあったが、それを満たすことと「食べること」がなぜか結びつかなかった。


思い出そうとすると、その時間はまるで湿ったフィルムのように、くすんでいて曖昧だった。寒さは覚えている。少しでも動くと、手足が冷えて指の関節が鈍く痛んだ。


そのときの自分がどういう心境だったのか、今でも正確には説明できない。


「疲れていた」とも違う。「嫌なことがあった」わけでもない。ただ、「動こう」とするたびに、何かがスルリと滑り落ちていくような感覚だった。


その日も、朝起きて水を一口飲んでから、ベッドに沈み込んだ。スマホは横にあったが触れず、天井の模様をなんとなく見ていた。誰かと話したいとは思わなかった。人と接すると、何かを考えなければならない。そこにかかる“コスト”が、今の自分には支払えなかった。


だから、誰とも接しなかった。誰にも気づかれずに過ぎていく時間を、ただ呼吸していた。


3日目の夕方だった。


冷蔵庫に、ずいぶん前に買った食パンがあった。袋の中を確認すると、まだかろうじてカビてはいない。トースターに入れて焼いた。台所に立っていた時間は、おそらく3分にも満たなかった。


でも、焼き上がったパンの匂いを嗅いだ瞬間、妙に安心した。


それは「おいしそう」でも「食べたい」でもない。「知っている匂い」だった。


知っている、という感覚が、自分の輪郭を少しだけ戻してくれた。


そのあと、何も塗らずに食べたトーストの味を、今も覚えている。乾いていて、少し硬かった。でも、口の中に入れたとき、「あ、食べられる」と思った。それは「生きられる」と言い換えてもよかった。


その翌日、理人は老子を読んだ。


大成若缺たいせいじゃくけつ」──優れているものは、一見欠けているように見える。


それは、なにもないように見えて、内側に流れがある状態。何もしていないと思っていた日々にも、たしかに「変化」はあったのだと思う。時間に動かされるのではなく、時間の底でただ浮かんでいたような日々。


あれから理人は、「頑張らないで生きる」ことを真剣に考えるようになった。


それは怠けることとは違う。サボることでもない。エネルギーを溜めておくために、無理をしない。ただし、やりたいことが見つかれば、全力で向かいたい。そのときのために、今は“保存”の時間なのだ。


最近、ウィトゲンシュタインを読み返す時間が増えた。最初は論理に興味があっただけだったが、彼の「言語の限界」という概念は、今の自分の感覚に妙に重なるものがあった。


「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」──


この一文を読むたびに思う。

あの何もできなかった一週間、確かに“感じていた”はずのものが、自分の言葉にはならなかった。けれど、それは存在していなかったわけではない。


だからこそ今、意味にならない感情や沈黙に、そっと触れるような言葉を探しているのかもしれない。言語の限界を少しでも拡げること。それが、今の自分にできる小さな抵抗であり、祈りのようなものだった。


塾の控え室で、教務表の隅に自分の名前を見つける。今日も一樹の授業がある。彼もまた、自分の言葉で世界を説明しきれないでいるひとりなのかもしれない。


理人は、今日こそトーストではなく、ちゃんと食事をとることにした。


食べることは、思った以上に「生きる」ことに近い。

そして、“食べられた”という事実が、今日もひとつの証明になる。

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