第一話「定義の外にあるもの」
朝の教室は、まだ冷えている。複素解析学の講義が始まるまで、あと五分。宮坂理人はノートの上にペンを置いたまま、窓の外を見ていた。桜はすでに散って、グラウンドにはサッカーボールが転がっている。誰かが蹴り損ねたまま忘れていったのだろう。四月の空気は薄くて、呼吸するのも少し手間に感じた。
「宮坂、今日も早いな」
声をかけてきたのは講義の常連、理工学部の河野だ。理人は軽くうなずく。
「うん。……なんとなく」
それ以上は続けなかった。河野もそれ以上聞かない。言葉の端を踏み込まれない関係が、理人にはありがたかった。
講義が始まる。今日のテーマは「解析接続」。複素関数の定義域を連続的に広げる技法だ。黒板に描かれる図は、意味がわかれば美しい。けれど、理人の視界はどこか曇っていた。
「……初期の定義域で完結することに満足せず、より広い世界での一致を追い求める。ここに複素解析の醍醐味があるんです」
教授の言葉がどこか遠くに聞こえる。
完結することに満足しない──
それは、人間にも当てはまるのだろうか。
理人は、普段“努力している”ように見られている。出席率も高いし、成績も良い。塾で教えるときも、生徒から「先生ってなんでも知ってるんですね」と言われる。
けれど実際のところ、彼はできるだけ頑張らずに済むように日々を設計している。ノートは効率的にまとめ、移動時間も頭を休める工夫をする。人付き合いも最低限。疲れないように、無駄を避けるように、なるべく静かに生きている。それは、かつて倒れるようにして動けなくなった一週間を経て、体が覚えたやり方だった。
あのとき、ただ寝ていた。何もしたくなかった。理由もないまま、目を開けては閉じる日々。飯も食わず、スマホも見ず、それでも死にたいとは思わなかった。ただ、「動くこと」が物理的に無理だった。
その一週間が明けたあと、理人はようやく理解した。
頑張りたくないのではなく、「頑張れない」が先にあるのだと。
だから今は、頑張らなくていい状態を保つことが第一。それができていれば、やりたいことが見つかったとき、たぶん自分は全力を注げる。エネルギーを節約しているわけではない。ただ、生き延びている。
講義のあと、キャンパス内のカフェで昼食をとった。サンドイッチとコーヒーだけ。サークルの仲間が見かけて手を振ってきたが、理人は笑って軽く会釈するだけで、それ以上関わらなかった。
帰り道、歩きながら老子の一節を思い出す。
「無為にして為さざる無し」
何もせず、されるがままに。それでも、世界は回る。川の流れのように、あるがままに。その思想が、自分の感覚に近いように思える。
帰宅後、ドイツ語のテキストを開いた。今日は何もしなくていい日。でも、言語は彼にとって“頑張らない学び”だった。文法構造の規則性が、心を静かにしてくれる。意味がわからなくても、文が文としてそこに在る──それだけで救われる感覚がある。
けれど時折、それすらも遠く感じる瞬間がある。
誰かと深く話したいとは思わない。でも、話さないままでいると、どこかがさびしくなる気もする。人に継続的な興味を持てない自分が、ときどき空白のように感じられる。定義されないまま残された座標のように。
そういう自分を“寂しい”と捉えていいのかどうかも、よくわからない。
思考は巡る。論理哲学論考の一節が脳裏に浮かぶ。
「世界は、事実の総体である──物の総体ではない」
自分という存在も、個々の事実ではなく、その関係の集合なのかもしれない。そう考えると、どこか楽になる。答えを持たないまま、定義の外に生きていてもいい気がする。
そうして、今日は終わっていく。
夜、ノートを開いた。
「やりたいことが見つかったとき、ちゃんと頑張れるように、今は静かにしてる」と書く。それが、今の理人の定義だった。
外の世界は、誰かが解析し続ける。それでも、定義されないものがこの世にあると、理人は信じていた。