第1章 第8話 神都の汚泥
世界は綺麗な光景だけに限らない。
清らかな部分あるなら、その下には相応の汚さも隠れる。
そんな薄汚れた汚泥のような場所にしか生きれない者もいる。
神都アリオンの南側は、所謂歓楽街といった区画だった。
無法地帯と化した、スラム街との境に位置するそこは、お世辞にも治安の良い品性のある街とは言えない。
まだ、それなりに人通りはあるため、目に見えた犯罪は横行しないが、しかし少し路地裏に外れたら身の安全は保障されない。
本来、住民を危険から守る役目を担う存在、即ち憲兵は機能しなかった。
これは、国家が職務を放棄したわけじゃない。
介入が出来ないのである。
そのわけは、この歓楽街を実質的に支配する、ある遊郭の楼主にあった。
「ねぇ、帰ってもいい?」
と、到着して早々にそう言いだしたのは彼岸だ。
どうやら、あまり気分が優れないらしい。
その原因は分かりきったこと。
街の雰囲気が合わないのだろう。
「駄目だ」
しかし、無理やり家に帰るのも、この従者が居る限り叶わない。
隣を歩いた堕落が、それを許さなかった。
現在、客人はいない。
それゆえ、堕落は畏まった敬語を崩し、素の口調と態度だった。
「やっぱり、私の趣味じゃないわね」
はぁ、と大きな溜め息を吐いた彼岸。
周囲の街並みを見渡しながら、そう評価する。
「誰もお前の趣味は聞いてない」
堕落が突き放すように言うが、否定したわけではなかった。
境界を越えれば、別世界に迷い込んだような、そんな錯覚さえ覚える街だ。
普段、拠点とする場所とは何もかもが別物に感じられた。
所々罅割れた歩道は、実に歩きずらい。
いやに鼻の奥を刺激する甘い匂いが不快だ。
偶に此方を誘って来る、娼婦をかわしながら歓楽街の深奥に進む。
目的は娼館で娼婦を相手に欲望を発散するためじゃない。
わざわざ、気の進まない彼岸を連れ訪れたのには意味がある。
「どうやら、向こうはもういるらしい」
堕落が足を止める。
目的の娼館に、いや遊郭に着いたようだ。
『魎娜の坩堝』。
それが、この歓楽街にある最高級の遊郭であり、堕落の待ち人がいる御店だ。
高級な風俗店にも関わらず、その外装は簡素のもの。
店内に入らなければ、どういった趣旨の店舗か分からず、通り過ぎただろう。
堕落が店先にかけられた暖簾を潜り、それに彼岸が続いた。
瞬間、足元に描かれていた《次元歪曲》の魔法陣が起動し、気付けば部屋ごと移動したのがわかった。
そんなに広さはない、寝屋だ。
『魎娜の坩堝』の一角だろう。
畳が敷き詰められた狭い八畳程の和室だった。
あまり身体に良さそうに思えない、独特なお香が焚かれ、甘い汗の臭いが充満する。
和室と廻廊を隔つ障子からは、暁闇の真朱が差し込み、室内を照らした。
「随分と早い到着じゃな」
そう、出会い頭に皮肉が飛ぶ。
相手も遅刻に憤慨したわけじゃないのだろう。
これは、唯の馴れ合い。
待ち合わせをしたのは、老婆だ。
身長、背丈が異様だ。
3mをこえる上背がある。
顔は面に隠れ、その造形は猥雑。
鹿の頭蓋骨に、象の頭蓋骨を強引に組み込んだ、そんな代物。
何らかの〈魔獣〉の骨が素材なのは確かだ。
それを着る、とは言い表せないだろう。
着物を羽織るが、しかし乳房や陰部が完全には隠されない。
老婆を見た者が真っ先に頭に思い浮かぶ印象は、枯れ木だろうか。
右手、左手、右足、左足、それらが擦れただけで折れそうな、さながら樹齢を迎えたような、頼りげのない生気を失った四肢だ。
しかしながら、佇まいというのか。
纏った空気か。
歴戦且つ老獪で怪奇な雰囲気があった。
「これは手土産だ」
遅れたのを突かれるのは承知の上。
堕落は予め用意していた粗品を《異空間収納》から取り出した。
それは、戦闘不能にさせ生きた状態のまま捕らえた、零花だ。
「たまにはローズにでも恵んでやれ、瑩婀」
ふむ、と瑩婀が思考する。
それを渡され、御礼は言わずに《異空間収納》にしまった。
「なに、もしかして貴方まだあの娘で遊んでいるの?」
彼岸の認識では、もう終わったと思い込んでいた事柄だったのだろう。
信じられない、と瑩婀を見つめた。
「ふっ、貴様には理解出来んか? ローズの価値が」
見下すというより、馬鹿にした視線が面の奥から送られる。
しかし、彼岸は鼻で笑った。
「興味ないわね」
心底、下らない。
そんな心境の彼岸は視線を外す。
あまり深入りする気はなかった。
瑩婀も不毛な言い合いをするつもりはないのだろう。
動物の面がついた顔を堕落に向け、本題に入った。
「貴様も大変じゃな、こんなじゃじゃ馬を世話しないといけないのだから」
そう言われ、真っ先に反応したのは彼岸だが、しかし。
口を開き言葉を発する前に、堕落が返答する。
「餓鬼の世話は慣れたものだ」
別段、これといった苦労はない。
と、堕落は本心から伝える。
彼岸を庇う反論をするかと思ったが、その逆だった。
一瞬、期待したのが馬鹿ったと、彼岸は再度開口する。
「あのね、私はこれでも——」
そう、彼岸が語気を強め主張しようとしたとき。
すっ、と襖が左右にスライドし、両膝を折った給仕らしき女人が姿を見せた。
若干空気が険悪な中、だがそれを気にする様子もない。
自身の役職に与えられた仕事を淡々とこなす。
用意したお盆とそこに乗った急須や和菓子を座卓の上に置き、速やかに退出。
「うちのこれとは違って、質の良い下僕ね」
直接的な名指しはしないが、誰のことかは明白だ。
隠す気も無い。
半ば勢いを削がれる形となった彼岸は、不満たらたらに腕を組みそっぽを向いた。
その分かりやすい態度に、瑩婀は苦笑する。
身勝手に酷評された堕落は、しかし気にせず座卓の前に腰を下ろしたのだった。