第1章 第5話 女神の使徒
その招かれざる御客は、懇切丁寧に御辞儀を披露する。
一流の執事のようだ。
目印は銀色のおかっぱ頭。
さながら糸のように細長い糸目。
右目に付けた片眼鏡は、魔道具の類か。
顔が笑い面だった。
柔和な優男と騙されそうになるが、しかし。
敵意は感じないが、底気味が悪かった。
内心の思惑を悟らせない、分厚い鉄仮面。
その裏面を覗けない怖さがある。
身体の線は細い。
コートタイプの白衣を纏った、研究者の風貌だ。
「……誰だ」
破れた障子を跨ぎ、ローズは誰何する。
その者を、ローズは知らない。
男は答えなかった。
にやにや、と薄い笑みを向けるばかり。
「……誰だ」
同様の質問、だがローズの語気が強まる。
無視されたのが、癪に触ったらしい。
今度は返答があり、素性が明かされる。
「ベルザ様の敬虔なる眷属、ファリエルと御呼び下さい」
そう自慢げに伝えたファリエル。
ローズはその真名を存知なかった。
聞いた事がない。
それに構わずファリエルは口を開き続けた。
「あぁ、覚える必要はありませんよ」
片眼鏡の位置を調整するファリエル。
返答を待たず《異空間収納》から得物を出したのだった。
人差し指と中指に挟まれたのはトランプだ。
——狂戯符ゲウニム。
絵札それぞれ、効果が異なる。
ファリエルが持った絵札は『♤』。
これは《斬》の符号だ。
強靭な刃の役割を果たす。
ローズの視界には、様々な符号が目に入った。
見るとファリエルの周りには、狂戯符ゲウニムが巡回するように浮動する。
その狂戯符ゲウニムの一枚『joker』をファリエルは指に挟み込む。
《変幻》の符号。
効果はランダム、その時々により事象を起こすのが《変幻》だ。
今回、ファリエルが放った《変幻》は、爆発。
耳を劈き、狙いすましたような化学反応が突発する。
それは、たまたま。
偶然による産物。
《変幻》は特定の事象を狙い引ける程、都合の良い道具じゃない。
眼前が大爆発、間近に食らえばローズも擦り傷を負う威力だ。
ローズを後退させるのには充分な牽制だろう。
爆心地から姿を見せたのは、無傷のファリエル。
『♡』の符号が一枚ファリエルに張り付き、傷を癒す。
《癒》は万物を治癒する符号。
暴発とも取れる演出の代償を、大方ファリエルは《癒》で補ったわけだ。
「野蛮ですね」
言ったのは健在する堕落だ。
それが開始の合図だった。
気が付いたときには、火花が散った。
堕落の体術は歪だ。
決まった型、流派がない。
《魔力障壁》で強度が増した右拳が不規則な軌道を描き、明らかに間合いに外側なのにファリエルに裂傷を刻む。
ファリエルは《斬》で応戦。
横に薙ぎ払う堕落により、水平に飛ばされたファリエルは、だが体勢を整え着地する。
堕落を見た。
すると、姿が消える。
糸目を左右に彷徨わせた。
瞬間、ファリエルが狂戯符ゲウニムを頭頂に向けた。
——ギンッ!
狂戯符ゲウニムを打ち据える、堕落の《巨人の撃砕》。
右拳を握りしめ、そのまま押し込む。
あまりの勢いに地面には亀裂が走った。
叩き潰されたファリエルは、地面と挟まれ背中が圧迫される。
けれども、その殴打はファリエルに届かなかった。
《虚空空間》を使い、ファリエルは姿を消す。
これは《異空間収納》に酷似する《魔法》。
しかし、差異がある。
《異空間収納》は物質体を異空間に収納する《魔法》だが、一方《虚空空間》は、虚空に封じ込める《魔法》だ。
生物が《虚空空間》に囚われれば、その者の死を意味する。
術者本人は例外だ。
ファリエルは《虚空空間》を利用し、遁走を試みたのだろう。
《虚空空間》の範囲を慎重に用心する堕落は飛び退いた。
その判断は正解だ。
あと数瞬、迷いがあり行動が遅ければ《虚空空間》の中だっただろうから。
堕落は燕尾服の裾を靡かせ、静かに足をつける。
靴裏が地面に接触する瞬間だった。
堕落が急加速。
若干、前傾姿勢の堕落は右腕を僅かに動かす。
《巨人の撃砕》だ。
堕落は気付いた。
《虚空空間》で空間を移動するファリエルが、まだその場にいるという意外性に。
見えないが確かにいる。
感じる。
気配と魔力を。
《巨人の撃砕》が何もない中空を殴った。
——パリンッ。
すると、そんな割れる音が立ち《虚空空間》が崩れる。
身を晒されたファリエル。
やはり、その場に留まる選択を取ったらしい。
遅れながらファリエルが反応する。
その一瞬が命取りだ。
ファリエルの身体を疾風が十字に切り裂いた。
——《死を誘う呪いの風》。
血は流れない。
ファリエルは人工生命体だ。
体内に血液はなかった。
その代わり体内に張り巡った電気配線が臓腑のように傷口から吐かれる。
細長い管状だ。
漏れ出るのは、淡黄色の液体。
さながら大腸のよう。
電気配線は切断され、弱々しい火花が明滅する。
斬られた体勢のままファリエルは静止。
ぴたりと動かない。
堕落は足を前に進める。
一歩、二歩、三歩——。
ファリエルの目の前に行き、然れど無反応だ。
俯き加減の頭部を掴む。
持ち上げ、ぶらぶら揺さぶった。
応答は何もない。
勝敗は決しただろう。
堕落がとどめを刺す。
心臓部を《巨人の撃砕》が貫いた。
直後、堕落は全身に《魔力障壁》を張る。
起きたのは、ほぼ同時だ。
ファリエルが笑ったように見え、派手に自爆。
それは《変幻》が眩む、捨身の奥の手だった。