第1章 第3話 執行人の来襲
屋敷が崩れ落ちる。
お世辞にも豪奢とは評せない、外観が無惨に瓦解。
石片などの瓦礫の雨が頭上に降り注いだ。
草刈りのされない雑然とした庭は、土煙に覆われる。
酷い有様だった。
崩落の下敷きになった人物がいるのなら、命の補償は出来ない。
まあ、それが人ならばの話だが——。
悪魔はこれといった痛痒も覚えないだろう。
身体の再生能力が、他の種族より高い。
しかし、それに同行する客人は例外だ。
咄嗟に《魔力障壁》が張られたとはいえ、無傷とはいかない。
術式の構築が間に合わなかったようだ。
「死んだ?」
無論、人じゃない屋敷の主人も、また傷は負わない。
僅かにドレスの裾が汚れた程度だ。
付着した土を払い、貪欲の生死を確認する。
そこに焦燥はなかった。
生きようが死のうが、大した興味はないのだろう。
「この通り、五体満足だよ」
一応、どうやら命に別状はないらしい。
しかし、砕けた窓硝子の破片が掠ったのか、二の腕ら辺を抑える。
致命傷にならなかったのは幸いだ。
その二人を護るように、堕落が前に立った。
自身に《魔力障壁》を掛けずとも、擦り傷一つ見当たらない堕落は、襲撃した者に話しかける。
「無害な民間人の邸宅を爆破、これが星灯録教会の教えですか?」
素性の目星はついたようだ。
貪欲の来訪と、その時期を押し測れば割り出せる。
大方、星灯録教会の手の者だろう。
しかし、堕落は少し意外に思った。
貪欲を始末したいのは『狂笑会』の連中の筈。
そいつらより、星灯録教会の方が動きが早かった。
と、そう結論づけられるなら簡単だが——。
物事はそんな端的には思えなかった。
「女神ヴァルノレイアに選ばれし神格者《星を喰らう獣》を確認、これより捕縛を開始する」
堕落の問いかけに傾聴する意思を感じない。
問答は無用に襲い掛かった。
襲撃者は修道女だった。
頭部から顔両脇、それから首を絹の薄地、女性用頭巾が覆う。
鴉の嘴のような濡羽色の鉄仮面により顔貌は見えなかった。
被るように着るのは、踝丈のローブ、羊毛製の下着だ。
その上に脇を縫われない肩掛け、修道女の肩衣を羽織る。
如何せん体系がわかりずらいが、しかしあまり筋肉の発達はない。
腰が細い、痩せ気味の体躯だ。
右手に持たれるのは、瑠璃の微光を放つ角灯。
それは生物の命の灯火、そのものに見え魂が燃え尽きるようにも思えた。
死者の魂を黄泉に導き成仏させる神具、黄泉灯アルスタラだ。
「駄目だ」
迎え打とうとした堕落が引き止められる。
制止するのは貪欲だ。
「彼女は星灯録教会の七月花、それも最高幹部の七望冠」
だから、と貪欲は食い気味に伝えた。
その実力の一端を。
「君は〈悪魔族〉だろう? 彼女、零花と戦うのは分が悪いよ」
何故なら、零花は聖属性の術者だから。
そう、堕落に教える。
〈悪魔族〉は邪悪な存在だ。
神聖な存在とは対極に位置する。
聖属性の《魔法》は、弱点の一つだった。
「安心なさい」
言ったのは、彼岸。
片膝をついた軽傷の貪欲、その肩に手を置いた。
「何を——」
言い返す前に、戦闘は始まる。
静かに彼岸は見守った。
「《其の灯火は他が為の祝福》」
零花の口が微かに動き、術式を詠唱する。
黄泉灯アルスタラが小刻みに、からからと揺らされた。
——カランカラン。
と、鐘撞きのような、しかしそんなに重厚さはない音だ。
右から左に空虚な音色が流れる。
《阻害魔法》——《其の灯火は他が為の祝福》。
黄泉灯アルスタラの角灯、その水晶のような特殊加工がされた硝子箱から、瑠璃の灯火が漏れる。
「《理を変転させる幻惑の坩堝》」
創造が破壊になるように。
新生が死滅になるように。
真実が虚偽になるように。
零花が発動した術式は、しかし堕落の《理を変転させる幻惑の坩堝》により、無かった事象になる。
これが《理を変転させる幻惑の坩堝》。
《其の灯火は他が為の祝福》が発動した現実を、堕落が幻夢に塗り替えたわけだ。
裏返った術式という絵札は、二度と真実に戻らない。
構築の過程が歪み、発動といった結果が改変された。
「術式の破綻を感知」
動揺はしない。
零花は淡々と移行させた。
「星力の流入によるものと想定」
それは、文字通り星の力。
この星に流れる力だ。
《理を変転させる幻惑の坩堝》に、それを感じたのだろう。
「戦闘結果を検証」
動きを止めた零花は、瞬時に導き出す。
この状況の結末を。
「解答、個体名零花の損壊と確定」
それは、つまり敗北だ。
幾度、仮想しようが零花が勝利する光景は見えなかった。
実証されなかった。
「現状、イレギュラー」
零花の目的は、堕落との戦闘じゃない。
優先されるのは、貪欲の捕縛だ。
それを邪魔されたこの状況は、予想外だったようだ。
零花は突発的な判断を求められる。
「主神の神命を実行する」
それが、一体何を指すのか。
堕落には分からなかったが、零花の行動は予知出来た。
足元に展開されるのは《次元歪曲》の魔法陣。
どうやら、零花は遁走を選択したようだ。
《次元歪曲》を使い、その場から転移しようとする零花。
だが、それを堕落は許さない。
「逃げられると?」
屋敷を壊された責任は負わせる。
はなから、逃すつもりなどありはしない。
それに、聞きたい事もあった。
殺しはしないが、捕えはする。
生捕にすれば問題ない。
「《呪いの薔薇の鳥籠》」
紡いだのは封印の《魔法》だ。
零花の身体が浮かび上がる。
足元、その影から漆黒の薔薇の蔓が伸び、零花を覆うように包囲。
蔓は大きな鳥籠となった。
その中に零花は幽閉される。
《呪いの薔薇の鳥籠》は反撃に強い。
無理矢理、脱出を試みると呪われる。
それは持続型だ。
更に毎秒、効力が強まる。
解呪も容易じゃない。
《呪いの薔薇の鳥籠》の内部、閉じ込められた零花は突如、喚声を張り上げ倒れた。
身体に突き刺さるのは薔薇の棘。
肉を裂き骨を断ち、魂に刺さる。
蚯蚓の如き蔓が器官を蹂躙、毒蛇のように血管に牙を剥いた。
名状出来ない胸痛だ。
毛細血管が破裂。
眼窩、鼻腔、耳朶から血が垂れる。
零花は意識が朦朧とする中、堕落を見上げた。
とはいえ、本人が思うより視線は上がらない。
最早、その気力も残らないのだろう。
拷問はまだ終わらなかった。
仕上げはこれから。
「《呪いの灯火》」
瞬間《呪いの薔薇の鳥籠》が漆黒の炎に包まれる。
雨露のような、だが苛烈な業火は臓腑を焼いた。
生きたまま焼かれるのは、凄惨だ。
喚声が絶叫に変わる。
眼窩から血涙が流れ、荒い呼吸を繰り返す零花が泡を吹いた。
混濁とする意識、苦痛が身体の自由を縛る。
燃える《呪いの灯火》が脱出を許さず阻む。
瞳が明滅を繰り返し、徐々に光が失われた。
《呪いの灯火》とは対照的に、命が消える寸前、風前の灯火だ。
零花に抵抗する余力はない。
無様に倒れた状態だ。
動けなかった。
外部から様子を覗き見る堕落は睥睨する。
言葉を交わさず、静かに指を鳴らす。
それは《理を変転させる幻惑の坩堝》だ。
零花は思想を歪められ、主神となる対象を書き換えられた。