20、深い、不快、腐海
おそらくは地下駐車場かなにか、だったのだろう。
広く取られた地下空間、そこに広がるものを見て、俺は吐きそうになった。
「……っぐ」
俺の後ろで、文城としおりちゃんが、来たほうに駆け戻り、吐いている。
無理もないよ、俺だってそうしたかったもん。
見渡すかぎりの地面を埋め尽くす、積みあがった汚物。悪臭の原因であり、うっすらと汚い湯気が立ち上っている。
その中央に、どこからか持ってきた、天蓋付きのベッド。レースのカーテンやカバーがかけられているが、汚物のシミが点々とついて、豪華さよりも嫌悪感が際立った。
「…………」
薄い布の覆いの向こうに、誰かが横たわっている。多分、あれが柑奈のはずだ。
俺は意を決して、どす黒い汚物に棒を突っ込んで、脇にのけようとした。
ぐじゅり。
汚泥がしたたり、鼻を貫く甘い腐臭が一層周囲に広がる。その上、何か細かい虫が、うぞうぞとはい回った。
「うげぇえっ! くっそ、これ、何とかしないと!」
「ご、ごめんなさ、い。今、わたしが」
しおりちゃんが翼の飾りを振るって、魔界の植物を植え付ける。それは一見すると、暗緑色のレジャーシートのように見えた。
それは汚物の一部を包み込んで丸まり、サボテンのようなとげを生やしていく。
「これ、植えて大丈夫な奴、だよね?」
「あとで対処法と一緒に、Pの館に報告しておきます」
今は非常事態だ、細かいことは言うまい。
サボテンぽいそいつらに汚物を処理させ、ようやく臭いや虫の心配をせずに、ベッドへと近づく。
俺たちは覆いを取り除け、絶句した。
「う……っ」
そこに転がっていたのは、手足をもぎ取られた、壊れかけの玩具のようなアンドロイドの姿だった。
表面装甲の一部も剝がされ、内部構造がむき出しになっている。
「こ、孝人、さん」
震える翼で差す先、顎の部分が丸ごとなくなっている。おそらく、発声の機能をつぶすためだろう。
緑のカメラアイがあった場所も、無造作にえぐられて、暗い穴が残るだけだ。
完全な凌辱、自発的な行動を奪い去られた、虐待の痕跡。
「……柑奈、柑奈、聞こえるか! 助けに来たぞ!」
俺はベッドに近づき――
『下がって、孝人!』
ラジオからの警告。それはギリギリ、俺の命を救った。
バンッ!
炸裂するベッドの一部、視界の端を熱い刺激が焦がし、その下に仕掛けられた硝煙を吐き出す金属の箱。
「うあああっ!?」
なんて奴だ、自分の思い人が寝てるベッドに、対人地雷仕掛けるとか!?
だが、そんな悪態をつく間もなく、
『なにしてんだお前らぁあああああああっ!』
なだれ込んでくる、鋼鉄の狂気。それはベッドに横たわる柑奈を隠すように立ちふさがり、声を絞り出した。
『ボクの、ボクのボクのボクのボクのボクのボクのぉっ! ボクの大事な大事な、大好きなスキぴにぃ、なにやってんだドブカスチクショウがあああああああああああ!』
幸いなことに、右手は手首ごとなくなり、機銃掃射が封じられている。その代わり、両腕の中ほどから、湾曲したブレードが飛び出していた。
赤く染まった両目が、狂おしい熱情をほとばしらせて、俺たちをにらむ。
『わかってんだぞドブゴミども。ボクからボクの大事なラブを奪う気だろ! させないさせない! ぜったいにボクのスィートだ、ボクのボクのボクのボクだけのだ!』
「みんな無事か!」
階段を降りてきて、身構えつつ紡が叫ぶ。その体のあちこちが焦げたり、鎧が切り裂かれたりしている。
瞳の姿はない。とはいえ紡が生き残ってるんだから、不意打ちのために潜伏しているんだろう。
となれば、こいつの注意をこっちにひきつけないと。
「もうお前はおわ」
『うるさい! お前いうな! なくなれ! キモイ! なくなれ! バカ! なくなれ! バカ、なくなれええ!』
言葉の通じない狂人は、聞く気がないチンピラよりもたちが悪い。文字通り壊れた機械同然に、こちらへ悪態を繰り返すだけだ。
こうなったら、直接動いてこいつの気を引くしかない。
『……あ、ああ、みんな、聞こえる』
それは、俺の荷物に入っていた、ラジオからの声だった。
途端に深紅の目を輝かせ、狂った鋼鉄が叫ぶ。
『っきゃああああああああああああああああああああああ、かんなっ、かんなちゃ、かんな、かんなちゃんああああああああああああああああ!』
『ごめんね、あたしの、せいで、迷惑かけちゃって』
『いいいいいいあああああああ、かんなちゃ、まっててボク、すぐこいつらみんなころすから、だいじょうぶ、ずっといっしょだからああああああ!』
こいつ、心底うるせえ。
こんなクソストーカーに、付きまとわれた挙句、柑奈は殺されたってのかよ。
そいつは、なぜか俺を見つめて首を傾げ、手を伸ばした。
『よこせ』
「え?」
『それボクのだ』
早すぎる。
反応が間に合わない。
気づいた時には目の前に、すべらかな刃が俺の顔面を、
「ぅやああああっ!」
割り込む、大きな体が金属の体を吹き飛ばす。
文城の強烈な靠になすすべもなく、敵はサボテンにぶち当たり、粉々になった中身ごと汚物まみれで転がる。
「あ、ありがと文城! 死ぬかと思った!」
「うんっ」
文城の顔が引き締まっている。磨平との対決で見せた、完全に戦闘態勢の表情だ。
俺も棒を構え、備える。
『なんでおまえ、勝手なことしてんの。それは、柑奈ちゃんの『声』は』
普通の相手なら、文城の打撃とたたきつけられた衝撃で、まともに動けないはずだ。
それでも、目の前の敵は、狂った機械である魔機人は手を伸ばし、
『ボぉクだけのもの――』
「――バッカじゃないの?」
突進の途中で、流れる銀の一閃に、斬り飛ばされていた。
「柑奈の声は、柑奈のものに決まってんじゃん!」
金属がつぶれる耳障りな音が、二度、三度と響き、壁際に敵の体が横たわる。
頼む、起き上がるな。そのまま、なんかいい感じで機能を停止して。
『――――んんんぎゃあああああああおおおおおおおおおおおおおおおおおおああ!』
それは、かんしゃくを起こした子供が、おもちゃ屋の前で地団駄を踏むときの声そっくりだった。
『いや、いやあ、やだ、やああああああっ、なんでっ、なんで、やだ、やああああああんあああああああああああああああああああ!』
全身から火花が散り、両腕が吹き飛んでいる。左足がねじれて妙な角度に跳ね上がり、それでも無事だった顔面に、異様な表情のテクスチャを貼り付けていた。
初めて見せるその擬態は、くすんで荒れた肌の、ゆがみ切った中年女性の顔。
『じゃまあっ、やだ、なくなれ!、やだ、やああ! おまえらなくなれ! バカバカバカバカ! なくなれ! なくなれえええええ!』
本当に、なんなんだよこいつは。
何もかもが気持ち悪い。
人の話を聞かず、一方的に自分の中のゆがんだ愛を吐き散らす。
まるで、存在そのものが、汚物を垂れ流すために構成されているような。
「瞳! 孝人! 生きてっか!?」
階段から、複数人の足音が降りてくるのが聞こえる。
叫んでいた機械が動きを止め、口惜しい顔でベッドの上の柑奈を見つめた後、
「ま――」
「駄目だ瞳、追うな!」
瞳がためらった一瞬で、狂った機械は姿を消した。
「今回は、柑奈を助けるのが先だ。それに、お前も限界だろ」
苦し気に顔をゆがめ、構えを解く瞳。全身から立ち上る煙が、はっきり見えるほど。
その隣に立つ文城の肩から、血が流れている。さっきの接触で反撃を受けていたんだ。
合流してきたAチームのメンバーが、こちらの安否を気遣ってくれた。
「全員無事か!? よし……それなら上出来だ」
「Pの館に報告をしてまいりました。まもなく職員の方々も到着されるかと」
「とにかく、神崎さんを助けて外に出ようよ。ほんと、ひっどい臭い」
久野木さんに促され、俺たちは柑奈に近づく。
トラップのチェックをしてから、俺は文城に道を譲る。
ボロボロになった体を抱き上げて、太いネコの顔が優しく、語りかけた。
「もう大丈夫だよ、カンナちゃん」
『……ああ、この感触……』
わずかに身動きした柑奈は、安堵したようにつぶやいた。
『ありがとう……文城』
その日のうちに、阿部藜の潜伏先であるビルが、Pの館主導で家宅捜索された。
責任者として立ち会った俺は、この胸糞悪くなる誘拐事件のさらなる闇を、目撃することになった。
柑奈が安置されていた廃駐車場の奥、事務所であったらしい場所を改造した部屋で、俺は言葉を失った。
「…………っ」
壁一面に、びっしりと貼られた柑奈の写真。そのすべてに、好きという言葉が、様々な言語やスラングで、書き散らされている。
その奥で、まるで神聖な遺物を祭るようにして飾られていたもの。
柑奈を模したフィギュアと、彼女の体から引きちぎった手足やカメラアイが。
汚らしい汚物に囲まれて、祭り上げられていた。
「……イカレ野郎が……っ」
そう吐き捨てるのが、精いっぱいだった。