9、戻れない道
「どうしたの、もしかして具合悪い?」
目の前に座る瞳が、不安そうに尋ねてくる。
「いや、ほら、初めての獄層崩落だろ? 散々脅かされたせいで、さすがになー」
「だよねー。わたしも最初の時は、ほんっと怖かったもん!」
そう言いつつ、彼女は大きなバケットサンドをモリモリと食べていく。
ここはふかふか屋の二階。昼の営業から開けられる喫茶ブースで、比較的静かに食事が取れる場所だ。
艶消しの木材で造られた内装と、クッションの効いたソファや椅子のおかげで、荒れた気持ちも多少は和らぐ。
「ところで、秘密の話って?」
「あ、あー、それ、な」
楽山さんから依頼を受けた時は、北斗の野郎を困らせてやれるぐらいの気持ちだったのに、今じゃあいつの悪だくみを助けるみたいになっちまってる。
でも、目の前の瞳には、なにも悪い所はないんだ。
「実は、この街にラジオ局ができるんだよ」
「ま、マジ!? っていうか、なんで孝人がそんなこと知ってるの?」
「インスピリッツの楽山さんってヒトに頼まれてさ。カンタービレの屋上を、放送基地局に使わせてくれないかって」
「……うわぁ、ラジオ局、ホントにできちゃうんだ、すっご……え、でも、なんで?」
クリームあんパンをかじりつつ、不思議そうな顔で質問を投げる瞳。
その頬には、はみ出たあんことクリームがへばりついている。
「そういうの、普通に北斗にお願いすればいいのに」
「一回やって断られたんだって。うちには必要ないし、敷地を貸すメリットも無いからってさ」
「もー、北斗ってば。そうやって、面白そうなこと断っちゃうんだもんなあ」
「ってことで、瞳にも協力してもらって、あいつを、説得、してほしいんだ」
ああクソ。なんだよこの茶番は。
こうしてあいつは、瞳の純粋な好奇心とわがままを刺激して、仕方がないとか言いつつも、『新しいオモチャ』を買い与えてやるんだ。
そもそも『カンタービレ』だって、設立の動機の幾らかは、瞳の心をなだめるための道具という意味だったんだろう。
「やっぱり、孝人も北斗のこと、苦手?」
尋ねてくるネコの顔は、苦味といたわりの混じった、済まなさそうな笑いだった。
「……ゴメン。割とそうかな」
「そっか」
弁解やフォローの言葉もなく、赤いネコの指が、空になったパンかごを静かにゆする。
これで、俺の仕事は終わりだ。あとは北斗にこの話を伝えるように勧めて、GOサインが出たら――。
「ありがとね」
「え?」
「それじゃ、一緒に来て」
立ち上がり、瞳は先に歩いていく。
「北斗を説得するんでしょ? 崩落もすぐだし、ラジオ局作るなら早い方がいいよ!」
「あ、ああ」
その表情は見えない。
こっちを気遣う気もなく、歩き去ってしまう。
逃げるような動きに、ついて行くのがやっとだった。
「北斗、ちょっといいかな。あと、他のみんなも聞いてくれる?」
涯を追う者、その本拠点は『塔チカ』と呼ばれる、塔の南西エリアの、最も塔側に面した住宅街にある。
意外なことに、その見かけは地球の一般住宅のようで、Aチームの面々も普段着のままで、ダイニングリビングで崩落関連の書類仕事をしていた。
「どうした、瞳。それと、小倉さんまで」
普通に驚いた態度をしてみせる北斗。
大した役者だな。俺が来たってことは、打ち合わせ通りの茶番を始めるって、分かってるだろうに。
「涯を追う者のギルドマスターとして、提案があります」
「おおっ、今日はいきなり真面目な感じだねぇ、ってことは」
「またもなにやら、おねだりでござりますかな?」
「あまり、穂高さんや久野木さんを困らせませんように」
こうしてみると、このヒトたちは一種の家族みたいな関係に見えるな。
戸張さんや海老原さんは、お父さんお母さん、あるいはおじさんおばさんか。
ただ、胸に抱えるものがある久野木さんは、『お姉さん役』が、はがれかけている感じだった。
みんなを見回すと、瞳は静かに告げた。
「ギルドマスター、氷月瞳の権限で、攻略Aチームの解散を宣言します」
俺は、耳を疑った。
Aチームのメンバーも、あの北斗でさえも、素で驚いていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ瞳! いきなり何を」
「それと、久野木さん、今まで、ありがとう。退団は、好きな時にしてもらっていいからね」
その宣言と共に、北斗の怒りの視線が俺に向く。それを、瞳が鋭く遮った。
「孝人から聞いたわけじゃないよ。たぶん、そうなるんだろうなって、思ってただけ」
「な、なんで、あたしたちは、そんなこと一度も――」
「この前の塔攻略の後で、北斗、言ってたよね。文城や紡と冒険してみたいかって」
「あれは、君が二人の成長を話してきたからであって」
それまで、表情を保っていた瞳の顔が、くしゃっと潰れた。
「前も、市屋さんが辞める時も、こんな風だった。それに、わたしを見る、北斗と、久野木、さんの目が、そっくりだったから」
ボロボロと涙をこぼして、瞳は歯を食いしばって告げた。
「わたしが死んじゃう前、おとうさんとおかあさんが、わたしを見る目と!」
誰も、支えることができなかった。
部外者の俺はもちろん、事情を知っているはずのギルドの面々でさえ。
怒りと悲しみに震える瞳の存在を。
「それで、今度は孝人も巻き込んで、新しいオモチャでわたしのご機嫌を取って! 九蘭が居なくても、文城や紡を入れるから、何も問題ないって言うつもりだったの!?」
「……瞳、それは」
「嫌いっ! 北斗なんて、大っ嫌いだ!」
唐突に姿を消した彼女を、誰も追えなかった。
久野木さんは両手で顔を覆い、その肩を海老原さんが抱く。
深々とため息を吐く戸張さんと、顔を怒らせて北斗を睨む伊倉さん。
「おい、北斗よぉ、どうするつもりだ」
いつもなら、状況を立て直すべく指示を出していたであろう北斗は、凍り付いていた。
「参謀がオタついてどうする! しっかりしろよ!」
「今日は、解散してくれ。海老原さん、久野木さんをお願いします」
「チッ! だから言ってたろうが!」
今にもかみ殺しそうなネコ顔で、伊倉さんは北斗をなじった。
「策士気取りで、ヒトを舐めてんじゃねえぞって」
人々がリビングから去り、部外者の俺と北斗だけが残された。
本当に、なんなんだよ、これは。
確かにこいつもいつか、しっぺがえしが来るんじゃないかと思ってたよ。
それが、こんな。
「身内の騒動にまきこんでしまい、申し訳ありません。放送局は、そのまま進めてください。こちらの都合で、撤回はしませんので」
「そうだな。それでこそお前だよ。どんな状況だろうと冷静――で」
冷静なんかじゃなかった。
その目は悔悟と、自責でギリギリだった。
今にも叫び出しそうなのを、必死にこらえて。
「今日は、お帰りください。そして、全部忘れてください。ここで見たもの、全部」
照明の落ちた、薄暗いバーカウンター。
ムーラン・ド・ラ・ギャレットは営業を終えていて、客も店員もいない。
その隅っこで、俺はじっと、ショットグラスに満たした、緑の酒を眺めていた。
「大分、うらぶれてるね、リーダー」
今日の柑奈は、いつものメイド服じゃなかった。ロングシャツとパンツルックの、どこかガールズバンドを思わせる衣装。
「乙女さん心配してたよ、ふみっちも」
「あの二人には、言いにくくてさ」
「……もしかして、瞳になにかあった?」
「あいつのこと、どこまで知ってる?」
こちらの隣に座り、少し考えて、それから首を振った。
「言わない。そういうの、今必要?」
「ないな。そこで詮索の種を増やしたって、ゲスの勘ぐりにしかならんし」
「ただまあ、どんな感じで修羅場ったのかは、聞いてあげる。誰にも言わないから」
俺は、ラジオ局にまつわる、こんがらがった人間関係を、吐き出した。
最後の、北斗の態度を聞いて、さすがの柑奈も絶句していた。
「ホライゾンって結局、瞳で成り立つギルドなのよ。あの子の力と、キャラクター性で」
「塔の時もそうだったな。瞳が先行すれば片が付くし、あいつのフォローをすれば、自然と弱点が塞がる」
「逆に、それが間に合わなかったり、間に合う人材がいない時は?」
そうか、それで久野木さんなのか。
実際の戦闘でも、伊倉さんよりも久野木さんが追随するシーンが多かった。
瞳のギフテッド、"シフト"に対応できるだけの反射と戦闘技術が、彼女にはあった。
でも、
「たぶん、本人が限界を感じちゃったんだろうね。前にAチームに入ってた、市屋さんってヒトも、そのポジションだったんだけど」
「引退したって、言ってたな」
「体を壊して、それっきり。今はグノーシスの方で、塔に関わらない仕事で生計立ててるみたい。あそこって、そういうヒトを受け入れる面もあるから」
瞳の能力は確かに強力だ。
完全結晶の性能を引き出し、誰にもまねのできない力で、獄層クラスの敵さえ向こうに回して戦える。
だからこそ、それに釣り合う人間も限られていた。
「瞳っていう強力なジョーカーを生かすために、結成されたギルド、か」
「それを維持するために、なりふり構わずに尽くすのが、北斗ってわけ」
俺は、抱えていた不安を、吐き出した。
「まさか、ローンレンジャーに続いて、ホライゾンまで潰れるなんて、ないよな?」
「なにリーダー、自分の責任だとか思ってる?」
「そこまで思いあがっちゃいねーよ。ただ、きつくてさ」
ホライゾンのみんなは、仲がよさそうに見えた。
少なくとも、久野木さんは引退を打ち明けることをためらっていた。それが瞳を傷つけると分かっていたから、だと思う。
「なにか、出来ること、ないのかねえ」
「ないんじゃない?」
「ですよねぇ」
俺は酒を飲み干し、スツールから飛び降りた。
「北斗から許可は貰った。明日からラジオの仕事、それが終わったら獄層防衛の仕事に回るから」
「明日の朝、乙女さんも閉店準備と、避難所に造る出店の打ち合わせに入るって。パーティのみんなにも、集合かけといたよ」
「サンキュー。柑奈がいてくれれば、うちは安泰だ」
「当然でしょ」
誇らしげに胸をそらすと、彼女はグラスを受け取り、そのまま裏に去っていく。
俺は、吐息と共にわだかまりを捨て去り、部屋へと戻った。
明けて次の日。
楽山さんと一緒に『カンタービレ』の屋上についた俺たちを、待っていた者がいた。
「おはよ! 今日から作業するんだよね! ビルのオーナーとして、確認に来ました!」
戦闘ギルドのマスターとは思えない、かわいらしい普段着姿。
赤いネコの模造人、氷月瞳は笑顔で、俺たちを誘った。
「それで、何から始めるの?」