0、ユメの終わり、日常の始まり
さり、ざり、ざ、ざり。
さりさり、さっ、ざり、ざり。
「……」
なにかの、こすれる音がする。
さりっ、ざり、ざっ、ざっ。
それと一緒に何かが香ってくる。
ハーブの香り。いや違う。
ほんのり油の粘り気を下敷きに、鼻腔に染み込んでくるオレンジのような香り。
「……あ」
これはテレピン油だ。
油絵の具に使われる溶剤、久しく嗅いでいなかった、画材の匂い。
枕元で、誰かが絵を描いている。
「……だれ」
体は動かない。
夢、にしてはどこかはっきりとして、それでいてひどく不自由な。
目はうすぼんやりとした、明るい日陰の中。
必死に瞼を押し開こうとするけど、思うようにいかない。
ざ、ざっ、ざ――。
音が止んだ。
なんとなくわかる。
描きあがったんだ。
画家は絵筆を置き、それから完成したものを手に、近づいてくる。
「なあ、孝人」
それは、懐かしい声。
「起きてくれ」
その声に、応えたいと思った。
「起きて、見てくれよ」
そいつは、絞り出すように告げた。
「俺の『ほんとう』を」
目が覚めた。
慌てて起き上がり、周囲を見回す。
いつもの下宿の景色。空が明るくなりはじめ、すぐそばには寝息を立てている文城。
そして、もう一人。
「おはよ、おにいさん」
ぼさぼさの髪で目元が隠れたヤギの模造人が、手にしたスケッチブック越しに声を掛けてきた。
「お前のせいで変な夢見たぞ」
「どんな?」
「……あんまり言いたくない」
「そっか。できたぞ、おにいさん」
差し出された完成作品を見て、俺は絶叫した。
「なんでっ、俺モチーフで描くのが『裸のマハ』なんだよおおっ!」
「文城バージョン、描くか?」
「やめんかいっ! なんかセンシティブな気がするっ!」
「んああああ、こうと、うるさいよぉ」
いやいやと体をゆすぶって、部屋の隅に転がっていくデブネコ。
俺はほっと溜息をつき、立ち上がった。
「起きろ文城。朝トレ行って飯にしようぜ。ふかふか屋のモーニング行くんだろ」
「あー、うちも行くぅ! 文城もおきろー!」
そんなやり取りをしつつ階下に降りていく俺たちを、部屋から首だけ出して、ジト目で睨んでくるタレミミウサギの模造人。
「うるさくして、ごめん。帰りにパン屋行くけど、なんか買ってこようか?」
「……メンチカツサンド、二つ」
「分かった」
「他の部屋からも苦情来てんだからな。気を付けろよ」
確かに柚木の言う通りだ。
ムーランの下宿所にも、結構な数の住人が入るようになったし、以前のように騒ぐのはもう無理だろう。
四階の開いていたフロアが丸ごと作業スペースに解放され、店で販売する雑貨を生産するようになっていた。
「事務所で寝泊まりするかな。ワンフロア分開けば、騒音も伝わらないだろうし」
「仕事とプライベートはきっちり分けてよね。ふみっちはともかく、リーダーの生活臭がするのは嫌」
「うっ、あ、やめてっ、カンナちゃ、くすぐった、ふぐぅっ」
辛辣なツッコミをしつつ、メイド姿の柑奈が、ナチュラルに文城の腹を揉みしだく。
柚木の人当たりが柔らかくなったせいか、柑奈もムーランの下宿に、時々泊まりに来るようになっていた。
「あぁ~、モーニングふみっちもちもちぽんぽん~、最高ですなぁ~」
「ええい! 朝っぱらからハレンチパラダイスすんな! このダメイドがっ!」
「だから騒ぐなって言ってんだろお前らはぁ! とっとと出てけ!」
大急ぎで店を出ると、俺たちは裏手にある雑居ビルへと向かった。
軒先に出てストレッチをしていたオーガが、笑顔で声を掛けてくる。その隣で、同じように運動をするセンザンコウの模造人。
「おお、小倉君、福山君、おはよう。と、神崎君に」
「うちもいるぞ!」
「なるほど。今朝はずいぶん大所帯だな」
毎日ではないけど、最近は佐川さんと小弥太を入れたメンバーで、朝のトレーニングをするようになっていた。
そのままみんなで連れ立って、山本さんの事務所へと向かう。
「そう言えば、この後ふかふか屋に行くんですけど、佐川さんもどうすか?」
「氷橋君は朝が弱くてね。彼女の朝食のこともあるから、遠慮させてもらうよ」
「あいつ、オレと佐川さんが外で飯食うと怒るんだよな。一緒に来いって言ってもこないしさー。相変わらず、さっさと出てけってうっせーし」
ああ、小弥太君。それはそういう事じゃないと思うよ。
ってもこいつ、まだまだおこちゃまだからな、理解するのにはもう少し時間が。
「たまには外食もいいと思うんだが……彼女の気持ちは尊重しないとな」
「……おお、もぅ」
「なんだ、どうかしたか?」
がんばれ氷橋。たぶん、ちゃんと言葉にしないと伝わらないぞ、彼には。
山本さんの事務所に着くと、中庭に工務店メンバーが攻略装備を身に着けて集まっているのが見えた。
それに、フリーランスの冒険者が、結構な数で含まれている。
「おはようございます、みなさん。打ち合わせがあるので、すこし待っていていただけますか?」
「何かあったんですか?」
「『インスピリッツ』と『EAT UP』からの発令で、資材集めのクエストですよ」
「なるほど、いつもの在庫処分ですか」
何年もこの街で活動している佐川さんは、すぐに状況を理解したらしい。
漏れ聞く打ち合わせの内容は、確かに『在庫処分』と言うべきものだった。
『それじゃ"アラシシ"は全部狩りで――』
『若い木卵はその場で昼飯に――』
『目を付けてた材木もできるだけ――』
『駆虫薬の散布は帰りがけに――』
南の森は、この街の食料生産の要だ。とはいえ、次にやってくる獄層崩落で、その環境は激変する。
その前に、現在確保できるものは、可能な限り回収しておくというわけだ。
冒険者たちが挨拶を残して去っていくと、山本さんは笑顔で場所を譲ってくれた。
「お待たせしました。今日もがんばってください」
いつものように俺たちが訓練を始め、その様子を描き出す鈴来。
その隣で、なにをするでもなく、訓練の様子を眺める柑奈。
「それじゃ、おねがいします」
「おねがいします」
俺は棍の先端を、文城の棍と軽く触れさせた。
体の内側にねじこみつつ、相手の棍を抑えるようにして突き出す。
その動きにぴたりと合わせて、柔らかく巻き込むように、一撃がいなされた。
「ふっ!」
突き出された文城の一撃を、懐に招き入れるように、ギリギリでかわす。
そのまま、縦にした棍で外側に押し出しつつ、地面側の先端を、勢いよく跳ね上げた。
「うわっ!?」
軽々と後ろに飛んだ、大きなネコの体。
素早く間合いを詰めようと、追いすがった俺の眉間に、左手から伸びた棒状の武器が当てられていた。
「やっぱ、この動きじゃダメかぁ……リーチが違いすぎる」
「で、でも、僕は逃げながら牽制しただけだし……」
「こうしてカウンターになってんじゃん。気になるなら、次は前進しながら捌くのを練習しようぜ」
そんな俺たちの隣で、小ぶりな棍棒と盾を使って、小弥太が佐川さんと打ち込み稽古に入っている。
佐川さんからは一切攻撃せず、避けたり捌いたりしながら、綺麗に入った打撃をあえて受けるように動いていた。
「攻撃をする時は、盾で相手の打撃線を切るようにしろ! 打つときにできる隙を、盾でカバーするんだ!」
「は、はいっ!」
小柄なセンザンコウの体は、盾まで構えると全身が防御の塊だ。小柄なせいでリーチは短いけど、普通の攻撃で突き崩すのは難しいだろうな。
少し前は単なる体力トレーニングや素振りが中心だった小弥太も、この頃はああいうスパーリング形式が増えつつある。
まさか、あいつが冒険者になるなんてなあ。
「はいみんな、おつかれー。スポドリの差し入れだよー」
トレーニングが終わり、それぞれが休憩に入る。
文城は受け取ったドリンクを片手に、俺とやっていた棒術の話をしていた。
「……正直、想像もしなかったよ。あんなの」
呟く柑奈の視線が、小弥太も交えて戦闘の動きを相談する、ネコの顔に収束する。
嬉しそうな、寂しそうな表情に、俺も同意を示した。
「いいことなのは分かってるけど、ちょっと切ないよな」
「"食事会"の後、乙女さんも言ってた。『いつまでも子供じゃないのね』って」
「柑奈は、文城と長いんだろ?」
「今のムーランメンバーでは、あたしが最古参。ふみっちは二年後ぐらいに来たかな」
そう言えば、こういう過去の話を聞くのも、これが初めてか。
メイドロボはあえて感情を交えず、言葉を紡いだ。
「ふみっちがこっちに来た頃、あたしも色々あって、煮詰まっててね」
「意外、っていうのは失礼か。理由、聞いてもいいか?」
「アイデンティティの危機。追いすがってきた過去と、酷いバッティングしたの」
追いすがってきた過去、か。
なんだか今朝方見た夢が、妙に脳裏にちらつく。
そんな俺に気づかないまま、柑奈は淡々と告げた。
「どうにか振り払えた、とは思うんだけど。その後しばらくは、生きてること自体がどうでもよくなってて」
「それを、文城が?」
「実は、ふみっちを初めて見た時、なんだこの、きったないデブネコ、って思ってた」
転生した直後、文城はホライゾンの瞳に連れられて、ムーランの扉を叩いた。
表情は暗く、受け答えも少ない、まさに捨てられたネコのようで。
その日、乙女さんと二人掛かりで風呂に入れ、部屋に寝かしつけたそうだ。
「その頃のあたしは、何もかも面倒で、擬態もせずに生活してたから、ふみっちも最初は怖がっちゃってねー」
「もしかして、イケイケメイドさんは、素じゃなくて演技ですかい?」
「改めてそういう指摘されるの、ムカムカパラダイスなんですけどー。まあ、不機嫌な素顔より、笑顔の演技ってことよ」
そんなある日、寝ぼけた文城を階段落ちから救った時、
「って、お前も喰らってたのか、寝ぼけ文城の階段落ち」
「うちの部屋住み、みんな体験してるみたいよ。柚木もあれで死にかけたって、プリプリしてたし」
文城の肉厚な腹が、柑奈の奥深くに眠っていたものを、思い起こさせた。
「この感触、あたしの好きだったヒトと、そっくりだって」
「お前……やっぱりデブ専」
「ちっがーう! あたしのこれは――」
「孝人、カンナちゃん、またせちゃってごめんね」
気が付けば、佐川さんと小弥太はすでにいなくなっていて、文城も使った道具などを片付けて戻ってきていた。
「こっちこそ、話し込んで悪かった。次は俺も、ちゃんとやるから」
「うん。それじゃふかふか屋さん、早くいこ!」
山本さんにも挨拶を済ませると、俺たちはすっかり明るくなった大通りを、ぱちもん通りに向かって歩く。
行き過ぎるヒトたちの姿は、普段よりも物々しい格好をした連中が多い。
フリーの冒険者や、南の森へ収穫へ向かう連中。
そういうしっかりした装備に混じって、ちょっとした槍を携えた不慣れそうな姿もちらほら見える。
「崩落前って、いろいろ景色が変わるんだな」
「まあね。南の森にも人手が入るから、ちょっとしたおこぼれにあずかりたい連中も、湧きやすくなるみたい」
「昨日も、出しといたお弁当、あっという間になくなっちゃったんだよ」
その需要を当て込んだいくつかの店も、食事や弁当、冒険用の消耗品を並べている。
俺の知らなかった、モック・ニュータウンの顔、ってことか。
なんてことを考えていた俺の行く手に、意外な光景が待っていた。
「早暁より修練か。精勤、大儀である」
厳つい緋色の鎧に身を包んだ、クマの模造人と、
「おっはよー! わたしたち、これから塔に行くんだけど、一緒にどうかな!」
完全武装したパーティを従えて、快活に笑うネコの模造人が、パン屋の前に並んでいた。
俺は仲間たちに振り返り、軽く頷くと、愛想よく笑って告げた。
「とりあえず、朝飯済ませてからで、いいっすかね?」
お待たせしました、新章開幕です。今回のメインキャラは柑奈です。
彼女の過去と現在、そして未来のお話。連続三十四回更新、よろしければお付き合いください。